人は「決めつける」方が楽である
ごくごく、当たり前のことを書きます。
当たり前のことだけど、多くの人が忘れがちなこと。
そして対人関係でうまく行かないことが多い人が、つい、やってしまいがちなこと。
それは「私は私。相手は相手。それぞれ人格は別である」ということを、多くの人が忘れがちであるということ。
そして、他人のことを「決めつける」ことをしてしまうことが意外と多い。
そんなことを書こうかな、と思います。
相談を受ける
先日、友達からちょっとした相談を受けました。
話には登場人物が数名出て来たのですが、私が直接知るのは相談をしてきた友達だけ。
私がそのゴタゴタに何が出来るでもないし、するつもりもない。
それでも友達なのでね。
その友達のモヤモヤが解消したり、とりとめのないLINEであろうと、吐き出すことで気持ちがスッキリしてくれたらな、と。
まぁ、多くの人は相談の時に「こんなことがあって」「あんなこと言われて」など、ある程度は詳細に出してきますよね。
友達には申し訳ないけど(きっとこれも読むであろうと思ってるけど/苦笑)、私は先述の通り、友達の気持ちがスッキリする方向に向かえば、何が起きたのかを知ることは、そんなには大事じゃないので「まぁ、気が済むまで吐き出させよう」と、友達が書きたいことを書き終わるのを待ち(苦笑)、それを見て感じたことを伝える。
ただ、「モヤモヤをなくしたいだろうだなぁ」とは思ったので、解決できそうな方法、手段なども伝えたりはしていました。
伝えた解決方法などは、また追って書くかもしれないけど。
「感情ノート」で検索すると、沢山出てくると思うので、やっぱり書かないでいよう。
気になる人は、「感情ノート」で検索したもので、自分にフィットしたものを見てください(苦笑)。
で、その友達の相談内容(そこに至る経緯)を聞いて感じたことを。
冒頭に書いたよう、多くの人が「分かっている」つもりで、実はよく分かっていないことなんだろうって思ったんですよね…。
人との距離感
友達の相談内容は、ちょっとしたお手伝いの時に起きたトラブル。
4人の登場人物がいるのですが、見事にどこか、皆さん「相手のことを決めつけている」ように感じました。
友達にもそれを伝えたら「確かにそうだったかもしれない」とのこと…。
でも、私の友達、普段はそんなタイプに感じていなかったので「おかしいな?」と…。
他の3人の方々は姿形も知らない方々なので、何とも言えないけど…。
ただ、いつもと大きく違っていたのは、友達に精神的な余裕が感じられなかったこと。
本当にそれくらいなんだけど、精神的な余裕がない時って、判断も誤りやすいので、まぁ、起きてしまったことは「仕方ない」と、第三者からは言えるけど、当事者たちはどうなんだろうなぁ…、と。
とはいえ、私は当事者ではないので、友達への叱咤激励に終始するしかないんですけどね。
「私」から「相手」を見た時。
「相手」が「私」を見ている場合。
お互いが「何を考えているのかな?」という時。
本来なら、このような図の状態ですよね。
この赤い線が「境界線」です。
「私」と「相手」の間には、しっかりと境界線があります。
その「相手」が親であろうと、恋人や配偶者といった、近い関係の人であっても、それは同じです。
よく「人との距離感」という言葉を聞くことがあると思うのですが…。
- お互いに適切な太さの境界線を引いている
- お互いに相手に対して過度に介入していない
- 相手にとっての「事実」であっても、自分にとっては常に「想像」でしかないと、理解している
これが出来ている者同士が「適切な距離感を保っている」関係性だと思うんです。
細く長くであっても、気持ちよく続く関係性かもしれません。
が。
この境界線って、色々な状況で、どこか薄くなってしまうことがあります。
図にすると、こんな状態ですね。
(何だかバカリズムの「持つとしたら、こうですね」という、都道府県ネタが頭によぎりました…。ふざけてごめんなさい…)
こうやって、相手との境界線が薄くなってしまうと、「相手のことが分かった」ような気分になってしまうんですよね、何となく「見えている」んじゃないかと感じてしまうんです。
それって、ちょっと怖いかもしれないですよね。
「他人の気持ちが分かったら、トラブルはないのに」と思うかもしれません。
でも、「自分が隠しておきたいことも相手に筒抜けだ」としたら、どうでしょうか?
それでも。
先述のように「人と適切な距離感が取れている」場合を振り返ってみます。
- お互いに適切な太さの境界線を引いている
- お互いに相手に対して過度に介入していない
- 相手にとっての「事実」であっても、自分にとっては常に「想像」でしかないと、理解している
この境界線の太さがたとえ細くて薄くても。
- 相手に対して過度に介入していない
- 相手にとっての「事実」であっても、自分にとっては常に「想像」でしかないと、理解している
この2つさえ、しっかりと実践できていればいいだけです。
また、境界線が薄い人の中には、それが初めて会う相手であっても、相手の感じていること、考えていることが何となく分かる人がいます。
しかも相手から見たら「自分のことを理解してくれている」と感じるよう、まるで手に取るように他人の気持ちが分かるような人もいます。
そんな人は、人の痛みも理解できるため、「相手を思いやる気持ちが強い」という特徴もあります。
奉仕的な性格をしていることも多いように思います。
そんな人であっても、しくじることがあります。
それこそ。
- 相手に対して過度に介入していない
- 相手にとっての「事実」であっても、自分にとっては常に「想像」でしかないと、理解している
この片方、または両方の実践が出来ていない人は、どれだけ思いやり深くても、優しくても、人とのトラブルが起きてしまうことがあります。
図にすると、こんな感じです。
相手の行動、言動、さらに過去での行動や言動を踏まえて(この時点で自分の「想像」ですよね)、相手に対して「こういう人なんじゃないか」と思うようになる。
つまり、自分の想像でしかないことを、相手の「事実」としてしまい、相手の領域に勝手に介入してしまっているんですよね。
そして、「きっとそうだろう」と、それが仮定であっても、次第に決めつけてしまう。
こんな図の状態になってしまいます。
自分の想像でしかないことを、相手の「事実」としてしまうこと。
それが「決めつけ」であって「思い込み」ですよね。
他にも「妄想」とか「フィクション」「作り話」など、シチュエーションや状況によって、表現は変わりますが、普段から多くの人がやってしまいがちなのが「決めつけ」や「思い込み」ですね。
「いやいや、自分はそうではないよ?」と思うかもしれません。
しかし、人間の本質って「面倒くさがり」で「楽をしたい」んですよね。
つまりは「考えなくていい」ことを好みます。
そのため、心のどこかでは「決めつけて」物事を判断してしまうんですよね。
いつまでも「決まらない」「分からない」って、「考えなきゃいけない」「判断も出来ない」から、ストレスだし、疲れてしまう。
そして、それが決まらないと、別の問題が解決しないので、そこの部分について「考えるのをやめる」ために、仮定であっても、徐々に決めつけて考えてしまうのが、人間の正常な機能なんですよね。
が、その人の事実を決められるのは、その当人だけです。
人間として、当たり前の機能として、人は相手(他人)を決めつけますし、物事なども思い込みをし、そこをソースとして、様々を判断してしまうことがあります。
でも、その人の事実を決められる、知っているのは、当人だけです。
誰だって、自分を決めつけられたりしたら、気分は良くないですよね。
そして、気分を害するような相手と、一緒にいたいでしょうか。
いたくないですよね。
他人を思いやる気持ちがあり、優しいのに、なぜか人との関係がうまく行かない。
そんな人は、相手に対して過度に介入をしていて、相手のことを決めつけているのかもしれません。
疲れが悪さをする
では、私の友達のよう「普段はそんなことをするタイプではない」ような人が、なぜ、人を決めつけてしまったことなどが要因で(他にも要因は色々ありそうなのですが、ここでは関係ないことなので割愛)、トラブルになってしまったのでしょう。
先ほど、以下のようなことを書きました。
しかし、人間の本質って「面倒くさがり」で「楽をしたい」んですよね。
つまりは「考えなくていい」ことを好みます。
そのため、心のどこかでは「決めつけて」物事を判断してしまうんですよね。
いつまでも「決まらない」「分からない」って、「考えなきゃいけない」「判断も出来ない」から、ストレスだし、疲れてしまう。
そして、それが決まらないと、別の問題が解決しないので、そこの部分について「考えるのをやめる」ために、仮定であっても、徐々に決めつけて考えてしまうのが、人間の正常な機能なんですよね。
端的に言えば、友達は疲れていたのだと思うんです。
そのトラブルが起きたことと並行して、色んなことが忙しかった様子でした。
また、トラブルが起きてしまったことへの取り組みについては、友達は本当に前向きで「頑張る!」と意気込んでいたんですよね。
その「頑張る!」という状態と「嬉しい!」という状態も、体には「通常とは違うテンション」なので、それが続くと実は心身ともに疲れちゃうんですよね、残念ながら…。
そんな様々な「疲れ」が重なっていただけじゃなく、関係していた方々となかなかコミュニケーションがうまく取れず(表現方法だけではなく、お互いの都合がつかなくて、話が詰められない時が続いたようです)、それに対しても不安や不満が募っていたようで、そこからも「疲れ」が誘発されたように私は感じました。
疲れているのだから、状況だったり相手のことを「決めつける」「思い込む」のように、気持ちが働いてしまうのは、当たり前のことなんだろうって思うんです。
が、そんなの、当事者には理由になるはずもない。
決めつけられた側にしてみたら、内容だったりタイミングだったり、色んな要因から「面白くない」と怒ってしまう、「何で話をしてくれないのに、そう思っちゃったんだろう」と悲しくなるのも…、つまり、相手がネガティブな感情になってしまうのも、当たり前なんですよね…。
それと、これも誰しも経験があると思うんですけど、疲れていると、自分とは異なる意見って、入って来にくいですよね…。
なぜかイライラしてしまったり、否定してしまったり。
とにかく「自分が正しい、良い、好きだと思っているもの」に固執してしまうことがあると思うんです。
そうなると、自分の想定と違ったことが起きると、それにもストレスを感じやすくなる。
そして疲れる。
そういう悪循環が友達と、その周囲に起きてしまって、本人たちには残念な結果になってしまったんじゃないかな、と、私は思っています。
「タイミングが悪かった」
私が彼女に伝えた結論。もう、そうとしか思えなかったですからね(^-^;
もうね。
人に誤解されたり、関係が悪くなる背景には「疲れ」があるように思います。
寝よう、みんな(笑)。
しっかり休むことは、適切な人間関係の構築にも繋がっていきますからね。
頑張った結果イヤな思いをするって、本当にもったいないと思いますよ…。
※疲れていなくても、どこか人との距離感がうまく掴めず、人との関係がうまく行かない人は、別の要因がある可能性があります。これは別の機会にでも…(かつ、覚えていれば、気が向けば…)
捉え方は人それぞれ
「相手に介入する」「相手を決めつける」ということに繋がっていく話なので、ちょっとだけ書きます。
この画像をご覧ください。
一番手前の女性は、どんな気持ちでいると思いますか?
Aさんはこう思いました。
「きっと後ろの2人に悪口を言われて、泣いているんだよ」
Bさんはこう思いました。
「きっと後ろの2人に悪口を言われて、泣いている振りをして、被害者を装っているんだよ」
Cさんはこう思いました。
「後ろの2人に悪口を言われていても『それ、勘違いだし』って思って、おかしくて笑っているのかもよ?」
Dさんはこう思いました。
「大きなあくびをして、慌てて口を隠したけど、一部始終を見ていた人が笑っているんじゃないの?」
同じ画像を見ても、捉え方は人それぞれです。
そして、どれだけAさん、Bさん、Cさん、Dさんが議論をしたところで、事実は一番手前の女性にしか分かりません。
それでも私たちは、たとえ写真1枚からでも、「こうだろう」と仮定し、相手のストーリーを作る。
そして、それを元に、相手がどんな人か、どんな状態なのかを、自分の想像で次第に決めつけていくんですよね。
「分からないよ、私、その場にもいなかったし、その人じゃないし」
これが大正解なのに、そう答える人って、すっごく少ない気がしませんか?
ということで。
「人は相手を決めつけてしまうことが多くありますよ」というお話でした。
【余談】途中、頭をよぎったバカリズムのネタはこちらです↓
(どうでもいい…)