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過去の出来事

器用過ぎるのも人まねの書に終わってしまう一因

2019.03.25 12:51

器用過ぎるのも人まねの書に終わってしまう一因

東隅書生 

左版の和刻法帖など二束三文で並んでいたはずが、すっかり見かけない。近代摺りの板表紙のついた和刻法帖も希に見るが、もはや値段が一桁違う。そんなバカな、と絶句することもある。

見るからに董其昌の書幅だが、これは複製幅。一瞬中井董堂の幅かと思いきや(笑)。安価なので得てみたが、コピー版『東隅随筆』紙面では工芸品も区別はつかない。現物との差が見えないということが知れる。本来は肉筆幅を目の当たりにして、その筆の動きを墨線に感じられる環境が必要だろう。

文徴明の書を見ると、細井廣澤かっと思ってしまう。細井廣澤が文徴明書法を学んだのである。日本人の器用さというか、誠実によくその書法を学んだことが知れる。どちらが本家か見紛うくらいなのだから。市河米庵の門人もよく市河米庵流を学んでいるので、市河米庵を習ったとは知れるが、書いた人物の個性が出てこない門人も多い。市河遂庵も市河万庵もみな同じに見えてしまう時がある。ただ時代を見るともはや市河米庵生存の時代でなければ、息子の字かなと思うのである。巻菱湖の門人でも巻菱湖を学んで小菱湖になるものはあるが、個性がどこか滲み出て師匠の手蹟とは違った味が出てこなければ、書家としても一家を成したことにはならないだろう。器用過ぎるのも人まねの書に終わってしまう一因となりかねない。偽物書きと言われてしまう場合もありそうだ。野呂陶斎など亀田鵬斎の似せ物と評判記に見える。野呂陶斎と寺本海若の書は亀田鵬斎直伝なので似て当然なのだが。