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粋なカエサル

「生きるとは」2 島崎藤村『春』②岸本(島崎藤村)

2019.03.26 00:48

 岸本は女学校で教鞭をとっていたが、教え子の勝子を愛したことから職をしりぞき、それまで世話になっていた恩人の家を離れて放浪の旅に出る。しかし彼の漂泊の動機は恋だけにあったのではない。旅からもどり、恩人に旅の動機をたずねられた時の岸本の様子について、こう書かれている。

 「岸本は無言である。彼が無言なのは言えて言わないのではない。言えなくて言わないのである。・・・・彼が勝子に逢ってから激しい精神の動揺を感じてきたのは事実だ。自分の家が自分の家でなくなってきたのも事実だ。洪水があふれてきたように押し出されていったのも事実だ。彼がその日まで経てきたことはすべてにわかにおこった『新生』の光景である。何の目的があってそんな長旅をしたかと問い詰められてもそれは口にも言えず目にも見えない。」

 旅先で一度は死まで決意した彼だったがもう一度「世の中」へ帰ろうと思い直す。しかし、すぐれた友人であり無二の先達だった青木は自殺し、勝子も結婚して遠く北海道に去り、そこで病のために短い生涯を終える。また家は破産し、長兄は罪を得て入獄し、彼の背に大家族を養わねばならない生活の重みがのしかかってくる。かつての理想を捨て変貌していく友人たち(『文学界』の仲間)の中にありながら、青木が開拓しようとした事業を継続しようと考える岸本は悩む。ある時は「家の人を救うことが出来るなら自分はもうどうでもよい」と自分に言い聞かせるが「眼に見えない牢獄の中に居る」ような心境は変わらない。青木の後を追って死のうとも考えるが死ねない。そして絶望は彼を不思議な決心に導いた。

「親はもとより大切である。しかし自分の道を見出すということはなお大切だ。人は各自自分の道を見出すべきだ。何のためこうして生きているのかそれすら解らないようなことで、どこに親孝行があろう。」

 そして彼は教師の口を見つけて仙台へと旅立っていく。しかし、『人生の春』に到達した青春の実像はついに描かれなかった。新潮文庫版では削除されているが、『朝日新聞』(明治41【1908】年4月7日から8月19日まで135回にわたって連載)初出当時の小説は、次のようにして終わっていた。

 「汽車が白河を通り越した頃には、岸本は最早遠く都を離れたような気がした。寂しい降雨の音を聞きながら、何時来るとも知れないやうな空想の世界を夢みつつ、彼は頭を窓のところに押付けて考へた。春と考へるには、自分の若い命はあまりに惨憺たるものであつた。吾生の曙はこれから来る――未だ夜が明けない。『ああ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい。』斯う思つて、深い深い溜息を吐いた。」

 明治40年代に入って、明治という一時代の強いた青春のさまざまな様態に、ようやくにして正確な表現が与えられ始めた。

       島崎藤村 『春』     明治41年(1908年)

       夏目漱石 『三四郎』   明治41年(1908年)

       田山花袋 『田舎教師』  明治42年(1909年)

       森鴎外  『青年』    明治43年(1910年)

『春』には日清戦争(1894年~95年)前後、すなわち「〈近代〉の甘美な幻想が、青年を酔わせるに足る観念として生きていた時代、いわば近代の黎明期」(三好行雄『島崎藤村論』)の青春群像が描かれている。しかし、藤村は〈理想の春〉、〈芸術の春〉に続けて〈人生の春〉を書こうと意図していたが、結局描かなかった。それはなぜか?

「もし〈人生の春〉があるとしたらおそらくそれは家の脱出によってやってくる。旅のはてにさまざまなきずなをたちきり自己を孤独な状況に解き放すことで可能であった。岸本もまた親よりも自分が大切、「自分の道を見出すことは猶大切だ。」という自覚、だから親も捨てよう家も捨てようという自覚にみちびかれて仙台への旅を決意する、旅の終わるところに人生の春も実現するはずであった。」(三好行雄)

 それにもかかわらず仙台を描かなかった。それはなぜだろうか?

 (島崎藤村と妻静子【24歳年下】)

(島崎藤村)