Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

キャンピングカーで日本一周

3月18日 日南市飫肥→都城市(62km)〜「九州の小京都」飫肥城周辺を散策する〜 ②

2019.03.27 18:03


小学校の脇の砂利道を通り、大手門の方に少し降りると、甲冑や刀剣、駕籠、武具、古文書、衣服など、飫肥藩ゆかりの品、約220点を展示する「飫肥城歴史資料館」がある。



ここでひとつ、この飫肥城を巡って、のちに飫肥藩主となる伊東氏と薩摩国・島津氏との間で繰り広げられた攻防について、触れておきたい。


というのも、二つの勢力が103年の長きに渡り、一つの城を巡って一進一退の攻防を繰り返すというのは、日本の戦史において稀有の例とされるからである。



▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



飫肥城は、南北朝時代の武士団・土持氏が築城したとされる。


その後、九州制覇を狙う島津氏が、日向国北部で力をつけてきた伊東氏の南下に備えるため、志布志城主で島津の一族だった新納忠続を、1458年に飫肥城に入城させた。


伊東祐国は1484年、飫肥城を攻略して失敗、戦死してしまう。


当主を失った伊東氏の、飫肥城に対する執念はここから始まっている。


次に登場するのは、祐国の孫・伊東義祐だ。


日向国における伊東氏の全盛時代を築いたのが、彼である。



伊東義祐は、興味深いエピソードを多く持つ人物。


叔父の反乱を平定、弟の家督相続による自身の出家と、弟の死による還俗と家督相続など、若くして波乱に満ちていた義祐は、島津豊州氏(島津氏分家)の飫肥城をたびたび攻略する。


窮した島津氏は、島津本家を通じて当時の足利将軍・義輝を通じて和睦を試みる。


しかし、義祐は幕府の和睦命令を無視し、度重なる攻撃により、1569年、ついに飫肥城を奪い取ることに成功する。


祖父の恨みを晴らしたわけである。


こうして義祐は、日向全土に48もの城を築き、日向国での覇権を確立した。



問題はここからである。


彼は主に本拠地の佐土原城に居住していたが、京風文化に凝り始め、大仏を建立したり、金閣寺を真似て金柏寺を建てるなど、奢侈な生活に溺れ、次第に武将としての覇気を失っていく。


そこで、島津氏の反撃が始まる。


人望を失っていた義祐は、味方の寝返りが続いたこともあり、次々と城を失い、天正5年(1577年)に島津氏に敗れ、日向国を追われてしまう。


こうして義祐は、一族郎党を引き連れて、息子の妻の叔父である豊後国の大友宗麟(キリシタン大名として有名)を頼る身となる。


この時、その後「天正遣欧少年使節」の一員となる伊東マンショ(義祐の孫)も同行していた。


日向国のキリシタン化を目論む宗麟は、彼らを受け入れる。


しかし、頼りにしていた宗麟も、「耳川の戦い」で島津氏に大敗してしまう。


居候だった義祐らは居場所を失い、今度は伊予国の河野氏を頼ることにする。


こうして伊藤氏一族は、さらなる庇護を求めて、播磨国までたどり着く。



この頃、義祐の息子・祐兵が、当時播磨国に出兵していた羽柴秀吉の目に留まり、めでたく仕官の運びとなり、息子の就職を無事見届けた義祐は、お供一人を連れて中国地方への旅に出る。


義祐は、こうして山口までたどり着くのだが、あろうことか、彼は「お供を撒いて」、一人で気ままな旅を始めてしまうのだ。


その後、高齢だった彼は息子を頼ることにし、彼の住む堺に向かう船に乗るのだが、船中で病気になってしまう。


船頭は面倒を嫌がり、なんと砂浜に彼を「捨て置いて」行ってしまった。


噂を聞きつけた息子・祐兵の従者が彼を発見し、堺に連れ帰り看病したが、あえなく病死したという。


なんとも破天荒な戦国武将・伊東義祐のエピソードである。



さて、秀吉に仕えた息子・祐兵はというと、秀吉の九州制定で先導役を務め、その功績により飫肥の地を治めることを許され、伊東氏が飫肥城城主として復活を果たす。



こうして、伊東氏と島津氏との飫肥城攻防戦は、曽祖父の祐国から数えて103年が経過したのち、最終的に伊東氏に軍配が上がることになる。


伊東氏は秀吉の死後、関ヶ原で九州の大名としては珍しく、東軍・徳川方についた。


その結果、飫肥藩における伊東氏の支配は、その後280年間に渡る、明治維新まで続くのである。



▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



伊東氏一族の、波乱の飫肥城争奪戦の歴史を振り返ったところで、


お次は、大手門から城外に出て、左手の武家屋敷通りを散策へ。



大手門を出て、左側に「小村寿太郎生家」があるが、これは復元されたもので、もともとの生家の位置はここから少し離れたところにある。



しばし城外を散策。




反り返る傾斜がつけられた石垣を持つ家もあり、その美しさに見とれてしまう。



コイが放たれている水路もある。



かつての商人町の代表的建築を再現した「商家資料館」も、のぞいてみる。




すると、ここの店先にも、山頭火の句碑がある。



「水の味も 身にしむ 秋となり」


「ここに白髪を 剃りおとして去る」


「誰もゐないで コスモスそよいでゐる」




最後に、Yは「四半的」という弓の遊びを楽しみ、


Kは花より団子と、近くの屋台で酒饅頭を買って頬張る。



「四半的」の歴史は、戦国時代にまで遡り、武将たちの酒宴の余興で行われたのが始まりだそう。


的までの距離が四間半(8.2m)、弓矢の長さが四尺半(1.37m)、的の大きさが四寸半(13.6cm)であることから、その名が付けられたという。


真ん中に命中すれば景品がもらえたらしいが、惜しくも中心から3cmほど外れ、ゲットできず。


弓が小さく、矢が長く、的が小さいというアンバランスな作りなので、玄人でも、この的の中心を射抜くというのは、なかなか難しいらしい。



こうして、後半は駆け足で城外を散策した一行であった。



飫肥は、こじんまりとしているが見所は多い。


「いかにも観光地」といった風情ではなく、親しみの持てる街であった。



その後、一行は国道222号で山あいを走り、都城市へと向かい、道の駅「都城」に宿泊。