明珍宏和「幕が上がる、その前に」第11回 ── なぜ今、オペラなのか
人間とは、なんと愚かで、浅ましく、そして愛おしい生き物なのだろうか。
文明が発達し、科学が進歩し、世界中の人々が瞬時につながることのできる時代になった。それでもなお、人間は争うことをやめず、他人を妬み、蔑み、傷つけ、時にはその命さえ奪う。
目の前に苦しんでいる人がいても、もっともらしい理由を並べて手を差し伸べようとしない。それどころか、溺れる犬に石を投げるような振る舞いをする。自らの優越感に浸り、他人を見下し、自分だけは正しいと信じて疑わない。
そして何より恐ろしいのは、人間が自分自身の愚かさを、いとも簡単に忘れてしまうことである。
人は、自分が弱い立場に置かれたときには他人の冷酷さを嘆きながら、ひとたびその境遇を脱すれば、かつての自分と同じように苦しむ人々の存在を忘れてしまう。昨日まで救いを求めていた人間が、今日は誰かを裁く側に立っている。
歴史を振り返れば、こうした人間の姿は何も現代に始まったことではない。中世から、いや、それより遥か以前から、人間は同じような過ちを繰り返してきた。どれほど時代が変わろうとも、人間の本質というものは、そう簡単には変わらないのである。
それにもかかわらず、私たちはいつの時代も、自分たちが過去の人間より賢明で、文明的で、道徳的な存在になったと思いたがる。
今日、私たちを取り巻く社会は、ますます品行方正であることを求めるようになった。
活字に親しみ、行間を読み、想像を巡らせる時間が失われつつある一方で、世の中に発表されるものには、分かりやすさや正しさ、誰からも非難されないことが求められる。人間の醜さや矛盾を描くことさえ、時としてためらわれる。
もちろん、他人を傷つけないための配慮は必要である。しかし、人間の醜さを描かないことと、人間の醜さがなくなることは、まったく別の話である。
むしろ、そうしたものから目を背け、表面ばかりを美しく取り繕っているうちに、私たちは人間という存在の本当の姿を見失ってしまうのではないだろうか。
争いや憎しみはなくならず、権力者が人の命を軽々しく論じ、公開処刑のような残酷な行為さえ政治の言葉として語られる。そんな現代に生きる私たちは、本当に過去の人々より進歩したと言えるのだろうか。
そこで、私はオペラという芸術について考えるのである。
オペラや演劇は、何百年にもわたって、人間の愚かさを描き続けてきた。
愛するがゆえに人を裏切り、嫉妬するがゆえに人を殺し、名誉を守ろうとして大切なものを失う。社会の体面や偏見によって人は傷つけられ、権力によって人生を翻弄される。
そこに登場する人々は、決して遠い昔の、私たちとは無関係な存在ではない。
彼らの中にある欲望も、嫉妬も、傲慢さも、弱さも、私たち自身の中に存在している。
ヴェルディの描いた人間の苦悩も、モーツァルトの描いた人間の滑稽さも、プッチーニの描いた愛と残酷さも、決して過去のものではない。時代や衣装が変わっただけで、私たちは今なお、同じような人間模様の中に生きているのである。
オペラの舞台に現れるのは、人間の愚かさそのものであり、同時に、その愚かな人間が持つ美しさでもある。
そもそも「普通に暮らす」とはどういうことなのだろう。
私たちが当然のように享受している日々の生活は、果たして本当に当然のものなのか。自分にとっての幸福は、他人にとっても幸福なのか。自分が正しいと信じている価値観は、本当に普遍的なものなのか。
そうした問いに、簡単な答えなどあるはずがない。
そして、芸術は必ずしも、その答えを与えるために存在しているわけではないと私は思う。
私たちは時として、芸術を人に感動を与えるためのものだと考える。しかし、私は少し違う考えを持っている。
芸術家は、誰かを感動させるために芸をするのではない。
自らが歩んできた人生と、作品の中に描かれた人生とを重ね合わせ、その作品に真摯に向き合う。喜びも、苦しみも、挫折も、後悔も、自分が生きてきたすべてを携えて、作品の前に立つのである。
そして、その姿を見た人々が、そこから何を感じ、何を考えるかは、それぞれの自由である。
ある人は自分の過去を思い出すかもしれない。ある人は他人の苦しみに思いを馳せるかもしれない。またある人は、ただ音楽の美しさを楽しむだけかもしれない。
それでよいのである。
芸術をどのように受け取るかに、正解などない。
ただ、そこに何かを考えるための種が存在することに、大きな意味があるのだと思う。
そして、その種を蒔き続けることこそ、私たち音楽家に課せられた使命の一つではないだろうか。
もっとも、音楽家自身がその使命を忘れてしまってはならない。
音楽を単なる自己表現の装飾品として扱い、名声や金銭を得るための道具とし、作品に描かれた人間の苦楽と自らの人生を重ね合わせようとしないのであれば、そこに一体どれほどの芸術的な意味があるのだろう。
私たちが音楽を突き詰めていく過程で、その音楽の中に生きる人々の営みが見えてこなければ、何の意味もないのではないだろうか。
音符の一つひとつ、旋律の一節、和声の移ろい、そして言葉の奥には、それぞれの人生がある。そこには人々の喜びがあり、悲しみがあり、祈りがあり、どうしようもない愚かさがある。
彼らは何を愛し、何を憎み、何に苦しみ、何を失ったのか。何を守ろうとし、何を信じて生きていたのか。
音楽を深く探究するということは、単に楽譜の解釈を深め、演奏技術を磨くことだけではない。その音楽の中に息づく人間の営みを知り、自分自身の人生と照らし合わせながら、人間とは何かを問い続けることでもあるはずだ。
ともすれば、私たちオペラ歌手や声楽家は、「いい声」を追い求めることそのものを目的としてしまいがちである。しかし、果たしてその「いい声」を追求することの先に、人間としての本質を見いだす何かがあるのだろうか。
もちろん、声を磨き、技術を研鑽することは、オペラ歌手として欠くことのできない営みである。しかし、オペラ歌手として声を研鑽することと、芸術として何かが発露することとは、まったく別の問題として考えなければならない。
声を磨いたからといって、それだけで芸術が生まれるわけではない。
ところが、その違いを音楽家自身が混同してしまうことがある。楽譜の中に生きる人々の営みを見つめ、それを音楽として立ち上がらせるのではなく、自らの声や技巧を披露することに終始してしまう。
それでは、音楽を奏でるというよりも、単に「一芸を披露する」ことに近いのではないだろうか。そして残念ながら、そのような演奏も決して少なくはないと感じる。
そうした人間の営みが見えてこないまま、いくら美しい音を並べたところで、それを果たして芸術と呼ぶことができるのだろうか。
楽譜に書かれた音を、ただ正確になぞるだけでよいのであれば、それはカセットデッキにもできることである。
人間が演奏する意味は、そこにその人間の生きてきた道が存在することにある。
私たちが苦悶しながら音楽を作り上げているのは、まさにその楽譜の中に息づく魂を具現化するために、七転八倒しているからなのだ。
楽譜とは、決して音符や記号が並べられた紙の上の世界ではない。その向こうには、作者が思い描いた人間の姿があり、人々の営みがあり、言葉に尽くせぬ感情や思想が息づいている。
私とともに舞台を、そして音楽を作り上げてくれているマエストロ、澤村杏太朗からは、作者の魂や息吹が見えてくる。
彼と音楽を作り上げていく中で、楽譜に記された音符の向こうに、作者が何を思い、何を描こうとしたのか、その作品の中で人々がどのように生き、何に苦しみ、何を求めているのか、そうした世界が次第に姿を現してくる。
それは、楽譜を正しく演奏するという行為だけでは決して辿り着くことのできない世界である。
一つの音、一つの言葉に向き合い、考え、悩み、時には立ち止まりながら、作品の中に生きる人々の姿を探し続ける。
作者の息吹が見えてくること。そして、作品の中から作者の思い描いた人間の営みが見えてくること。
それこそが、私たちが追い求めている音楽の道なのではないかと思うのである。
しかし、それは自分の人生を芸術に投影すればよいというだけの話でもない。
むしろ、私たちは芸術によって生かされているのである。
作品に向き合い、そこから教えられ、時に打ちのめされ、考えを改め、また新たな道へと導かれていく。芸術は自分の人生を飾るためにあるのではない。芸術が、私たちの人生そのものを育てていくのである。
彫刻家の平櫛田中は、百歳を超えてなお、創作と探究への情熱を失わなかった。
芸術の道に完成などというものはない。
人間は生涯学び続け、悩み続け、そして、その道の途中で死んでいく。
私はそれでよいと思っている。
芸術を極めたと自負するために生きるのではない。芸術に導かれ、その果てしない道を歩み続けることこそが、芸術家として生きるということなのだろう。
人間は愚かである。
そして、私自身もまた、その愚かな人間の一人にすぎない。
だからこそ、何百年も前に書かれた作品と向き合い、そこに描かれた人々の苦悩を知り、自分自身の浅ましさや弱さを見つめ直し続けなければならないのである。
古典芸術とは、過去の文化を保存するためだけに存在するものではない。
いつの時代も変わらぬ人間の姿を、時代を超えて私たちの眼前に突きつける、生きた芸術なのである。
そして、私たちがどれほど文明的になったつもりでいても、どれほど正しく振る舞っているつもりでいても、人間が人間である限り、その愚かさから完全に逃れることはできない。
だからこそ、今、オペラなのだ。
人間の愚かさを忘れないために。
そして、その愚かさの中にも確かに存在する、人間の美しさを見失わないために。
私たちはこれからも、舞台という場所に、ひたすら種を蒔き続けていきたい。
その種がいつ、どこで、どのような花を咲かせるのか。
それは、私たちが決めることではないのだから。