自動車問題日米文化の違い(摩擦の再来)
戦後の復興が早かったの、食品はアメリカからの援助であり、衣料の貿易摩擦で、電化製品で、自動車産業が貿易摩擦を起こしたのは、戦後もあまりたっていない頃だと思う。
だが、繊維摩擦は中小企業の業界だが、自動車はトヨタを始め日本を代表する大企業で政治問題になりやすい。
今回のトランプ大統領が、アメリカの貿易赤字に困って、赤字国に高額の関税を懸ける、と宣言したのは、米中問題で、技実を盗んだ、とか無賞供与とかで姦しい。
我が社は保税上屋で、通関業務が主力なので、つい、口を出したくなる。
★貿易戦争の勃発だと、大騒ぎだ。私は「何時か通った道だ」、と思いだした。
私がフエースブックを始めて以来10年も経つかえ、古い話であるが思い出してほしい。
日米貿易摩擦が叫ばれた頃の私の投稿である。
―自動車問題日米文化の違いを、再確認するー
★世界第一位の自動車メーカー、ジェネラル・モーター「通称・GM」が業績不振で経営が悪化して、日本のトヨタ自動車に追い上げられている。ビッグスリーと言われた、「フオード・クライスラー」などは、二位の座を既に、トヨタ自動車に明け渡したのが現状である。
★ 原油高によるガソリンの高騰で、燃費の安い小型車の需要が高まる中、その開発の後れが招いた結果と言えばそれまでだが、少し遡って自動車業界の歴史を振り帰って見たい。
★戦後間も無く、トヨタ自動車が、これからは自動車の時代が来る、と乗用車の開発を始めた時に、当時の、一万田日銀総裁が、
★「今の日本で自動車など作らなくても良い、必要であれば買えば良い」
言っていたと、聞いた覚えがある。
★講和条約を結び、独立国に成った。とはいえ、まだ、日本はアメリカが風邪を引き、クシャミをした時は、日本は肺炎になる。と言われた時代である。
★そんな頃に日本のトヨタは「スーパー」と云う、アメリカの高速道路を走ったら、オバーヒートをしてラジエーターから湯気を吐き、止まってしまう自動車を輸出していたのだ。
今頃の若者に見せれば、『何だか自動車の見たいな格好をした物だな~』と言われそうな品物である。まだ、関係者なら記憶に残っていると思う。
アメリカが自動車など日本は造らずアメリカの車を買えば良い、言えば終わりだったと思う。それを、日本の自動車産業の育つまで待っていたのである。
それは待っていても日本などたいした事は無い、と思うアメリカの傲慢かも知れぬ、けれど日本が助かったのは事実である。
★そんな、苦労をしながら、トヨタが始めて世界に通用する乗用車、として発表したのが、『乗用車・クラウン。』その価格は、忘れもしない、『デラックスが105万円』、『スタンダードが80万円』だった。
当時の自動車業界は、全て、欧米車のライセンス生産していたのである。
日産はオースチン、日野自動車はルノーをライセンス生産であった。
当時の日産自動車は、
「ボルトと一本から国産です。」と、新聞で前面広告を出していた。
本当の国産車はトヨタとプリンスだけで、これは全て自前であった。
★ 外貨の乏しかった時代、「技術料を払って何が国産だ!」と我々は、純粋の国産はトヨタとプリンスだけだ、と、トヨタの車を買って応援した。
トヨタの努力は認めるが、愛国的な国民の支援を得ていたお陰でもある。自分の力だけで世界一に成ったのではない!思い上がるなよ。
★トヨタの社員諸君は、それを肝に命じ、忘れないで欲しい。
それに対し、アメリカの大衆車・シボレーが2000ドル(当時ドル=360円)つまり、
72万円であった。
★ 外貨不足に悩む日本は輸入割当制で、観光用、官庁用、何故か?報道機関用にも割り当てがあり、数量は限定で230万円であった。つまり、アメリカの国内価格の三倍で輸入されていたのである。
さらに、そのシボレーの中古車(アメリカの駐留軍の軍人が帰国する時売ってゆく)なると闇価格400万円は付く、それでも日本人は米車が欲しかったのである。
★その後、日本産業が成長し自動車の対米輸出が200万台を超え自主規制で160万台に押さえられた頃、日本がアメリカからの輸入は一万台に達しないと言う事を何かの講演会で聞き、あ然とし、聞き直した事を覚えている。調べて見る必要がある。
日本の、マスコミはアメリカの自動車産業が合理化努力をせず、競争力を無くしたくせに政府が圧力を掛け規制するのは横暴だと騒いだ事があった。
★そんな頃、日本の新聞が、囲み記事で「GMの社員駐車場から日本車を締め出した」と如何にもアメリカが日本車を不平等な扱いをしている、感じる記事が出ていた。
私達、自動車の状況を少しでも知る者は、
「エ!アメリカの自動車工場は未だ、従業員が日本車で通勤するのを認めていたのか?」
と驚きを隠す事が出来ない。
「何と、アメリカと云う国は、馬鹿と云うか?鷹揚というか? 底の深いと言うか?得体の知れない国だ!」と思った。
★ 日本では、トヨタの工場に日産に乗って行ったら構内に入れてくれない。日産の工場にはトヨタの自動車入れないのだ。私の会社は運送会社である、使う車は「三菱のふそう」と言うトラックだ。ある時、日産の追浜工場に運ぶ貨物があった。その時はレンタカーで日産ヂーゼルのトラックを借りて運んだ事がある。
★私の経験した話を一つする、私の会社は宇治の田舎にある。地域の会社の総務部長が集まり何かの会議をした時の事である。私の会社の隣は日産車体である。その年の幹事は日産車体で会場は日産車体に決った。前述の様に日産の総務部長が言い難そうに、
「御存知の様に、弊社は日産の自動車意外の車は守衛が入れ・・・・・」
と言いかけた、時、参加者は、
「判っています、御社には、日産の乗用車で行きます、内の社有車は・・・ですから、誰か社員に日産に乗っている者に借りて行きます」
二~三人の私の知り合いの会社の総務の方が、
「豊永さん、お宅の駐車場の置かしてください、そこから歩きます」
と頼む者がいた、
「好いですよ、でも、うちも、日産も広いから、私の会社から日産の門までは送ります」と快諾したが、私の悪戯心が芽を吹いた、日産の総務部長に、
「私はデボネヤ(三菱の高級車)に乗っています。それで参ります、守衛サンに宜しく言っといてください、お願いしますょ」と言って笑った、
総務部長は「・・・・」と声も出ない、
「地域社会の会議です!日産だけで地域は出来ないですょ!」さらに、
「社長にでも、役員会でも、諮ってください、嫌ならら宇治市から工場を移転しますが?と言って見てください。
固定資産税は貴社の方が多い、宇治市は困って、市長が私のところを追い出すでしょうか?」
「判りました、今からでは時間が掛かり間に合いません!私の責任でします、当日、私が門で貴方のデボネヤを御待ちして、正面玄関まで御案内します」
と、毅然と言った。その態度が気に入ったので、
「では、御願いします、本館の正面玄関までデボネヤで行きましょう、御一緒に、そこからデボネヤは帰らせます、お宅の駐車場には入れません。帰りは御宅の車で門まで送ってください、デボネヤは門で待たせます」
と言う事になり、以後、友人と成った、二人の事は次の機会に話す。
★ 安宅財閥が破綻して、有名な安宅コレクッションに、膨大なクラッシクカーあった事は御存知だと思う。その引き取り先が無く困ってトヨタ記念館に引き取りを依頼したが、外国車は置かないと断られた、という、新聞記事に、私は「絶句」した。その後どうなったかは知らない。
★当社は、輸出産業に属する。私は、その辺の事情は熟知している。そこで当社も一台ぐらいはアメ車を買おうと、アメリカの中級車でマーキュリー・モンテゴと言うのを、一台購入してお客の送迎用に使っていた。たちまち金融機関から派手な事はするなと、注意された物である。
担当者に説明すれば理解してくれても、金融難の銀行の偉い人に悪印象を持たれると困る止めにした。
その頃、外車に乗るのは、医師、パチンコ屋、暴力団等で、我々堅気の中小企業で乗る者は無かった。
★我々、輸出作業に関る者は輸入品を買わなければと、夜の街では、ミッテラン(今ならシラクと言う所か?フランス産)の酒でも飲もうと、ヘネシー、ナポレオンなどを飲み、サッチャー(今なら、ブレヤーと云う所か、イギリス製)の服を着てやろうと、イギリス製のウールのスーツを着て歩いた。
そして、人にも勧めた、「なるほど!」と、その考えに共感した者も大勢いた。
しかし、そう言う洒落は通用しにくい。 了) 豊永高明 拝