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Ride in Setouchi & San-in Day 10 (25/3/19) Mihara Castle Ruins 三原城

2019.03.26 23:35

Mihara Castle Ruins 三原城跡

Mihara History Museum 三原歴史館

Takayama Castle Ruins 高山城跡

Niitakayama Castle Ruins 新高山城跡

今日は戦国武将の小早川隆景ゆかりの城跡を巡る。三原市まで瀬戸内の沿岸道路を走る。内海なので波もなく静かな海。小さな島が無数に現れてくる。

小早川隆景は毛利元就の三男で備後の竹原小早川家に養子に出された。兄弟には毛利隆元・吉川元春がおり、有名な「三本の矢」の三人。この三人で毛利一族が中国8ヶ国を支配していた。毛利宗家の隆元が尼子攻めの途上で毒殺され、嫡男の輝元が家督を継いだが幼少であったため小早川隆景と吉川元春が両川体制で、実質上、毛利家の運営を行なっていた。

毛利、吉川、小早川で中国地方全土を支配。隆景は秀吉体制下では厚い信頼を受け、四国の伊予と九州の筑前・筑後まで任されていた。知将としての評価が高い。跡継ぎがおらず、豊臣秀吉の正室・高台院の甥を養子に取ることになる。これがのちの小早川秀秋で小早川家最期の当主で、秀秋の死後、小早川家は改易となった。

Mihara Castle Ruins 三原城跡

小早川隆景が新高山城から居城をここに移した。浮城と呼ばれ、小島をつないで城を築城した。当時では斬新な平城と巨大石垣や天守と言った近代城塞の先駆けでもあった。ここに移った理由は水軍を重要ししたことがある。船で城まで入れる構造になっている。その遺構画駅前に船入櫓跡として残っている。この水軍は村上水軍を味方に付け厳島の戦いで、僅か半日で陶軍を破った。これが毛利家が大内氏に代わり、周防、長門も手中に入れ、大躍進のきっかけになる。

ここに少年の銅像があった。何かと思い、近くに行ってみると。殉教キリシタンのトマス小崎だった。京都から長崎まで処刑の為、護送の途中にこの三原城に来たときに、手紙を書いたというエピソード。長崎を訪れた時の事を思い出した。

天守部分は国鉄が横断する様に敷設されたときに大半が失われた。新幹線の工事で更に狭くなり、現在は新幹線の構内に石垣が残っている。天守台への入り口は改札口の隣で駅構内にある。少し違和感はあるのだが、変わっていて面白い。

ここでも大河ドラマへの運動をやっている様だ。毛利元就の大河ドラマは見たので、その続きとしての小早川隆景は良いかもしれないが、少し優等生すぎ、波乱万丈を求める視聴者には物足りないだろう。

Mihara History Museum 三原歴史館

城を見た後に歴史館を訪れる。ビルの一階の一画にあった。小早川隆景中心のビデオとパネル展示。歴史に興味ある人には面白い。インターネットでは見つからない資料が、このような地元の資料館では提供している。旅日記に何枚か載せている。

駅前に踊っている人形が飾っている。やっさ踊りというそうだ。三原城が完成したときに、領民がやっさやっさと踊ったのが始まりとか... 領主と領民との距離も、比較的近かったのかと思った。

ここで昼食をとっていたときに、おばあさんが自転車をジーと見て声をかけてきた。例のごとく、何処から来たのかで会話が始まった。旦那さんが亡くなり自由になってからは色々な所に旅行に行った。(母も父が亡くなってから、自由を満喫したと言っていたのを思い出した。夫婦とはお互いに拘束する関係でもある。もっと自由な夫婦関係は無いのだろうか?) 南極にも行ったと得意そうに話してくれる。年は97歳、100才までは生きると頑張っていたのだが、同年代の友達もいなくて寂しい。最近は体力がなく、城の周りを散歩するのがやっとで、足も腫れている。100才までの自信がなくなった。おばあさんにそんな事は気にしないで、今日一日を楽しく過ごすことを考えればいいよ。100才まで生きるかどうかは結果だからと言ってあげると、そうだねと言ってたにっこり笑ってくれた。

三原から小早川家歴代当主の居城の高山城を目指し走り始める。西条は西国街道の宿場町で古い宿場町独特の造りの古い建物が残っていた。

Takayama Castle Ruins 高山城跡

三原から10キロ走り到着。駅の近くの図書館に自転車を停め、後は徒歩で標高180mの高山の頂上にある城跡に行く。急な山道を登る。立派な山登り。2ルートある。迷わず健脚コースを選ぶ。

さすが健脚コース。登山中級の下ぐらいの急なコース。地図では搦手道に当たるのだろう。この城跡はあまり人気が無いのか、ここには説明板は無く、表示板も先程の登山コース用のみ。

高山城は鎌倉時代の建栄元(1206)年に、沼田小早川氏四代目の茂平が築城した山城。南北朝時代には沼田小早川 (本家) と竹原小早川での戦いの場となった。小早川隆景が計略でこの両小早川氏を統一してこの高山城に入城。天文22年(1551年)の事。翌天文21年(1552年)、対岸の新高山城に居城を移したため、高山城は廃城となった。

表示が無いので、どの場所にいるのかは分からない。唯一表示があったイワオ丸 (なぜカタカナなのか?) から推測すると、


南の丸か?

西の丸か権現丸が太鼓丸だと思う。新高山城が見える。

イワオ丸 これは確か、表示があるから

本丸か?

北の丸か- ここからは新高山城が臨める。

扇の丸

山城の訪問は結構時間がかかる。これぐらいの標高150-200mの山城だと休憩なしで最低1時間かかる。麓に降りてきた時点では3時半になっていた。今日は出発が遅すぎた。もっと早く出発すれば良かった。新高山城はすぐそこにあるのだが、この2つの城のあいだに沼田川が流れており、迂回して行くことになる。宿までがここから3時間はかかるだろう。夜道の走行は辛い。ここで行くかどうか悩む。迷った時は行く事にした事を思い出し、夜道をゆっくりと走行する事にして、新高山城に向かう。

Niitakayama Castle Ruins 新高山城跡

もともとここは高山城の副塁として砦はあったが、隆景が高山城に入って間もなく、ここを修築拡張して居城を新高山城に移した。三原湾から沼田川を利用して水軍を拡充していった。岐阜城と春日山とともに日本三大山城とされている。とは言え、高山城と新高山城を巡った今回は誰にも会わなかった。人気は今ひとつ? 岐阜城と春日山城共にも登ったが、明らかに見劣りがする。整備、解説版など全てに、残念だが、劣っている。本当の素晴らしさが出しきれていないと思う。ただ、高山城とは違い、案内版もあり、道も手入れはされているせいか、歩きやすい。

登山道入り口に到着。登山客用の駐車場もあり。

案内板

手入れされた登山道だ。

鐘の段

番所跡

匡真寺跡 城の中に寺があったのか。安土城にも立派な寺があった。

更に山道を登る。木々の切れ目から下界が見える。

中の丸(二の丸) 先に本丸への登り口が見える。

上ると大手門 かなり急だ。下から見たところも撮影。

本丸 岩だらけだ。こんな所に居所があったのだろうか。高山城が見える。高山城を背景に記念撮影。

釣井の段 (井戸郭) この城には家臣も住居を構えていた。その為多くに井戸があった。安土城も家臣を城内に住まわせていた。

三の丸

これで新高山城は攻略。下山して今日の宿の西条に向かう事にした。もう一度、対岸の高山城をみると高山城と新高山城には新幹線のトンネルがあった。山陽新幹線はトンネルが多いのだが、こんな城跡の所にも走っている。

既に5時半。宿への到着は8時を過ぎるだろう。安全の為に、なるべく歩道を走る。標高270mの峠超えがあるが、かなり急な坂でなおかつ歩道が無くなり、路側帯もほとんどなくなった。大型トラックが行き交う。もう日が暮れて、見通しが悪い。危険なので路側帯の広い道路の右側を自転車を降りて押しながら進む。標高150mは押し歩きとなった。やっとの事で西条に到着。8時半だった。今日は獲得標高差は1000mを超えた。ぐったり。