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一号館一○一教室

クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』

2026.10.13 06:18

なぜ広島・長崎は
描かれなかったのか?


845時限目◎映画



堀間ロクなな


 クリストファー・ノーラン監督が「原爆の父」の栄光と苦悩の半生を辿った映画『オッペンハイマー』(2023年)で、日本のわれわれをひときわ当惑させたのは、そこに広島・長崎への原爆投下がまったく描かれていなかったことだろう。本来なら、究極のクライマックスのはずなのに――。



 天才的な理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーは第二次世界大戦下、アメリカ軍がナチス・ドイツとの原爆開発競争に打ち勝つべく立ち上げた「マンハッタン計画」にもとづき、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所の所長に就任した。ヨーロッパから逃れてきたユダヤ人研究者たちをリクルートしてプロジェクトがはじまり、1945年5月8日にナチス・ドイツが瓦解したあとも継続して、7月16日に人類史上初の核実験「トリニティ」が成功する。こうして完成させた原爆が軍に引き渡されたのち、8月6日に広島で使われたことをラジオ放送で知り、間もなく日本が無条件降伏して研究所の祝賀会の壇上にのぼったかれは満場の拍手喝采を浴びながら、眼前の老若男女が放射能によって溶けていく幻を見るのだった。



 それは、オッペンハイマーが初めてみずからの所業に罪悪感を覚えたシーンだったが、われわれの目には広島・長崎の現実からすれば子どもだましのファンタジーとしか映らないだろう。



 かれは「原爆の父」として『タイム』誌の表紙を飾り、祖国の英雄となってトルーマン大統領と面会する。そして、今後のソ連(ロシア)とのあいだのさらに強力な核兵器をめぐる開発競争について見解を求められると、にわかに涙ぐんで「自分の手は血塗られているように感じます」と答えて口ごもってしまう。大統領は胸元のハンカチを差しだして「きみは広島や長崎が憎悪するのは爆弾をつくったやつだと思っているのかね。見当違いもはなはだしい、かれらが憎むのは落としたやつだ、わしだよ。きみなど関係ない」と告げて、さっさと執務室から追い払った。



 科学者と政治家のきわどい葛藤を伝えてくるものの、しかし、このシーンもわれわれにはもうひとつぴんとこないものがある。広島・長崎への原爆投下という非人道的攻撃に対して、一体、どれだけの日本人が憎悪の矛先をオッペンハイマーやら、トルーマン大統領やらに向けただろうか? そうした理解とのあいだには、何かしら根源的なボタンの掛け違いが横たわっているような気がするのだ。



 映画のなかでもアインシュタインは主要な登場人物のひとりだが、この原爆への道のりを開いた相対性理論の創始者は第二次世界大戦前夜の1932年、精神分析学者フロイトに「人間を戦争から解放する方途はあるのか?」と問いかけた。フロイトはただちに公開書簡『戦争はなぜ』をもって応じ、そこにはこんな一節を見出すことができる。



 「私たちはつまり、少しばかりの思弁によってつぎのような見解を得たのです。それは、どんな生命体の内部にもこの破壊欲動は働いており、その際、その生命体を崩壊に至らしめ、生命を生命なき物質の状態に還元しようと努めているという見解であります。この欲動は、エロス的諸欲動が生命を志向するもろもろの努力を代表するものであるのに対し、断固死の本能と名づけるに値したのでした。死の本能は特別の諸器官の助けを得て、破壊欲動となります。生命体は異質の生命を破壊することを通していわば自らの生命を保存いたします。〔中略〕」ことによると、私どもの理論は一種の神話学であって、しかもこの場合決して喜ばしい神話学ではない、という印象を受けられたかもしれません。しかし、いかなる自然科学も結局はそういう類の神話学になるのではありますまいか。それとも今日物理学の分野で、違ったことを体験しておられるのでしょうか」(佐藤正樹訳)



 この文章が「マンハッタン計画」よりも早いタイミングで書かれていたことに、わたしは衝撃を受けないではいられない。まさしく原爆とはたんなる武器でなく、「生命体を崩壊に至らしめ、生命を生命なき物質の状態に還元しようと」もくろむものであり、1945年8月に広島・長崎を見舞ったのはこうした「死の本能」の神話学の顕現であった。その恐るべき事態を経験したわれわれは、憎悪の矛先を卑小な一個人に向けるといった段階をとっくに通り越した一方で、アメリカは原爆開発から80年以上の歳月を経たいまなお、あくまで人間業のカテゴリーとして主張するあまり、「死の本能」の神話学からほど遠いところをさまよっているのだ。



 冒頭の疑問に立ち返ってみたい。なぜこの映画では、広島・長崎の原爆投下がまったく描かれなかったのか? その答えはもはや明らかなように思う。