喪失を分かち合うため
「僕はここで 3人でかけっこをするために 生まれてきたんじゃないかって」
ふと、進撃の巨人のアルミンが言ったセリフが頭に浮かんだ。
自分で自分を縛り付けているような忙しい日々の中で、
苦しいこと、ストレスフルなことも多いけれど、
私もたまに思うことがある。
なんでもない瞬間。目的から解き放たれた、他愛のない時間。
予定していなかったこと、心の通った対話。
自分はこの人と、この場所で、結論のないこの話をただ味わうために生まれてきたんじゃないか。
そう思った次の日にはそんな一瞬の幸福感は忘れ去られてしまうけど、
それでも一生懸命に生きることを続けていれば、また予期せぬときに、それは訪れる。
人の本当の悲哀を前にして、私は手も足も出ない。
自分もそれなりに悲しみを経験してきたはずなのに、
どうしてこうも、うまく癒して差し上げられないのだろうか。
と思うと同時に、やはり最後には、人は自分の傷つきを自分で癒していかなければならないのだとも思う。
自己治癒力を邪魔しない。かといって傍観しない。
お節介はしない。かといって無言ではいない。
少しずつ、
少しずつだけど、私は人を信じるということが昔よりもできるようになってきたように思う。
それは不思議なことに、自分のことを信じることができるようになってきたことと通じているようにも思う。
やや綺麗事ばかり書き連ねてしまっているかもしれない。
しかし世の中は案外、ネガティブな人が想像するよりは汚れていない。
たしかに喪失からは避けられないようだ。
大きな死と小さな死。
生まれたものはすべて、様々な在り方で、確実に死んでいく。
手も足も出ないときは、聞くしかない。
すぐにまとめない方がよいときもある。
言葉にしてしまわない方がよいときがある。
答えを留保して喪失を分かち合う。
やがて糸口が見えてくることがあって、
そこに立ち会うことに素朴に嬉しさも感じる。
感じないと続けられないとも言える。
随分と悩んだ青年期を過ごしたが、
結局、人と関わるという道を選んで良かったと思う。
仕事というよりは道である。
それは到着点のある道ではないけれど、歩き続けてみようと思えるものだ。
道の途中で見つける物事に、
ときに偶然性を、ときに必然性を見出しながら生きていく。
このために生まれてきたんじゃないか、って思える日は音楽でも聴いて。
なんだかこれからも、大丈夫そうだ。