3月18日 日南市飫肥→都城市(62km)〜「九州の小京都」飫肥城周辺を散策する〜 ①
ラジオ体操の音楽で目覚める、晴れやかな日南運動公園の朝。
天気予報では、今日は夕方から下り坂。
いつもより少し早めに出発して、近くの飫肥城周辺を歩くことに。
日南市街から5kmほどの飫肥地区は、かつては飫肥藩5万1千石の城下町。
九州初の伝統的建造物保存地区に指定されており、「九州の小京都」と呼ばれているところ。
大手門の近くの駐車場に車を停め、案内所で、城内外の主だった施設をフリーパスで見学できるチケットを購入。
受付の方が地図を見せながら、メイン施設のある場所を、順を追って教えてくれる。
全部見て歩くと、軽く2時間はかかるという。
さっそく、教えられたコースに沿って、見学スタート。
まず初めは、城門手前にある「豫年館」へ。
「豫年館」は、飫肥藩藩主・伊藤家が明治維新後に居を移した屋敷。
1869年の建築で、広い庭園には庭石や石灯籠、庭木などが巧みに配置されている。
ソテツの木が南国の趣を添えている。
飛び石を伝いながら、広い庭を巡って歩く。
「豫年館」の向かいには、「小村記念館」がある。
ここは、飫肥藩士としてこの地に生を受けた、明治の外交官・小村寿太郎の記念館である。
小村は外務大臣を2度経験し、ロシアを牽制するための日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約締結、日米通商航海条約締結による関税自主権の獲得など、明治日本の外交を牽引した人物。
飫肥藩という小藩に生まれ、農作業も行う下級武士の子として貧しい少年時代を送ったが、家族の叱咤激励と優秀な先達の導きにより、開成学校(東大の前身)から日本最初の文部省留学生としてハーバード大学法学部に留学、卒業生したという努力の人だ。
開成学校での彼の恩師であるグリフィスは、1905年のニューヨーク・タイムズへの寄稿記事で、小村について以下のように評している。
「彼は大日本の古い伝統と近代教育が相まって生み出した生きた実例である。国家が向上の機会に恵まれた時に若さを回復した国民の特色を、これほど見事に表している人物は恐らく他にいないであろう」
日露戦争後、日本はロシアに対し日本海海戦では勝利したものの、戦争を継続する国力はすでに残されていなかった。
そこで日本は、着々と国力をつけていたアメリカに斡旋を依頼し、ロシアの強硬な交渉圧力に屈せず、ロシアの満州・朝鮮からの撤退と南樺太割譲など、最低限の賠償をなんとか勝ち取ったのが、このポーツマス条約であった。
ロシアとの講和交渉における小村の粘り強い交渉により、日本は戦争を終えることができたものの、賠償金を得られなかったことへの不満が、国内では日比谷焼き討ち事件まで発展した。
小村は、この交渉結果について、一言も弁明をしなかったという。
日露戦争開戦に先立ち、ロシアの脅威に対抗するため、小村が中心となり、1902年に日英同盟を締結している。
日露戦争後の1905年、小村は第二次日英同盟を締結し、イギリスのインドでの特権を認める代わりに、日本の大韓帝国の保護国化を認めさせた。
同じく1905年、外務大臣だった小村は「桂・タフト協定」において、アメリカに対して「日本がフィリピンへの野心がないことを表明する」代わりに、大韓帝国の優位性を認めさせた。
そして、同年のポーツマス条約でも、ロシアに対して同様の優位性を認めさせている。
小村が中心となり1905年に締結された、この合意文書により、大韓帝国への日本の優位性を、当時の最強国である英米露三国が認めるところとなり、1910年の日韓併合へと土台が築かれた。
小村は日英同盟による牽制と困難な講和交渉を通じて、「当時の日本の最大の国際問題だったロシア問題を解決した人物」であると同時に、列強国との外交交渉により、「その後の日本の大陸政策の足がかりを作った人物」でもあった。
そして、このことが結果として、現在の日韓問題にまで繋がってくるのである。
小村記念館を出て、大手門から城内に入る。
すぐのところに「しあわせ杉」と名付けられた、石垣に囲まれた四隅に杉の大木が立っている場所がある。
その対角線に立つとパワーが得られるとのこと。
しばし佇んで、エネルギーを備蓄してみる。
城内をさらに進むと、いきなり小学校が出現。
「この学校の生徒は、城の中で学ぶことが出来るのか」そう思うと、ちょっと羨ましい。
そこから高台に登ったところに、「松尾の丸」という武家屋敷がある。
といっても、これは典型的な武家屋敷を体験できるよう、後から作られた建物だ。
広い建物で、順路に沿って歩かないと、迷路のようで迷ってしまう。
途中、「ご自由に撮影してください」との案内あり。
すかさず、殿になりきるY。
お次は、豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝わる「湯殿」を再現した風呂場。
他にも、飫肥藩が参勤交代で使用していたという「川御座船」の展示も。
参勤交代には、陸路を行くイメージもあったが……。
江戸時代初期の書院造りの再現ということで、当事の武家社会の暮らしぶりがわかる、外国人来訪者も大満足の展示施設といえよう。
「松尾の丸」のすぐ上には、「旧本丸跡」がある。
飫肥は、江戸時代の1662年、1680年、1686年に、三度の大地震に見舞われ、ここにあった本丸は大きな被害を受けたという。
その後、1693年になって、現在の小学校の位置に新たな「本丸」が作られ、旧本丸跡は立派な杉木立となった。
ここは、別名「癒しの森」。
苔に覆われた立派な杉木立に囲まれて、本を広げてみる。
足繁く通いたくなるような、憩いのスポットだ。
眼下には、本丸跡地に建てられた飫肥小学校。
校庭を走り回る生徒たちの姿が、小さく見えた。