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man maru

タイ② 自然=法の生まれるところ

2019.06.22 23:32


タイ語で、「自然」という単語は「タンマチャート」という。

過去2年間タイに住んでいながらタイ語が恥ずかしいほど話せない自分。今回初めてその語源を知った。


*タンマ=ダルマ、法

*チャート=生まれる


法(仏法)が生まれる場所が、自然。


他にも、「普通」という単語の「タンマダ―」も、「タンマ」からきている。

法(タンマ)は、法を生み出す自然界にふつうにみられる法則を指す。

パーリ語では、Dhammata=法性。現象のありのままの真実。


タイは、豊かな国だ…

ここには、干ばつはない。大きな自然災害もさほどない(洪水、地震は別として)。雨季と乾季が巡る一年、天から水は豊かに降り注ぎ、亜熱帯の気候の中、植物は自然と豊かに生い茂る。何もせずとも、バナナの木が、豊かな農作物が、ハーブが生い茂り、川や海へ行けば魚が手に入る。


90年代のアジア通貨危機の際、経済不況でバンコクへ出稼ぎに来ていた人たちは突如として職を失い、彼らは農村に戻ることになった。けれど飢えることはなかった。家の裏手に、バナナの樹、パパイヤの樹がふんだんに生えているから。


「何があっても、死ぬことはない」

その環境がもたらす心のありかたは大きい。この自然環境が、タイの仏教を生み出したようにも思える。


今回滞在したアシュラムは、バンコクからバスで3時間の場所にある自然豊かなカオヤイ国立公園の近くに位置する。

https://uramasafaa.wixsite.com/viriyadharma/home


驚嘆。


広大な土地で果物、野菜を自家栽培し、電気も100パーセントソーラーパネルの自給自足。本当の豊かさとは、こうしたことか。太陽の恵み、空の恵み、大地の恵み、土地と自然の中で、人々が助け合って自立共存した生活を送る。

必要な食べ物が十分にあること。食うことに困らないこと。

僧侶たちは、毎朝4時半の読経の後に托鉢へ出かける。早朝6時、近隣の村々を1時間ほどかけて裸足で回る。傍目にもあまり裕福な村ではない。多くは農家、鶏や牛を飼っている家や小さな商店の家々。

僧侶の方々が訪れるのを、各家の人々が待っている。炊いたご飯であったり1-2品の手作りのお惣菜を、頭を下げ膝をついて僧侶に捧げる。僧侶が短いお経を唱える。

5-6歳くらいの小さな女の子も、大人に付き添って待ち、膝をつく。


仏教徒による自立・相互扶助的形態とはこのこと。

出家者・在家者は寺で修行を行う。敷地内で農作物を作り可能な範囲で自給する。

近隣の村々の人々は、自身に代わって修行する僧侶に布施をする。僧侶や在家の修行者たちは、自分たちの敷地でとれた野菜と、その布施でいただいた食事を朝と昼に取る。

僧侶は、村々に対して仏法や瞑想修行を分かりやすく説く。

村人、僧侶たちの関係が、法(仏法)とその信心を基軸に見事な持続可能な循環を生み出す。


ある日の朝食後の皿洗いにて。中国出身の尼僧(年の頃は30代後半か)が、皿についていた虫の一匹、洗い流すこともせず丁寧に拾い上げ、土に返していた。「私は、彼を殺したくないから」

その有り様にはっとする。


不必要な殺生をしない。

傷つけることをしない。


いのちが響きあい、共存しあう中で自然発生したのであろうタイの仏教。仏教徒のあり方をみる。


タイの仏教は上座部仏教に分類される。つまり、出家し自身が悟りを得る事が修行の完成とされる。他の衆生とともに悟りを目指す大乗仏教の視点から上座部仏教を眺めると、そこに利他的視点が乏しいように思われるかもしれない。


けれど、これは十二分に利他的なあり方だった。法性を知り、自己開発をして自己に頼れるようになること。自己開発により、他人にとっても自己が頼るべきものとなり、よき社会関係が作れる。むしろ、形骸化している日本の仏教の方が、よほど自己保身的と批判されても仕方ないかもしれない。


修行を通し、こころから不要なものをそぎ落とした僧侶たちの、そしてここに暮らし生活を共にする在家の方々の、なんと「自然」なことか。厳しくない。適度なゆるさ。柔らかさ。

(高僧の方々もスマホを持っており、移動中の車の中でLINEのニュースを見ていたりする…そんなゆるさが私がタイが好きな所以だったりする)



ある日、僧侶の方から瞑想指導を受ける。この修行場で2番目に僧籍長く修行なさっている方、細く痩せ無駄な肉は全くない、しかししっかり筋肉質の腕、いつもこの上なく柔らかな笑みを湛えた方。もともとバンコクでも有名な建築物を建てていた建築家だったらしい。思うところあってか40代で出家された。不思議とこの方のそばにいると落ち着く。「気づき(サティ)」を高めると、こうなるらしい。


私が瞑想を練習する様子を見て、一言こうおっしゃる。


「アイコ、怖い?」


何のことか、とぽかんとする。


戸惑っていると、もう一度聞かれる。


「間違えることが怖い?」と。


私は、「完璧な」瞑想をしようと、意識の深い層で思っていたのだ… 自分すら気づかなかった。その意識。気づきを高めるとは、そうした自分の知らない深い自己に気づいてゆくということ。そして、気づきが高められた人は、他者の深い意識のありようにも気づく。その他者の身体の微妙なしぐさ、目線、息づかい、醸し出すものから。その他者のこころの在り様も観えるようになる。全く、自分のこころをそのまま見抜かれ、平伏。


ここでの修行は非常にシンプル。

①ひとつひとつの体の動きを区切り、その動きに気づくこと

②思考が湧き上がったことに気づいたら、体へと意識を戻すこと

①と②の結果→

 ③自分がリラックスし、自然な状態になる。(サバイサバイ)


タイ語で「サバイサバイ」とは、心地よく、気持ちよく、元気なという意味があり、タイ人は日常的によく使う。自分のあるがまま、自然な状態を知っている人は、いつでもどこに行っても、自分の自然な状態でいる。それはリラックスした状態であるということ。


そして、その変わらない自分でいるということが、周囲の人々にも安心感を与える。自分を傷つけない、それが他者をも傷つけない。



このアシュラムの敷地内に住まわれる浦崎雅代先生、通訳から車の運転、何から何まで大変お世話になる。

【blog】

http://urasakimasayo.blog.jp/

【note】

https://note.mu/urasakimasayo


最後にバス停まで浦崎先生に車で送ってもらう道中、あるタイの高僧の方の最期を聞く。


その高僧は、病気で亡くなられるほんの数分前に、残された人々に向かって手紙を書き起こされたらしい。

「わたしは、後数分で、死ぬ」

事実、そう書き残された後、数分でその方は逝かれた。


身体的に体が朽ち、死の直前、痛みや苦しみで身体が満ちる様子は想像に絶する… しかし、そんな最中でも、最後の瞬間まで「意識は明晰に」保つことができる。痛みと痛みの間に。身体的な苦しみと苦しみの間に。

そして、恐らく残された者たちが必要以上に悲しまないようにとの配慮からか、落ち着いた様子で、事実、自身が知っていることを紙に書き起こし伝える。


意識は、身体を超える。意識を訓練することによって、身体の限界はどこまでも超えられる。

身震いする。


気づきを高める。意識のトレーニング。それはシンプルだが非常にパワフル。一生物の智慧のひとつ。その深遠さに、わずかばかりであっても触れられたアシュラムでの10日間だった。


そして、天空の星々と、巡る月日と、地上の鳥たち、虫たち、木々、人々との、壮大なオーケストラ。宇宙の円環の中にあり、それぞれのいのちが、それぞれの「自然な」状態にある中で過ごすひと時。

無限の豊かさの、自らもまたそのうちの一粒なのだと知る。