ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 最上川とべに花物語 ~「行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花【松尾芭蕉】・・・ (第四話)」
はじめに 記事をお届けするに当たり、先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で未だ行方不明、並びに亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
山寺「宝珠山 立石寺」にて芭蕉翁と曾良の像
閑さや岩にしみ入る蝉の声(『おくのほそ道』より)
最上川
「五月雨を集めて早し最上川」「暑き日を海に入れたり最上川」(『おくのほそ道』より)
行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花(『おくのほそ道』より)
古記事に出てくる紅花
「シルク・ロード」と言う名称は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが名付けたのであるが、紅花はこの道を長年かかって、中央アジアから中国に伝えられたと考えられる。紅花だけでなく、ぶどう・きゅうり・えんどう・ごまなどの食べ物のほか、楽器や舞踊・奇術などもこの道を通って中国に伝えられたといいます。。
紅花は中国へ来たあと、我が国には朝鮮半島を通って伝えられたと思われるが、その時期はいつ頃であろうか。
我が国で最も古い公的な歴史に『古事記』があります。古事記は和銅4年(711)大安麻呂が元明天皇の命を受けてまとめたもので、上・中・下の3巻からなっています。そのうち下巻は仁徳朝から推古朝までのことを書いてあるが、その中に、紅花のことが4回出ています。紅花の記録としてはこれが最も古いもので、そこからも紅花伝来の時期を推測することができるのです。仏教が百済から伝えられたのは、欽明天皇の13年(538)とされていますが、紅花もその頃朝鮮から伝えられたと考えてよいのではないでしょうか⁉
官位十二階制の色彩
官位十二階の制度は、推古天皇11年(603)12月に聖徳太子が創案したものといわれます。
この制度は、色の異なる冠を用い、朝廷における席次を定める制度です。その順次を十二階にわけ、名称は、大小の徳・礼・信・義・智でこれにそれぞれ紫・青・赤・黄・白・黒に染めた冠をあてています。
王朝時代 紅花染めはマドンナ の玉座に
武家文化、鎌倉幕府成立前に天皇が政治の実権を握っていた時代が「王朝時代」と謂われております。
伊勢~明和町「斎宮」の斎王~紅花染めが艶やかですね…
斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことであります。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まりました。
以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝えています。
竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられています。
雛まつり「十二単着装公開」徳川美術館にて
寛文年間(1661~1673)幕府の命を受けた河村瑞賢の差配などもあって、江戸・大坂への物資の輸送が最上川を利用した酒田出しになると、産物の流れがおのずと関西方面に移り、京都・大阪には近江商人や伊勢商人が定住し、最上の商人たちも最上店(だな)や谷地店(だな)と呼ばれる、いわば出張店を持つようになりました。
当地方物産である米・紅花・大豆・青苧(あおそ)・漆・まわた・油などを移出した、その帰り荷として、関西方面から呉服地・繰り綿・瀬戸物・塩・砂糖・小間物等が運び込まれました。
特に調度品・絵画・書籍・京人形などの美術工芸品が数多く移入され、現在貴重な文化財として町内に数多く保存されています。
紅花の里 河北町
町が、紅花を町の花と定め「べに花の里・かほく」を標榜している理由は、江戸中期以降に見られる最上紅花の集散がこの町でおこなわれたことによります。
紅花がこの出羽国、山形に 入ったのは室町末期の頃とされていますが、 当河北町には、天正年間(1573~1592)の紅の生産を物語る資料が残っており、江戸時代も寛政年間(1789~1801)ごろから安政年間(1854~1860)あたりまでは、いわゆる最上千駄の時代で、全国生産の50%をこの村山地方で生産していました。
紅花は中国から渡来し、次第に雪深い東北地方等でも栽培されるようになりました。このように、紅花は岩手県以南の日本全国で栽培されたことになりますが、特にこの村山盆地周辺が全国生産の半数を占めるようになったのは、土地が紅花栽培に適しており、換金作物として重宝されたためといわれています。
この町に最盛期には20軒に及ぶ紅花荷主問屋があり、更に仲買人の花買仲間の目早※やサンベ※と呼ばれる人達が25人から30人を数え、山形市に次ぐ紅花の一大集散地でありました。
※目早、サンベとも、この地方独特の名称です。
※目早というのは生花の状況を見て相場を見定め、問屋や買次商人にあっせんする仲介業者のことです。
※サンベというのは商人から依頼されて生花の集荷に当たる仲買人のことです。
目早とサンベは紅花流通機構の中で重要な役割を果たして、明治初期まで続いてきました。
紅花を見守る紅花地蔵
蔵王連峰をのぞむ上山城下。二日町というところに、高さ50センチほどの小さな地蔵様がありました。
紅花の季節になるときまって近郊近在から大勢の参詣人がやってきて、お札をいただいていきます。紅花畑にこのお札を立てておくと、茎が折れる病気から紅花を守ってくれるというのです。人々はこの地蔵様を紅花地蔵とよんで大切に祀り、紅花のすこやかな生育を祈り、あわせて五穀の豊饒を願ったのでした。
紅花関係年表
和暦・(西暦)・できごと
延長 5 (927) 『延喜式』に紅花上納の記事あるも出羽国では貢納の義務なし
天正頃 (1573)~ 河北地方に紅花栽培拡大される(安楽寺文書)
天正 5 (1577) 織田信長、名馬献上の返礼として谷地城主白鳥十郎に紅50斤を贈った
寛文12 (1672) 西廻り航路で羽州御城米船が酒田を出航
延宝 8 (1680) 紅花の帰り船佐渡沖で難破、慈眼寺本尊行方不明となる(慈眼寺文書)
天和 2 (1682 )京都の紅問屋「稲荷講」を組織する
天和 3 (1683) 友禅染めの小袖京都で流行、女性の衣服制限令出される
元禄 2 (1689) 芭蕉「奥の細道」行脚
元禄12 (1699 )紅花 芭蕉「奥の細道」記事、この年より記入される(大町念仏講帳)
元禄16 (1703) 大石田河岸が栄え、舟数264になる 友禅染流行
正徳元 (1711 )紅染下地、この頃より土産につかわれる
享保元 (1716 )雨不足、紅花高値 北口市公認なる 享保の改革はじまる
享保 4 (1719 )大雨、大洪水、破船つづく 紅花駄不足故に高値となる 80両
享保 7 (1722)紅花京商い高値、商人利益多し 倹約令出る
享保10 (1725) 5月大洪水、紅花駄数不足400駄ぐらい
享保14 (1729) 大日照り、紅花不足、農民商人迷惑する
享保15 (1730) 『名物紅の袖』記される
享保18 (1733) 湯殿山縁年参り賑わう
享保20 (1735) 幕府が紅問屋(稲荷講)を公認、産地直扱い禁止される
元文 3 (1738) 紅花問屋から荷主あてに品質低下の苦情申し入れあり
元文 5 (1740) 柊屋甚右衛門ら代表6人が、京都所司代に対し稲荷講を訴訟するが、判決くだらず
寛保元 (1741) 紅粉屋へ現金直売仰付けられる
宝暦 2 (1752) 谷地の久兵衛、儀兵衛ら「紅花売買場所」を京都に設立する運動を起こす 紅花上作、谷地郷豊作、京着50両
宝暦 5 (1755) 谷地郷より340~350ほど生産 大凶作庶民飢えに苦しむ
明和 2 (1765) 京紅花問屋の専売崩れ、最上紅花高値となり百姓喜ぶ この頃『風流松の木枕』記される
明和 3 (1766) 6月29日、紅花積み船転覆、11人死亡する
安永元 (1772) 京紅花問屋、紅花売買の独占権幕府に願い出る
天明 8 (1788) 古川古松軒『東遊雑記』を記す
天明 9 (1789) 家具・紅染衣服・道具の贅沢禁止令出る
享和元 (1801) 照り勝ちにて紅花不作、上方不景気、商人弱る
享和 2 (1802) 天候不順、紅花船能登沖にて破船、谷地商人損害甚大となる
文化 3 (1806) 5月大洪水、紅花流され駄数不足する
文化 5 (1808)干花下落し、残花多く、最上一統迷惑する
文政 5 (1822) 後沢の太田幾右衛門に伏見宮より紅餅のご用命あり
文政 7 (1824) 日照りつづき、紅花2度蒔付け、紅花不景気、庶民難儀する
天保元 (1830) 洪水にて紅花不作、畑作は虫付く
天保 4 (1833) 大飢饉諸人飢える 紅花不作 紅花種の他国出荷を禁止する
天保 7 (1836) 住吉大社に紅花荷主、紅花問屋によって紅花燈籠寄進される
天保11 (1840) 越後今町沖にて2船破船、山形商人被害多し
天保12 (1841) 天保の改革はじまる
天保13 (1842) 最上川航行制限解除、谷地河岸賑わう 荒町村大火 紅花商人によって神明宮再建される
嘉永 6 (1853) 本木林兵衛・藩州姫路の商人達、下槙白山神社に石籠を建立する 紅花資料館の武者蔵を建立する
安政元 (1854) 紅花資料館の座敷蔵の襖絵描かれる
安政 2 (1855) 8月若狭沖にて紅花船破船、谷地・山形商人被害受ける
安政 3 (1856) 紅商人によって定林寺に五百羅漢寄進される
安政 6 (1859) 安政の開国条約結ばれ、外国産紅花輸入される
文久 3 (1863) 紅花旱(ひでり)損により不作 紅花摘み日記書きはじめる 紅花資料館の御朱印蔵建立する
元治元 (1864) 紅花並作 京都大火につき、紅花高値となる
慶応 2 (1866) 谷地大火 大洪水、紅花流される 沢畑刀作り盛んになる
明治 8 (1875) 大洪水、最上川通り紅花流され百姓弱る 新桑植栽はじまる
明治10 (1877) 「第1回国内勧業博覧会」に紅花を県として出品する
明治14 (1881) この年より紅花相場の記録なし
明治22 (1899) 皇太神宮遷宮式に先代岩渕栄治が紅餅を納入する
明治41 (1908)皇太神宮遷宮式に高島屋を経て岩渕店にご用命があり紅餅を納入する
大正 5 (1916) 新紅花摘み唄流行する
大正 9 (1920) 明治神宮遷宮式に岩渕店が紅餅を納入する
昭和 3 (1928) 天皇御即位式に高田装束店を経て出羽村農会が紅餅を納入す
昭和 4 (1929) 皇太神宮遷宮式に高田装束店が紅餅を納入する
昭和28 (1943) 皇太神宮遷宮式にご料の足しに(紅花を)納入する
昭和40 (1965) 山形県紅花生産組合連合会が設立される
昭和55 (1980)『べに花の里・かほく』を標榜する
昭和59 (1984) 紅花資料館開館する 昭和61 1986 紅の館完成する
紅花交易
「紅一匁金一匁」の由来は王朝時代から始まる
このタイトルの「紅一匁金一匁」紅とは紅花染のことです。
紅花が如何に貴重であったかは、この見出しタイトルが象徴しています。
つまり、紅花染の衣裳はその美しさ、稀少性、複雑な工程、労力、加えて身分制の象徴性から金に相当する程、高嶺の花だったのでしょう。
今日の天皇家に繋がる日本の歴史は大和朝廷が成立する飛鳥時代にその基礎が明確化して来ますが、ご存知のように日本女性が身に纏う衣裳は時代によってその様式は様々に変化を遂げてきました。しかし、現代を生きる私達のファッションは通常、洋服と呼んでいますが、明治維新までは、それ以前の着物を和服と総称しております。
神話時代を除く記紀による日本の王朝時代を飛鳥時代※から始まると考えれば、崇峻天皇5年(592年)から明治維新(1867)まで1275年間の長い歴史の中で、和服の染色は殆ど草木染めに依存しておりました。
それらは、先ず王朝時代から身分、職制による厳しい色分けが続いたのです。
※飛鳥時代とは 広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592)から和銅3年(710)を指す wikipediaより
余滴
紅花とことわざ
紅は園生(そのう)に植えても隠れなし
大成する人物は子どもの時から常人と違って優れた素質が認められるの意
柳は緑 花は紅
天地自然のあるがままで、人工の加わらぬさま
万緑叢中 紅一点
多くの男性の中にただ一人女性がまじっているたとえ
薬九層倍 花八層倍
売値が原価にくらべて非常に高いこと
尼御前の紅
不似合いなことのたとえ
あかがり足に紅絹裏(もみうら)
紅絹裏をちらつかせて歩く女性の素足にあかぎれが切れていること
不似合いで艶消しな取り合わせをいう
江戸の紅絹裏
難波の紫
都の黄無垢(きむく)
それぞれの地では流行おくれの衣服とされたところから、古びて流行おくれのもののたとえ
江戸紫に京鹿子(かのこ)
紅染は京都の名産、紫は江戸の銘物である。江戸時代の東西両都の染色の特徴をいうことば
紅(くれない)は染むるに色を増す
紅の染色は、最初は色薄く何回も繰りかえし染めて濃くすることから繰りかえし努力することが大切であるということ
女は華丹(かたん)の窈窕(ようちょう)を乱すをにくむ
華丹はおしろいや紅の意、お化粧も過ぎると逆効果になる
人に千日の好無く 花に百日の紅無し
人の親しい交際も花の盛りと同様に長続きしないものだ
宝剣は烈士に贈り 紅粉は佳人に贈る
宝として大切にしている剣は勇士に贈り、紅とおしろいは美人に贈る。物を贈るに当を得ていることのたとえ
紅葉(もみじ)に置けば紅の露
環境によって外観の変わることのたとえ
木綿布子に紅絹(もみ)の裏
粗末な木綿の綿入れに豪華な紅染の絹をつけること。つり合わないことのたとえ。また外見より内実がすぐれていることのたとえ
寒中の丑の日に買った紅は薬になる
寒中に作られた紅は品質がよいうえ口中の荒れを防ぐ。丑の日に買うと小児の疱瘡に薬効があるという
売り物に紅をさせ(花を飾れ)
売る品物は美しく見せよ
紅白粉は女のたしなみ
紅や白粉で化粧することは女として大切な心がけの一つである
誰に見しょとて紅鉄漿(べにかね)つける みんな主への心中立て
誰に見せるために化粧をするものでもありません、それは皆すべていとしいあなたへのまごころを示すためなのです
昔馴染(なじ)み紅花染め(紅花色) 色がさめてもきが残る
昔馴れ親しんだ人はいつになっても気になって忘れることができない
千入(ちしお)に染むる紅(くれない)も 染むるによりて色を増す
よいものでもさらに心をくばりみがきをかけてすぐれたものにすべきである
霜葉は二月の花よりも紅(くれない)なり
霜のために変色した紅葉は二月の花よりも赤くて美しい
朝紫に夕紅(くれない)
朝は紫色に見え夕方は紅色に見える遠い山の美しさをいったことば
朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて 夕べに白骨となる
人生の生死のはかり知れないこと 世の無常なこと
紅顔(こうがん)の美少年
若々しく生々とした血色の美少年
花染めの移ろい易き人心
草木染めは変色し易いことから、人の心のうつろい変わりやすいこと
紅網代(べにあじろ)
かごかき棒が紅花の染料を塗ってある網代かご 大奥にいる御年寄りが御台所の代参などで寺院などに参拝するときに乗る
紅茶宇(べにちゃう)
ポルトガル人がもたらしたインド産の薄地琥珀織の紅色の絹。袴や裃を作った
来迎の柱は金箔 女の湯具は緋縮緬
何事も道具立てがよくないと立派に見えない
緋縮緬 虎の皮より恐ろしい
緋縮緬は商売女の腰巻きに、虎の皮は鬼のふんどしに用いられたところから、商売女は鬼より恐ろしい
参考
今回の河北町の紅花のご紹介に当たり取材の中で「仏教伝来と紅花」の繋がりについて書いてあるのをよくお見受けしました…そこで思い出しのたのは、30数年前に度々訪ねたことのある対馬のあるお寺のことでした。
紅花と関係があるのかどうかはわかりませんが、国境の島「対馬」と日本最古のお寺と言われている対馬の「梅林寺」についご紹介致します。
対馬とはどんな島?
日本(九州)と朝鮮半島の間(日本海のど真ん中)に浮かぶ細長い島が「対馬」です。
位置
対馬(つしま)は、九州と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ島で、長崎県に属しています。博多港(はかたこう。福岡県)までは航路で132キロ、韓国までは直線距離で49.5キロに位置し、「国境の島」と呼ばれています。
面積
南北82キロ・東西18キロ、面積は約708平方キロ(属島ふくむ)で、沖縄本島と北方四島を除けば、佐渡島・奄美大島に次ぐ大きさです。平成16年に島内の旧6町が合併し、長崎県下の市町村では最大の面積をもつ「対馬市」になりました。
対馬の自然の特徴は?
自然景観
東西を対馬海流が流れ、平地が少なく、島土の約89%が山地であり、各地に原生林が残されています。島の中央にはリアス式海岸・浅茅(あそう)湾が広がり、海岸線の総延長は915キロに及びます。地質は大部分が堆積岩で、表土は薄く、ごつごつとした岩肌が海に沈みこむ荒々しい風景があちこちで見られます。
(写真: 浅茅湾(あそうわん)空撮)
生き物たち
サル・クマ・キツネ・タヌキ・ウサギ・リスといった本土の普通種が1匹も生息せず、代わりにツシマヤマネコ、ツシマテン、アキマドボタルなどの大陸系生物が分布するなど、独特の生態系が築かれています。その特異な生態系により、白嶽などの山岳、鰐浦ヒトツバタゴ自生地などが国の天然記念物に指定されており、また島の多くの部分が壱岐対馬国定公園に指定されています。
(写真: 国指定天然記念物・ツシマヤマネコ)
自然と食
対馬は山地が多く、陸上交通が不便であったため、島への伝来物が何百年もそのまま保存されている場合があります。その代表が対州そば。そばは縄文後期に日本に移入されたと考えられ、全国的に品種改良が進みましたが、対馬では縄文後期の原種そばを今でも味わうことができます。また、昔ながらの養蜂法が今も行われており、濃厚で香り高い和蜂のハチミツを楽しむことができます。山が深く、四方を海に囲まれている対馬は、自然が生み出す本物の食材に出逢うことができる島でもあるのです。
(写真: ニホンミツバチのハチミツ)
対馬の歴史の特徴は?
古代
島全体が岩がちであり、耕地が乏しいという地理的条件のため、古代より九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通に活路を見出してきました。対馬最古の越高(こしたか)遺跡(紀元前6800年頃)からは九州と朝鮮半島の遺物が同時に出土し、当時から九州と朝鮮半島の間で人と物の交流・交易があったことを示しています。
(写真: 烏帽子岳展望所から見た浅茅湾)
日本誕生
古代より続く人の流れと、大陸文化を摂取するための使節の派遣などにより、金属器・漢字・仏教※・政治制度などさまざまな大陸文化が対馬・壱岐を経由して日本に流れこみました。対馬・壱岐はいわば、日本が誕生する際の「へその緒」としての役割を果たしました。
(写真: 古代の港・西漕手(にしのこいで) 対馬市美津島町小船越)
日本最初の寺・梅林寺
※小船越には、日本最初の寺とされる「梅林寺」(ばいりんじ)があります。
日本への公式な仏教伝来は、538年(または552年)、百済の聖明王から仏像や経典が送られたのが始まりとされています。仏像を捧持する使節は、小船越で上陸し、ここから日本本土を目指すために風待ち・波待ちをする必要がありました。
その間、大切な仏像を粗末に扱うわけにはいかないので、小さなお堂を建てて仏像を保管し、その小堂が日本最初の寺・梅林寺になった、と伝えられているのです。
海を渡った仏像は、在来の神道を信仰する物部氏によって難波の堀江に打ち捨てられますが、聖徳太子の時代に再出現し、やがて本田善光という人物の背中に乗って旅をし、現在の長野県(現在の善光寺)に落ち着きます。
善光寺は、激動の戦国時代には、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの錚々たる面々に信仰され、現在では年間600万人もの参詣者を集める名刹となりました。
面白いことに、善光寺の仏像は自ら絶対秘仏となり、その姿を見たものはいません。
7年に1度、前立観音という、いわばレプリカがご開帳されますが、本尊そのものが実在するのかどうかすら、秘仏ゆえに誰にも確認はできないのです。
日本に渡来し、この国を仏教国家へと導き、戦国武将や天下人たちに信仰され、この国の歴史を変えたともいえる絶対秘仏の旅。その最初の日本上陸地が対馬であり、小船越だったのです!
国家間の緊張
7世紀の白村江の戦いによりほぼ国境が確定し、日本・新羅・唐という国家が成立したことにより、「国境の島」は常に国家間の緊張関係の最前線にさらされることになりました。その一方で、鎌倉時代から江戸幕末まで宗家(そうけ)が対馬を統治し、また戦国時代から現代まで戦場にならなかったため、全島に豊富な歴史・民俗資料が温存されており、日本や朝鮮半島の歴史を知る巨大なタイムカプセル・データベースとなっています。
(写真: 古代山城・金田城(かなたのき) 対馬市美津島町黒瀬)
朝鮮外交の拠点
江戸時代を通じて対馬藩は幕府から対朝鮮外交を一任され、朝鮮半島に10万坪(長崎出島の25倍)の外交通商施設「倭館」(わかん)を運営し、対馬藩士400~500人が滞在していました。また、朝鮮王朝から江戸幕府に派遣される国家使節団「朝鮮通信使」の接遇・先導・護衛を務めるなど、独自の外交機能を発揮しました。
(写真: 対馬藩主宗家菩提寺・万松院(ばんしょういん) 対馬市厳原町西里)
戦争と平和
日露戦争の最終局面、日本海海戦(Battle of Tsushima)では、対馬沖で日本帝国海軍とロシアバルチック艦隊の間で激しい戦闘が繰り広げられました。海戦は日本の一方的な勝利に終わり、ロシアの被害は甚大で、対馬に流れ着いた敗残兵も多かったのですが、島民の手厚い看護により健康を回復し、やがて帰国しました。その後も、第2次大戦、朝鮮戦争など大きな戦争が起きるたびに、対馬は大きな影響を受け続けてきました。
(写真: 姫神山(ひめがみやま)砲台 対馬市美津島町緒方)
現在の対馬は?
雄大な自然と悠久の歴史を楽しむ
漁業と公共事業の不振、過疎・高齢化の進行という厳しい情勢のなか、ようやく対馬でも「開発か環境保護か」という二者択一ではなく、対馬の自然・歴史資源を活かした地域振興が模索されるようになりました。近年、対馬の自然を全身で満喫できるシーカヤック体験ツアーや原始林トレッキングが人気を集めています。平成20年には「対馬観光ガイドの会やんこも」が設立され、対馬の歴史をわかりやすく楽しく案内できるようになり、好評を博しています。
国際観光地を目指して
対馬の人口は約3万3000人(2014年)ですが、福岡市(125万人、2009年)と長崎市(44万人、2009年)、プサン(370万人、2004年)の間に位置し、長崎とは空路で、福岡とは空路・海路で、プサンとも海路で結ばれており、観光物産の振興と交流人口の拡大による島の活性化を目指しています。
編集後記
午後8時頃からだったか、松本清張原作「砂の器」のテレビドラマが放送されており、東北地方と出雲の関係を語っていた場面があり、大変に興味深く拝見しておりました。
パソコンに向かうと何故か東北「山形・河北町」と九州「長崎・対馬」が脳裏に浮かんできたのでのでした…以前に仏像盗難の後、ご住職のお話をお聞きした事がありましたが、今回は紅花のことを聞いてみたくなりました・・・
続く・・・
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
一般社団法人 河北町観光協会
〒999-3511 山形県西村山郡河北町谷地己885−1紅花資料館 電話:0237-72-3787
一般社団法人 対馬観光物産協会〒817-0021長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしまTEL 0920-52-1566
谷地八幡宮 〒999-3511 山形県西村山郡河北町谷地224電話: 0237-72-2149
宝珠山 立石寺 〒999-3301 山形県山形市山寺4456-1 TEL:023-695-2843
山寺観光協会 〒999-3301 山形県山形市山寺4495-15 TEL:023-695-2816
山形県立博物館
〒990-0826 山形県山形市霞城町1番8号(霞城公園内)Tel.023(645)1111
明和町役場 〒515-0332 三重県多気郡明和町大字馬之上945 電話番号:0596-52-7111
徳川美術館 〒461-0023
愛知県名古屋市東区徳川町1017 電話番号 052-935-6262
日原もとこ 東北芸術工科大学 名誉教授 風土・色彩文化研究所 主宰 まんだら塾 塾長
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。