Eternal Child
「前をみては、後(しり)えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極(きわ)みの歌に、悲しさの、極みの想(おも)い、籠(こも)るとぞ知れ。」
イギリスの詩人、シェレー(シェリー)という人の一節。
この日は、何も言うことがないくらい素晴らしい1日だった。
うららかな春の陽射しが友人と私を包み、キラキラと輝く流れは我々の行く先をずっと明るく照らしてくれた。
かのアインシュタインは、自然の秩序こそが神だと感じていたという。
確かにそうかもしれない。
大人の玩具たちは、待ってましたとばかり唸りを挙げ、
時折遊んでくれる渓魚たちは、えも言われぬ色彩で私たちの目を楽しませてくれた。
林道沿いの花々はそれぞれ春を謳歌し、ほんのひと時の美しさを名残り惜しむように生命を輝かせる。
けれど、シェレーの詩が語るように、私も想いを巡らせる。
美しい極みの下に、幾万の死が積み重なってきたかを。
渓魚たちの輝く光彩のはかなさを。
輝かしい生は、その正反対のものとのコントラストによってこそ、際立つのだと。
影が濃い程に、光は美しい。
そして、ボンヤリと夢想する。
その時がやがて自分たちにも訪れるであろうことを。
そんな深山の中で、我を忘れて、持ってきた荷物をとっちらかして、
男たちは、この日1番のグラデーションに夢中になった。
「ホラ、その角度じゃなくてさ!」
「コレ、あれだぜ。きっと夫婦だよ。早く撮って元に返してやろうぜ。」
「うわぁ!しっかしホントにキレイだなぁ!」
無邪気とはきっとこんな瞬間に他ならない。
帰りの道すがらこんな悪ふざけをしてみたり。
もう、まるっきり小学校時代に戻る。
釣り人は、少なくとも、釣りをしている時間だけは、永遠の子どもでいられる。
そして、いいオトコってのは、きっとそんなもんなんだろう。そう信じたい。
こんな風に、永遠の子どものまま、終われればそれはそれで、きっと幸せなのだ。