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偉人『レンブラント・ファン・レイン』

2026.10.16 00:00

秋になるとどうしても鑑賞したい画家の絵画がある。彼の名はレンブラント・ファン・レイン。17世紀のオランダを代表する巨匠で、光と影を巧みに使い、人間の喜びや悲しみ、苦悩、老い、そして尊厳を表現した画家である。

彼の描いたものは印象派のような煌びやかで華やかさはないが、重厚さの中の美しさと人間の生きることの重みがひしひしと伝わってくる。暗闇の中から人物や表情が浮かび上がるような光が存在し、夏の日差しがやわらぎ、秋の訪れとその静けさがレンブラントの光の深みを一層鑑賞へと導くのだろう。残念ながら彼が直に描いた油絵を日本で見ることができないため、もっぱら画集という印刷物に頼るのだが、いつか秋の訪れとともにオランダ・アムステルダムを訪れたいと考えている。今回は私尺度でレンブラントを分析し、彼の誠実さに迫ってみたい。

1606年、スペインから独立する直前のオランダで、製粉業を営む中流階級の[父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レインと都市貴族で[パン屋を営む一家の出身の母ネールチェン・ヴィレムスドホテルファン・ザウトブルーグの間に9番目の子供としてレンブラントは誕生した。7歳でラテン語学校に入学し、14歳でラテン語学校から飛び級でライデン大学へ入学を果たした。両親はレンブラントが法律家になることを期待していたが]、そこに籍を置いたのはわずかな期間であり、翌年に彼は画家を志した。当時のオランダでは美術学校がなく、レンブラントはイタリア留学経験をもつ歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りし絵画を学んだ。両親は息子が絵画やデッサンにしか興味を持たないことに気づき、大学を退学させ、画家の下で美術を学ばせた。優秀な息子に期待を寄せながらも、息子が本当にしたいことをさせるという考えを当時持っていたレンブラントの両親はかなり先進的な考えを持つ人物たちであったと言えるだろう。そして彼の作品である《放蕩息子の帰還》は過ちを犯し、傷つき、すべてを失った息子を、それでも受け入れる親の愛が描かれている。その作品《放蕩息子の帰還》では、自らの両親と自身の姿を重ねていたのではないだろうか。彼の人生を紐解いていくと、レンブラントは若くして画家としての成功と裕福な暮らしを手に入れたが、妻サスキアとの死別、購入した大豪邸や美術品の返済がうまくいかず経済的に困窮、そして破産などを経験し、精神的そして経済的に奈落の底へ落ちた。しかし彼はその困難苦難と自分自身の弱さを全て受け入れ、画家として人の内面を描き続けたのである。おそらく彼がこのような考えに至れたのは、自身の育ちと親との関わりが根底にあり、画家という職業を通して誠実に何事にも向き合うということを学んでいたからだと確信している。


1、両親の姿勢が手本となる

先述と重なるがもう一度子供時代のレンブラントについて述べておこう。

レンブラントは幼い頃から比較的恵まれた生活を送り、兄弟は父の仕事である製粉業を継いでいた。男兄弟の末っ子である優秀なレンブラントを法律家にと望んでいたが、レンブラントは学問よりも絵画の道を望み、両親は彼を学校から退かせ、画家のもとで修業することを認め専門的な修業を支えたとされている。つまり両親は息子の希望を聞くことと、その希望を実現するために支援することで息子自身が自分の道を自分で選び、その道に責任を持つ姿勢を育てたと言える。私も親としての経験があるが、親心と子供の選択が一致しない経験を丸ごと受け入れるには親としての葛藤もある。子供の選択に対して手放しに喜べないことを親はどう受け入れるべきか親として考えると難しいが、一人の人間として子供の選択を受け入れるのは容易なことである。つまり子供の人生は子供が選択すべきことで、親のものではないからである。


2、母親の存在を通した宗教観

アジア日本に住む我々の生活には仏教ほどカトリック教の教えは浸透していないが、ヨーロッパではキリスト教の教えは生活のみならず、文化や芸術とかなり密接している。レンブラントもまた母がカトリック信徒で、幼い頃から神の教えを身近なものとして成長してきた。そしてキリスト教の物語は彼の芸術にとって重要な題材であり、彼は生涯に渡り「キリストの受難、悔い改め、赦し、家族の愛」などを描いている。レンブラントが宗教画を描くとき、聖人や聖書の登場人物を遠い世界の完璧な存在としてではなく、私たちと同じように苦しみ、迷い、愛する人間として表現していることがとても興味深い点である。つまり宗教を通して誠実に生きるということを十分に学んだと言えるだろう。

余談になってしまうが日本には古来から伝わる神道がある。自然や身のまわりのものに神聖な力を感じ、感謝しながら生きていくという日本の自然観や暮らし、祭りのなかで、長い時間をかけて形づくられてきた教えである。他の宗教が唯一の教祖が定めた教えを中心とし経典がある中、日本の神道はそのようなものはなく、如何なるものにも神が宿るとして「八百万(やおよろず)の神」と表現し、3つのことを中心に生活してきたのである。

まず1つ目が『感謝すること』である。自然の恵みや日々の暮らしを支えるものに感謝することである。レッスンでも子供達に伝えていることであるが、学校へ通うのも習い事に行けることも、美味しい食事が取れるのも・・・全てあなたに関わることは両親のおかげであると話をしている。やはり感謝という心は誰かが教えなければならない。子供達には鉛筆や消しゴムにだって命があると教えているが、それはやはり私が受けてきた家庭での躾が関係もしている。子供の頃「ない、ない。どこにあるんだろう。」とものを探していると「そのものに感謝すれば、すぐに見つかるよ。感謝が足りないんだよ」と必ず言われたものである。レンブラントの教わったキリスト教の教えとは異なるかもしれないが、何事にも誠実に向き合うということを日本では「感謝」ということなのだろうと実感している。

2つ目が「清らかであること」だ。日本では神社仏閣に訪れるとき身を清めて心を鎮めて参拝すると思うのだが、日常の中でもその教えが浸透し日本は清潔な国として評価が高いのも古来から続くこの教えにあると考えている。レッスンで鼻を噛んだり口を拭いたティッシュを嬉しくないプレゼントと子供達がいつしか呼ぶようになり、これらを持ち帰ってもらうようにしている。私の方で捨てても構わないのだが、海外ではゴミが出るとその場でポイと投げ捨ててしまうことも多い。しかし日本人はゴミを自宅に持ち帰るということを幼い頃から教えられてきた。だからゴミ箱がなくても街の中が美しく保たれているのである。残念ながら例外の場所もあるが・・・。この清らかに保つことがいつしか美しく整えることになり、身の回りだけではなく、心もそして思考も整っていくのである。もし子供の身の回りが整っていないとするならば、ものに感謝し身の回りを整えるというこの2つのことをしっかりと実践させるべきである。

そして最後の3つ目は「自然や人とのつながりを大切にすること」だ。私たちの住む沖縄はまさにこの文化が根強く、年中行事や祭りなどを通じて自然の恵みへの感謝が定着している。こう書くと難しく思うが、子供達には山や川をただ利用するものとしてではなく、恵みをもたらす存在として敬うことや食べ物が自分のもとに届くまでの自然や人の働きを思うこと、その一方で自然の力は人間の思いどおりにはならないことを知り、いかに自然を大事にすることが生活の安全にも繋がってっていることなどを子供たちに授伝えることができるのではないだろうか。この教えを日本人として心に留めてレンブラントの作品を目にすると、レンブラントは幼い頃から母の宗教観を受け継ぎ、自身の身に起きることを全て受け入れ、神のもとで生きる人生を包み隠さず作品にしてきた。そう考えると子供の頃に教えを受けたものは、その生涯を通して深く深く影響するものである。


3、画家としての仕事でも誠実を培った

レンブラントは自分の顔を何十年にもわたって描き続けている。若さも老いも、顔の細かな凹凸も、皺やたるみ肌の質感の変化さえも全てを絵画表現の対象にした。彼の画家として自画像を書き続けることが自分を偽らない姿勢であり、人生を振り返る精神性だけでなく、画家としての観察と技術の追究からも誠実さというものが培われていたのである。日々目の前の自分を観察し、描いたものを見直しながら修正することを繰り返した。その積み重ねによって、表面的な美しさだけでは見えないものを描けるようになり、現代人が心惹かれる作品を生み出すことになったのであろう。

私が考えるレンブラントの「誠実さ」は両親から受け継いだ土台の上に、教育や宗教的ものが合わさり、レンブラントの身に起きた全てのことと関係しながら、長年の芸術的な探究心が芸術家としての誠実さを培ったと考えている。だからこそ、人間の顔や感情を表面的な美しさだけで表現しないレンブラントならではの深い人物描写が生まれたのであろう。

ここで「誠実とは何か」を考えてみよう。誠実とは、自分の心にも相手にも嘘をつかず、真心をもって向き合うことであるが、誠実であることはいつも正しいことを言うことでも、誰にでも親切にすることでもない。自分の弱さや間違いを認め、相手を一人の人間として尊重しようとする姿勢であり、誰も似ていないところでも自分の良心を大切にすることではないだろうか。人間の誠実さは、最初から備わった性格だけで決まるのではなく、家庭教育や環境も影響し、尚且つ自分を見つめ続けること、他人を理解しようとすることによっても深まっていくものである。その上でレンブラントの作品を見ると、自画像からは自分の姿を美しく取り繕うことだけを目的としない画家としての真摯な探究を感じ取ることができると同時に、目の前にある真実を見つめようとするレンブラントの誠実さがあると感じてならない。

先に神道に触れたので誠実さを日本独自の教えでまとめることにする。神道には「清明正直」という言葉があり、神道において大切にされてきた清らかで明るく、正直な心を表す考え方であるが、ここでいう清らかさは、欠点が一つもないことではなく、まさにレンブラントが行っていた自分の心を振り返り、偽りやごまかしから離れ、正直であろうとする誠実な姿勢であると解釈することができる。誠実であることは誰にも迷惑をかけず、いつも正しい人間になることではなく、自分の過ちを認め、相手の気持ちを想像し、自分に都合の悪いことからも逃げないことであり、自分の良心に従い生きることであり、もし良心に反したことをしたとしても、もう一度やり直そうとする精神である。そうした積み重ねが誠実さにより磨きをかけていくことになるのだ。最後に、私が子育てにおいて重要なことも誠実さだと考える。親も失敗をし弱いところもあり、自分の弱さを認めながら、それでも子育てや物事に真心をもって向き合おうとすることこそが親の誠実さではないだろうか。その親の誠実さを子供が見て育てば、子供が大きく道を外すことはないと確信していいる。

レンブラントから見えてくることは、人生どのような状況に置かれようとも誠実さというものがいかに重要であるかを教えてくれることだ。秋の物悲しさや憂いを帯びることがあるとするならば。レンブラントの画家人生を見つめる絵画の旅に出てもよいのではないだろうか。