10/11 「事実の証人」 三浦 遙牧師 聖句:使徒5:27-42
先日、日本基督教団の研修会で、障がいについて考える全国交流会に参加してきました。岩手県の奥中山にあるカナンの園で長く働かれた佐藤真名さんの講演は、能力や肩書き、障がいや支援という言葉にも捉われない、誰も偉くない交わりを目指してきたというものでした。印象に残ったのは、カナンの園を利用される方が奥中山教会で洗礼を受けられた時のお話です。難しい言葉を理解できない中で、あなたはイエス様が好きですかと問われ、はい、大好きですと答えられた。それで洗礼式が行われたのだそうです。神を愛している、そのことを伝えていく。それこそがわたし達にとっても信仰の根源なのだと思わされます。
本日の箇所は、使徒たちに対する迫害の場面で、これは2度目の逮捕でした。4章で既に一度、イエスの名によって話すなと命じられていたのに、牢に入れられたその夜に主の天使に連れ出され、夜明けにはもう神殿の境内で教え始めている。禁じられたまま、同じ場所へ戻っていったのです。捕らえたのは、復活を否定していたサドカイ派の人々でした。立たされた最高法院は、イエスを十字架へと渡す裁判を行った、まさにその議会です。大祭司はイエスの名を呼ばず、あの名、あの男と言います。対してペトロは、あなたがたが木につけて殺したイエスを、とはっきり名を呼び、わたしたちはこの事実の証人であり、聖霊もこのことを証ししておられると語りました。ペトロ達は一人ではなかったのです。ガマリエルの、放っておけ、人間から出たものなら自滅する、という助言で釈放されますが、それでも鞭で打たれています。無傷ではなかった。それでも彼らは喜び、毎日、神殿や家々で教え続けたのでした。
ペトロがここまで証ししたのは、懺悔の思いもあったでしょうが、それ以上に、イエスを愛し、愛されていることに答えたかったからでしょう。わたしたちは、イエスが大好きだと、語らずにいられないと思うことはあるでしょうか。この証しが今のわたし達にまで届いているのは、放っておいても消えなかったからではなく、話さずにはいられないと思った人が数えきれないほどにいたからだということも思い起こしていきたいと願います。