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天下三不如意 2.新勢力の勃興

2019.03.29 14:25

 康和四(一一〇二)年に興福寺の起こした武装蜂起は、年が明けた康和五(一一〇三)年、最悪な形で収束した。
 一日、また一日と興福寺の武装勢力は平安京に近寄り、三月中旬には白河法皇が破壊を命じた宇治橋を超え、三月二五日には平安京になだれ込んだ。興福寺の武装勢力を止める者はおらず、武士団も自分たちの守るべき人の警護しかできず、武装集団は右大臣藤原忠実のもとへとたどり着いたのである。現在の感覚で行くと、デモ隊が首相官邸になだれ込んで首相に直接要求を突きつけているのと同じである。違いがあるとすれば、このときの興福寺の武装デモ隊は春日社の神木を奉じていたことぐらいか。
 これに対する右大臣藤原忠実の態度がどのようなものであったかは不明であるが、結論を見ると容易に推測できる。結論は、興福寺の要求を全て受け入れただけでなく、興福寺の要求を全て認めた結果を朝廷の最終決定とするというものであった。民主主義国が選挙結果を民意として国政に反映させるのとは違う。国民の大多数の意思ではない武装デモ隊の意見を国政に反映させるというのは異常事態とするしかない。
 さらに問題になるのはこれが先例になることである。要求を突き付けたければ、根回しをしたり、国民の過半数の意見を集めたりするのではなく、人数は少なくとも暴れ回ることが可能なレベルの人数さえ揃えば、そして、武装して暴れ回りさえすれば要求が受け入れられるとなったとき、誰が根回しや民意の集結など図るであろうか?
 もはや取り返しのつかない事態を迎えてしまったが、事態に真正面から向かい合う者などいなかった。ただただ世を嘆いて享楽に逃げる者、自暴自棄に陥る者、そして、自分も武装蜂起に加わる者が出た。代償は生活の悪化。当然だ。暴れ回っている連中を横目に安心して田畑が耕せるか、安心して家を建てられるか、安心して織物を織れるか、安心して漁に出れるか、安心して外を歩けるか。
 消え失せてしまった田楽を復活させて一時的な逃げを図ったが、無駄だった。田楽を楽しむ者は多かったが、武装勢力が暴れ回る日常が変わることはなかった。
 堀河天皇の皇子である宗仁親王を八月一七日に皇太子としたが無駄だった。生後七カ月の幼子を皇太子にとさせた堀河天皇の焦りを感じさせることはあっても、未来への希望を感じさせることはできなかった。
 京都の各地で火災が起こり、武装勢力を抱える寺社でも火災が起こった。
 誰かどうにかしてくれと誰もが願ったが、どうにかできる者などいなかった。

 年が変わった康和六(一一〇四)年。今年こそどうにかなるという願いは、一月には早くも崩れた。前年から頻発していた火災が、それも放火が、年明け早々、六波羅蜜寺において起こったのだ。
 堀河天皇は康和六(一一〇四)年二月一〇日に長治に改元すると発表した。この発表に、改元という手があったことを思い出した人は多かったが、改元で全てが解決すると考えた人はいなかった。そして実際、新しい元号のスタートとなる一年は、解決とは程遠い一年となった。
 ここで、長治元(一一〇四)年の寺社の武装蜂起を列挙してみよう。

 二月一五日、石清水八幡宮で武装蜂起。名目は僧侶の高信が修理別当に就任することへの反対であったが、名目はどうでもいい。要は暴れ回ることが目的であった。このときは高信の修理別当就任の取り下げで、武装蜂起は終結しているとは言え、終結までには七日間を要し、被った損害は莫大なものがあった。
 三月には比叡山延暦寺で武装蜂起が発生。同時に園城寺でも武装蜂起発生。ただし、このときの武装蜂起は武装勢力同士の激突となり、当初は比叡山内部で、次いで比叡山対園城寺という構図での争いとなったため、京都の直接的な被害は少なくて済んだ。直接的な被害は少なくて済んだが、平安京と東国との物流が途絶えたため、平安京内で大インフレが発生した。
 六月には越前国から武装勢力が平安京にやってきた。名目は越前国司高階為家の罷免要求であったが、実際は越前国内での荘園をめぐる争いである。越前国内で絶大な勢力を持ち、この時代の重要な港の一つである敦賀港を押さえている気比宮が武装蜂起を起こしたことは、平安京の経済をさらに悪化させた。日本海沿岸の地域から京都へ物資を運ぶには、敦賀まで行き、琵琶湖を縦断し、大津を越えて京都へ到着するというルートが一般的であった時代、重量拠点の一つである敦賀を封鎖することは、ただでさえ流通が麻痺してしまっているこの時代の平安京にさらに追い討ちを掛けることであった。
 それでも平安京の北、西、南からの物流はどうにかなっていたのだが、九月に入ると南からの物流までもが止まる。伊勢国の僧侶が武装蜂起して淀まで押し寄せてきたのだ。なお、この僧侶たちは熊野大社の僧侶であると自称していたことはわかっているが、熊野大社とは無関係であることが判明してもいる。伊勢国出身であり、伊勢国司の罷免を要求したことはわかっているのだが、そもそも本当に僧侶だったのかどうかすら怪しい。
 それぞれの武装勢力が互いに連携をとっていたわけではない。武装勢力同士は相互に敵対しており、向かい合うことがあるとすれば、そのあとで待っているのは融合による勢力拡大ではなく、潰し合いである。だが、俯瞰してみると、まるでそれぞれの武装勢力が手を取り合ったかのように平安京を包囲するようになったのである。
 平安京は未完成の都市である。桓武天皇の計画通りに完成しなかったという意味で未完成となるのではない。都市は単に人が集まった空間ではなく、人が生きていける空間でなければ機能しないのであるが、その意味で平安京は未完成の都市なのだ。

 どう言うことかというと、流通が弱い。
 古今東西、どんな都市を見渡しても、都市内での自給自足で生活できた都市は極めて少ない。都市内で衣食住の原料を生産することが全くできなかった都市というのはさすがに珍しいが、都市内での生産で都市の需要の全てを満たすことのできた都市などというのはない。平安京も例外ではなく、平安京の内部だけで平安京の住人の需要を満たす生産など不可能であった。どんなに多く見積もっても、それも、平安京全体を農地にするという実現不可能な前提で計算したとしても、平安京の自給自足で養える人口は一万人が精一杯である。これは何も平安京だけの話ではなく、古今東西のありとあらゆる都市で見られる話である。
 自給自足を捨てる代わりに都市は流通を求める。都市から離れたところの産品を運び込んで生活するのである。それは税としての徴発もあったし、正当な商取引によるものもあった。この時代の平安京で言うと荘園の年貢もあるし、この時代の法に従えばどう言い逃れしても法に引っかかる手段で運び込まれるものもあった。求める人がいるなら物品は流れ込む。貨幣経済なら貨幣を対価とし、コメや布地の経済ならコメや布地を対価とする。平安時代で言うと、平安京にコメを運ぶ代わりに得られる布地の質と量が他の地域を圧倒するなら平安京にコメを運ぶこととなるし、平安京に魚や塩を運び込んでコメと交換するならば、平安京以外の地域で交換するよりも多くのコメを得られる。これが流通だ。この流通が平安京は弱かった。
 平安京遷都以来、歴代の執政者がこれまで流通の弱さを放置してきたわけではない。それどころか、流通の弱さを感じさせないだけの流通を構築できていると思わせてもいたのだ。日本海も、瀬戸内海も、そして陸路も万全だと誰もが思うようになってもいたのだ。平安京は確かに琵琶湖に近い。琵琶湖に行けば日本海に出て日本海沿岸の地域と連絡がとれる。また、川を下れば大阪湾、当時の呼び名では「茅渟の海(ちぬのうみ)」にたどり着く。大阪湾から先は瀬戸内海があり、瀬戸内海に出れば山陽にも四国にも九州にもつながる。平安京から南に行けばかつての首都である大和国。大和国から先は陸路が広がっているから、紀伊半島南部も、東山道も東海道もつながる。時代とともに陸路も変遷し、大和国まで南下しなくとも陸路に巡り合うようになっている。しかし、そのいずれも「近い」であって「接している」ではない。接していないということは、接するまでの地点のどこかを封鎖されたらその瞬間に都市への流通が止まることを意味する。それに気づいたときにはもう遅かった。武装勢力が流通のポイントを封鎖してしまって物資が滞るようになってはじめて、平安京の流通問題がクローズアップされるようになった。

 先に平安京とその周辺の自給自足で養える人口は一万人が精一杯であると記したが、長治元(一一〇四)年時点の平安京とその周辺の推定人口およそ二〇万人。つまり、平安京とその周辺に住む人を養うには、平安京とその周辺だけで生み出される物品のみに頼るのではなく、離れた地域から物資を運び込まねばならないのである。そのため、流通が止まると物資の搬入が滞るようになり、平安京内で絶望的なインフレが発生する。
 平安京の都市計画が頓挫した結果、平安京の西半分は都市化が諦められた。その上、平安京の区域内でありながら土地が開墾され田畑となり、荘園に組み込まれるところまで出てきた。田畑で生み出される農作物を平安京に持ち運べば、遠くから運ばなくともどうにかなると考えたのであろう。確かにアイデアは良かったが、そうした荘園もまた武装勢力の争いのターゲットになるとは見越せなかった。


 ただ、封鎖されたといってもそれは東と南の話であり、北と西はどうにかなっていたのだ。平安京の北からの物品が、あるいは平安京の西からの物品は平安京崩壊を食い止めることに成功してもいた。しかし、忘れてはならないのは、産地から平安京までの間に、平安京以外の都市も存在するという点である。平安京とその周辺の人口はおよそ二〇万人だが、範囲を五畿とその周辺に、つまり、自給自足ではなく平安京へと向かう流通に依存する地域に拡大すると、七〇万人に達する。総人口七〇〇万人の時代の七〇万人ということは、日本国の一〇分の一がこの地域に集結していたこととなる。平安京は都市として東へ東へと移動する歴史を経てきたが、この時代の人口重心はむしろ平安京の西に存在したのだ。この七〇万人を養うための流通は、東からは平安京に直接なだれ込んだが、その他の地域からの流通は、平安京以外の五〇万人の需要を満たした残りが平安京に辿り着くこととなる。平安京が完全封鎖されておらず、北と西がまだ機能しているといっても、北は丹波国と山城国の需要が、西は播磨国、摂津国、和泉国、河内国の需要が存在し、それらの国の需要が満たされた後でないと平安京にまで物資は届かない。封鎖されていないと言ってもこれでは封鎖されているも同然であった。

 確かにこの地域は平安時代における最先端地域である。現在で言う第三次産業だけでなく第二次産業の、さらには第一次産業でも最先端を走っていた地域である。それは農業生産性においても例外ではなく、この時代のコメの単位あたり収穫量で言うと時代のトップを走っていた。中でも大和国の農業生産性は高いものがあり、平城京が正式に廃止されてもなお多くの人口を抱えることが可能であった。それだけの生産性がある先進地域だからこそ平安時代以前の都がことごとく大和国に置かれていたのであるが、農業生産性の高い地域が存在することとその地域で自給自足できることとは一致しない。かつては一致したかもしれないが、この時代になると一致しなくなっている。そもそも、農業生産性が高いということは、その土地が荘園である可能性が高いこと、そして、荘園争いのターゲットになる可能性が高いことを意味する。実際、大和国内の至るところで、興福寺、東大寺、高野山、熊野といった寺社勢力による荘園争いが展開されていた。こうなると、大和国の農業生産性を期待する自給自足や平安京への物資搬入どころか、大和国で荒れ狂う武装勢力同士の激突による被害を受けた人たちに対する救済で、ただでさえ乏しくなっている物資を送り届けなければならなくなっていたのである。
 ちなみに、平安京は山城国に存在するが、山城国そのものの統治は平安京ではなく山崎の地にある山城国府が担当する。現在で言うと、国会議事堂も首相官邸も最高裁判所も東京都千代田区にあるが、東京都の統治をする東京都庁は東京都新宿区にあるという構図と同じである。平安京がいかに山城国にある特別な施設であると言っても、平安京以外の山城国については山城国府の管轄であり、平安京がどうこう言うことはできない。平安京の物資が乏しいから山城国内の住人に対して物資の溜め込みをせずに平安京までの流通を妨げてはならないという命令を出しても、その命令は無効であるし、それ以前にそんな命令に従う者などいなかったのである。その一方で、物資不足を訴えてきたら平安京から支援を送り込まなければならない。不条理に感じるかもしれないが、それが統治というものである。

 平安京が危機に陥っているという最中に、朝廷は何をしていたのか?
 結論から記すと何もしなかった。
 朝廷関係者は口を揃えて何もしていなかったわけではないと否定するであろうが、結論を見れば何もしていなかったという回答しか得られないことをしていた。記録に残っているのは三つある。
 その三つとは何か?
 まずは田楽だ。農耕につながる田楽の催しを開催することで農業生産性を上げて平安京内の物資不足によるインフレを収束させようとしたのであろが、踊りまわって騒ぐことは、ひとときの現実逃避にはなっても、現実問題の解決には全くつながらなかった。
 二つ目は仏法だ。堀河天皇自らが、亡き母である藤原賢子のための宸筆法華八講を弘徽殿で実施したのだ。これは母を思う気持ちの表れであり、堀河天皇のこの姿勢を非難する者はいなかった。また、平安京内に大々的に宣伝されたイベントになったことで経済効果をもたらしもした。しかし、祈ることと、インフレの解決とは何のつながりも無かった。
 最後は、視線を国外に向けさせること。特に、この年に日本に逃れてきた宋人についてのニュースを広めることは、現実を一瞬ではあるが忘れさせる効果があった。ただし、その正体を知った後で覆うことになるのは未来へのさらなる絶望なのであるが。
 後三条天皇の改革とほぼ同時期に、宋でも大規模な改革が展開されていた。王安石の改革である。王安石の打ち出す様々な新しい法は宋を大きく改革させることにつながったが、同時に、批判を集める法でもあったために、宋の国内世論が真っ二つに分かれることとなっていた。これを新法・旧法の争いという。旧法派というと新しいことに否定的な守旧派というイメージを抱いてしまうが、彼らとて宋の国内問題が無視できるものではないと知っている。知っているが、王安石の打ち出した新法では国内問題の解決どころかさらなる悪化になると考えた人たちなのだ。一方、新法派というと刷新なイメージを持つことが多いが、新しい自分に酔いしれると同時に、自分たちの信じる新しい法に万能感を持つことにもつながる。そして、この時代となると既に王安石から三〇年以上経過している。三〇年も経った法は新しいとは言わないし、三〇年も経ながら効果を呼び起こしていない法は万能とは言えない。

 ここで王安石の改革、そして、改革を受けた宋の国内が新法派と旧法派との間でどのように揺れ動いていたかを振り返ってみる必要がある。この振り返りをしないと、この時代の日本になぜ宋人が逃れてきたのか、そして、なぜ宋人の来日が絶望への呼び水になるのかを理解できないのだから。
 日本では後三条天皇の時代であった頃、宋では王安石が格差問題に着目していた。豊かな者と貧しい者との間に看過できない断絶があり、豊かな者はさらに豊かに、貧しい者はさらに貧しくなっているという現状をどうにかしなければならないと考えたのである。こうした格差問題は人類史上永遠に終わることのない課題であると同時に、多くの人が改善にチャレンジしては失敗してきたという歴史を背負ってもいる。
 王安石が狙ったのは豊かな者にも相応の負担を命じること、そして、豊かな者が豊かであり続ける理由を断つことであった。特に後者は、豊かな者が豊かである理由を国家が手に入れることで、宋の財政赤字を解消するという狙いも持っていた。何しろ宋という国は防衛費が国家予算の四〇パーセントを占めるだけでなく、遼と西夏の二カ国に年貢を払うことで侵略されない保証を買っていたのだ。平和をカネで買うということであるが、その金額は国家予算の一〇パーセントにものぼる。つまり、平和を維持するために国家予算の半分が注ぎ込まれていることを意味する。しかも、その金額は増えこそすれ減りはしないものであった。
 金額が増えたとしても経済成長で全体が増えるならば割合は減る。しかし、経済は成長するどころか衰退を見せていた。不況に加え不作が宋を襲ったのだ。不況も不作も税収の減少となって現れる。税を納めるように命令されたところで、収穫もなければ売上もないというのでは、脱税する意思を持たなくとも税を納めるなどできなくなる。それでも無理して税を払ったところで何らかの褒章があるわけではない。その年の納税義務を果たしたという事実が前例となって次年度以降のノルマとなってしまうのだ。おまけに周囲を見渡すと税を払っていない者がゾロゾロといる。これでどうして真面目に税を払おうという気になるのか。収穫がなければ、あるいは売上がなければ、税を払わなくてもどうにかなる。
 これでは何のために苦労して働くのかという気持ちにさせられてしまう。豊かになるため働いたとしても、豊かになる前に税で持っていかれる。生活のために働いたとしても、生活する前に税で持っていかれる。その一方で、働かなければ何もされない。良い暮らしをしているのは真面目に働いた人達ではなく、法に触れる、あるいは法に触れないまでも人道的に許されないう方法で資産を築き、要領よく税をごまかした人達なのだ。

 王安石は、新しい法を次々と出すことで、要領よく税をごまかしてきた者に応分の負担を求めたのである。これらの法は当初、熱狂的な支持を得た。
 まずは青苗法。種籾も無くなってしまった農民に対し種籾を貸し出す制度である。民間のそれは一〇〇パーセントという利率であったのに対し、国家からのそれは三〇パーセントという低利である。種籾の貸出業者は金融業者でもあったのだが、国家がより有利な条件での金融に乗り出すことで、それまで高利貸しとして憎まれていた多くの金融業者が大打撃を受けた。
 次に募役法。一般庶民に課されていた運搬等の労働義務を現金での納税で代替可能とするものである。これは同時に失業対策にもなった。失業している者に職業としての物資の運搬を提供したのである。給与は労働義務の代替として支払われる現金を財源として支払われた。
 また、物資の運搬を目的とする均輸法が制定され、物資の運搬にあたる者は皇帝の統制下に置かれることとなった。これにより、ついこの間まで失業していた者は皇帝直属の公務員となったのである。また、均輸法は運搬に要する費用を国で固定することで物価を調整するという側面も持っていた。
 物価の統制としては市易法もある。厳密に言えば均輸法を発展させた法である。この法では、カルテルによる物価の統制と同時に、都市住民への金融が図られた。青苗法で打撃を受けていた金融業者はさらに打撃を受けただけでなく、物品を高値で販売していると考えられてきた商人も大打撃を受けることとなった。
 農地の復旧と開墾としては農田水利法と淤田法がある。前者は戦争などで破壊された田畑の復旧を狙っており、後者は新しい農地の開拓を狙った法であった。また、現状の農地については方田均税法が適用された。現存する田畑を測量し直し、納税のごまかしを防ぐことを目的とする法である。
 国家予算の半分が軍事関連という現状を打破するために保甲法が制定され、一般庶民に軍事訓練が課されることとなった。これは兵力の縮小による軍事費の削減を狙うと同時に、治安維持目的もあった。江戸時代の五人組や戦前や戦中日本の隣組に似た相互監視機能による治安維持である。
 軍事力は兵士だけではない。この時代の軍隊における馬は、現在の戦車であり飛行機である。戦場に連れて行くことのできる馬の頭数は軍事力を図る指標の一つであったこの時代、いつでも馬を集めることのできる仕組みを作るのは重要な軍事政策でもあった。馬の飼育を命じる保馬法が制定され、馬の飼育が義務付けられることとなったのも軍事目的が第一である。ただし、馬を農耕用に使うことも認められるので、人力だけでは耕しきれない田畑を耕すことでそれまでにない収穫を残すことも可能になった。また、汚い話にもなるが、馬糞は貴重な肥料ともなった。

 これらが王安石の打ち出した新法である。注意していただきたいのは、より公正に、より公平にという視点ではその通りなのであるが、今まで真面目に負担を引き受けていた者が、新法によって負担を軽くできたのかという点では、断言できないという点である。確かに、借りた種籾を収穫時に倍にして返さなければならない時代は終わった。しかし、それでも三割増での返還は求められるのである。おまけに、新しい義務が次々と追加された。馬を飼わねばならなくなったし、軍事訓練も受けなければならなくなった。運搬などの労働義務がなくなった代わりに新しい税も加わった。そこに住民同士の相互監視も追加される。たしかに治安は良くなったかもしれないが、生活が良くなったという実感は抱きづらいものがあったのだ。
 現在も頻繁に言われる格差問題に直面した王安石は、格差社会の勝者に負担させることでの格差問題の解決を狙ったことは事実である。ところがそれは、格差の勝者になるために認められてきた権利をはぎ取る代わりに敗者を勝者へと引き上げる道を用意するのではなく、勝者を敗者へと引きずり下ろしての格差問題の解決を図ったのだった。英国元首相のマーガレット・サッチャーは「金持ちを貧乏にしても貧乏な人が金持ちになれるわけではない」と言ったが、同じことを考えたのは二〇世紀のマーガレット・サッチャーだけではなく一〇〇〇年前の中国ににもいたのだ。負担が増えるだけで生活が豊かになるわけでないばかりか、豊かになるチャンスすら潰すものである、と。
 その結果、王安石の打ち出す新法に対する不満が沸き起こったが、その一方で、熱狂的なまでに王安石の打ち出した新法に賛成する者も続出したのだ。改革の手を緩めてはならないとして、新法の見直しではなく、新法のさらなる徹底を図るようになったのである。新法で生活が良くなっていないではないかという指摘も熱狂的な支持者には通用しない。生活が良くなっていないとすれば、それは、新法そのものではなく、新法の不徹底が原因であると考えたのである。
 王安石の打ち出した新法は、王安石の政界引退後も宋の国内で激しい分裂を呼んだ。ただし、彼らの間に一つだけ共通認識はあった。それは、庶民生活が必ずしも良くなってはいないことである。新法を支持する者は新法の不徹底にその責任を負わせ、新法を支持しない者は新法そのものに責任を負わせている。そして、二つの派閥が政権を交替で握るようになり、新法を支持しない旧法派が政権を握ると新法は廃案ないしは無効化され、新法を支持する新法派が政権を握ると新法は復活しより徹底した法の適用がなされるようになる。

 この流れに大きな一石を投じたのが、新法によって強化されたはずの軍事力の現実であった。年貢を支払うことで平和を買っていた宋にとって、年貢を払わなくて済む方法があるなら、その選択肢を選ぶことは当然あり得ることであった。宋が年貢を払っていたのは遼と西夏の二カ国。そのうちの遼は、いかに宋が全力を挙げたとしても戦争を仕掛けて勝てる相手ではない。しかし、西夏なら勝てる可能性はある、いや、勝てると見たのだ。実際に戦争を始める前は。
 そして実際に西夏に宣戦を布告し、軍を派遣したのであるが、戦場から戻ってきた答えは宋軍の完敗。およそ一万の兵士が戦場で命を落とし、宋は西夏への年貢をゼロにするどころか、毎年の年貢を増やさざるを得なくなったのである。
 国に限ったことではないが、集団が興隆しているときに敗北に直面すると、集団内の対立は解消され、敗北からの復旧に、そして復興に向けて動き出す。しかし、衰退期に入ると、敗北は集団内の対立を解消するどころか、さらなる悪化を生み出す要因にすらなってしまう。この時代の宋も、西夏との戦争が敗戦に終わったというのは、直面した敗北以外の何物でもない。そして、敗北と直面した宋の内部の対立がどうなったかを見ると、お世辞にも興隆期の集団であるとは言えなくなる。敗戦に直面した宋で起こったのは、新法派と旧法派のさらなる対立であった。それも、より悪化した対立であった。たとえで言うなら、それまでの両派の対立は、二大政党制である。対立はするが、政権が入れ替わることはあっても命を落とすことはなく、政権を失っても捲土重来を期すことが可能であるという、現代の民主主義で見られる当たり前の光景だったのである。しかし、敗戦を機に、両派が互いに殺しあう凄惨な時代となってしまったのだ。殺さなければ殺されるとあっては両派に友好関係など築けなくなるだけでなく、その敵愾心は相手の派閥は無論、味方にすら向けられるようになってしまう。歩み寄りの姿勢を見せるだけで裏切り者扱いされ、暗殺者が派遣されるというまでに堕してしまっただ。
 王安石の新法は世の中を良くしようという改革だったのに、どうしてこうなってしまったのかと考える人は多いであろう。だが、歴史に刻まれてきた改革を振り返ると何らおかしなこととは思えないのである。それどころか、改革において頻繁に見られることが、この時代の宋でも見られたという感想しか抱けない。改革というのは変えることで良くなることを意図してはじめるものである。多くの改革者は現状で起こっている問題については理解しており、問題が起こっているから、そして、現状のままでは問題がさらに悪化すると考えているからこそ改革を訴えるのである。ただ、改革者の多くは自分を優秀と考えている。自分の考えを正しいと信じている。自分の打ち出すアイデアによって世の中は良くなると確信し、良くならない責任を自分のアイデアそのものではなく、アイデアの不徹底に訴えるものである。

 さらに言えば、改革という概念そのものが、あまりにも簡単な現状批判の道具にもなる。世の中がおかしくなっているからこそ改革すべきと訴え、現時点での政権を批判する手段として、改革という概念をあまりにも容易に使うのである。ここで重要なのは世の中を良くするための批判ではなく、批判している自分に酔いしれるための批判だということ。実際に政権を取った後で改革が実現するかどうかとなると別の話となってしまうのだ。そこまで無責任なことなどあり得ないと考える人は、日本国の国政選挙で野党がどういう主張をしてきたかを振り返っていただきたい。たしかな野党が必要だとか、三分の二を取らせないとか、これのどこが政権選択選挙なのかと疑わざるを得ないスローガンを掲げて平然としている。ついでに言えば、主張している改革の内容は、古臭く、そして、間違っていると歴史が証明しているものばかりである。改革という新しさを感じさせるイメージで自分を飾っているが、実態は必ずしも新しくはない。
 話をこの時代の宋に戻すと、宋の政権は新法派のものとなっていた。皇帝徽宗は宰相に蔡京を任命し、宰相となった蔡京は旧法派に対する大弾圧を開始した。蔡京は新法派の一員であったが、新法派に加わったのは、そのときがたまたま旧法派の政権であったからに過ぎない。現状を批判することで自己を称揚するだけでなく、改革の旗印を利用すれば自分の社会的地位が、自己評価としては低すぎるものであることが説明できるのだ。改革という名目で蔡京が求めたのは、世の中を良くすることではなく、自分の地位の向上、つまり、第三者評価としては高すぎる社会的地位を手に入れることである。このような人物が権力を持つと何が起こるか? 歴史上何度も発生したことであるが、このときの宋においても、対立する派閥への、つまり、これまで政権にあった面々への大弾圧が始まった。それまでにも殺し合いに発展する対立はあったが、このときは規模が違う。旧法派の人物一一二人の名が石碑に刻まれ、宋の各地へと配布されるまでに至ったのである。対立は、派閥争いではなく法律になってしまったのだ。新法派を名乗る者が、自らの名乗りの通りに新しい法律を作ったと言えばそれまでであるが、石碑に名が刻まれたら、本人だけでなく家族も追放となり、書いた書物は発禁処分となるというのは異常である。しかも、一一二人でスタートした石碑は最終的に三〇九人にまで増え、その全員が追放処分となると決まった。旧法派であるというだけで逃げなければならなくなった者は、宋の国内に潜伏し、あるいは国外へと脱出するようになってしまったのだ。
 ここでやっと長治元(一一〇四)年の日本に話がつながる。宋人が日本にやってきたのは、外交使節としてではない。日本に亡命してきたのだ。

 律令制の全盛期の日本にとって、中国は、当時の国号で言うと唐は、憧れの対象であった。唐の言葉が最先端であり、唐の製品が最上級品であり、唐の制度が社会制度の一般常識であり、唐に近い社会を作ることが文明化の証左であった。日本を訪れる唐人も憧憬の対象でこそあれ警戒の対象ではなかった。
 その唐が崩壊した後で迎えた五代十国の時代、日本人の唐に対する慕情は喪失した。歴史上の存在としての唐は慕情の対象となったが、現実の中国大陸は慕情ではなく脅威になったのである。
 何の脅威か?
 侵略されるかもしれないという脅威である。
 侵略なんて妄想ではないかという話はこの時代の人に通用しない。歴史用語では承平天慶の乱とされる平将門の乱と藤原純友の乱は、現代の観点では平将門の乱のほうが著名であるが、この時代では何と言っても藤原純友の乱の記憶のほうがより鮮明であった。被害も大きかったし、この時代の最重要交通路としてもよかった瀬戸内海が封鎖されたことも記憶に新しい。それに、藤原純友の乱が終わってもなお、海賊は現実の脅威であり続けていたのである。藤原純友が率いていた海賊に限ったことではないが、海賊集団の首謀者が日本人であっても、その構成員は日本人だけではなく、日本人はむしろ少数派。日本海や東シナ海だけでなく瀬戸内海で暴れ回る海賊は、逮捕してみれば日本語の通じない相手であり、故郷が滅ぼされた者が生きていくために日本をターゲットとする犯罪をしでかしに来たというのが実情だったのである。
 それが多少なりとも沈静化してきたのは、渤海を滅ぼした遼が多少なりとも地域の警察の役割を果たしてきたことに加え、宋の隆盛による安定も手伝っていた。海賊に出なくてもいいだけの生活が中国大陸で実現するようにはなったのだ。しかし、宋が衰退したとなると、それも、亡命者を出すほどの事態に落ちぶれたとなると、事情は暗いものへとなってしまう。海賊がさらに暴れ回るようになるのか、藤原純友の恐怖が蘇ってしまうのか、あの時代よりも凄惨な時代が来てしまうのかという恐怖は、理(ことわり)でどうこうなる話ではなかったのだ。
 おまけに、この時代の日本は、各地で寺社が武装蜂起している時代である。武装蜂起は平安京の物流を停止し、平安京では大規模なインフレが起こっていた。この社会情勢において、国内だけでなく国外の脅威も存在するとあっては、いったい誰が未来に希望を抱けるであろうか。


 長治元(一一〇四)年一〇月三〇日、朝廷は切り札を投入した。
 正確に言えば、それまで忘れ去られていた、あるいは、忘れられていないにせよ冷遇され続けてきた人物にスポットライトを浴びせたのである。
 その人物こそ源義家であった。源義家に命じたのは、延暦寺の僧侶のうち、実際に犯罪に加担した者の逮捕である。比叡山延暦寺の僧侶であるというだけで逮捕となるわけでもないし、ましてや、比叡山延暦寺を廃墟にしよと命じたわけでもない。現行法に基づく処罰をするよう、源義家に命じたのである。
 現行法による処罰であることを明確化するため、源義家の軍勢には検非違使も参加させていた。現在の警察権に加え、検事でもあると同時に司法権力も持つ検非違使である。おまけにこの時代は、弁護士資格はおろか、弁護士を職業とする者もいない。被告を弁護しようとする者が現れない限り、逮捕した検非違使の手で処罰が決まるのである。この時代、検非違使が出てきたということは、有罪判決が下ったも同じなのだ。
 源義家の登場で比叡山延暦寺も多少は身構えるようになったが、この時代の寺社は、宗教施設であると同時に教育施設でもある。比叡山延暦寺ともなると、現在の総合大学に相当するだけの学生や教育関係者もいるし、教育内容も多岐に渡っている。その中には当然ながら法学も含まれる。
 朝廷が法による処罰を決意し、源義家と検非違使を比叡山延暦寺に派遣した。ここまでは延暦寺としても受け入れざるを得ない現状である。ただし、それで比叡山延暦寺がおとなしくなるわけはない。あくまでも法令を遵守した上で、それまでと変わらぬ行動を取ることにしたのである。
 長治二(一一〇五)年一月一日、延暦寺僧徒が京都に集結し、円宗寺法華会探題証観の罷免を要求するデモをしたのだ。このデモで、延暦寺は祇園神輿を奉じている。訴え自体は法の手続きに則ったものであるし、神輿を奉じているのも宗教儀式であると言われればそれまでである。つまり、比叡山延暦寺のこのときの行動に違法性は全く無く、訴えの内容も朝廷として審理しなければならない内容である。
 ただ、明らかに武装勢力であるとわかる集団が、暴れないにしても大量に集結しているだけでなく、神輿まで奉じて集まっている。宗教観念が薄くなってきている現代であっても、神輿を神聖なものと考え冒涜する者は少ない。殴りかかることも、弓矢を向けることも、火をつけようとすることも無い。あるにはあるが、それは本当に限られた狂信的な者だけである。それ以外の圧倒的大多数の人にとっては神輿の祟りを恐れる気持ちもあるだろうし、恐れない人であっても冒涜などしない。それは礼儀の話である。この時代でも神輿に対する態度は現在と同じで、神輿とは神の乗り物であり、神輿に対して無礼を働くなど断じて許されないものであった。
 それにしても、全てが合法であるとは言え元日からのデモ。平安京の市民に与えたインパクトは大きなものがあったであろうし、白河法皇が三不如意として水害とサイコロの目と並列で嘆いたのも理解できてしまう。


 元日早々に京都が騒然としていた頃、奥州で新たな動きが起こっていた。
 首都が国の最大の都市であるというのは何も珍しい話ではなく、最大の都市を首都としない国の方がマイノリティである。さらに、首都に一極集中させるのも世界的に見て珍しい光景ではない。現代社会で東京が世界的大都市となることができた理由も東京に集中させているからである。「合衆国で起業するには、ボストンから人材を、ニューヨークから資金を集めた上で、ワシントンに陳情しなければならない。それが日本では、人材も資金も陳情も、そして、起業する場所も全て東京で済む。もっと言えば、その全てが一時間以内で行ける場所に集中している」という理由を挙げて東京で起業する者が一定数いるのも、批判されることの多い東京一極集中が、経済的に見ればむしろメリットになっていることの証拠である。
 この現象は、一〇〇〇前の我が国でも類似して起こっていた。難波や太宰府、あるいは博多、あるいは奈良といった都市がこの時代における大都市であるが、そのどれもが平安京に比べれば小規模都市とするしかない程度であった。さらに言えば、奈良や難波は平安京の衛星都市と同様の扱いを受けていた。つまり、現代日本における東京と同様に、一〇〇〇年前の日本国では、何かをするには平安京に行く必要があるし、平安京に行けば必要が全て揃うだけでなく、平安京以外の都市のうちのいくつかは平安京とつながった一つの経済圏を構築していたのである。
 ところが、この平安京を絶対一位とする構図に割って入る都市が登場したのである。
 その都市を平泉という。
 平泉は奥州藤原氏の拠点として有名であるが、現在の平泉は岩手県一関市の北に位置する町である。市ですらない。その、市ですらない平泉が、日本第二位の人口を持つ都市となるべく動き出したのである。最盛期には一五万人の都市になったというが、無論、誕生してすぐに人口一五万人の都市となったのではない。しかし、誕生したその瞬間には既に、遠くない未来に日本国第二位の人口を要する都市になるだけの要件を満たしていたのである。ローマは一日にして成らずというが、平泉もまた一日として成るわけではない。日本第二位の都市となったのはいつかというのははっきりしないが、平泉の中心を成す中尊寺が、大都市の基盤となるべく成立したのはいつなのかははっきりしている。長治二(一一〇五)年二月一五日である。当時はまだ小規模都市ではあったが、事実上、この瞬間が都市としての平泉の誕生としていい。
 それまで江刺郡豊田を本拠地としていた藤原清衡が磐井郡平泉に本拠地を移したのは、平泉の持つ地政学的なポイントに理由がある。

 平泉は奥六郡の南に位置している。つまり、奥六郡の中にある都市ではない。さらに南に行けば陸奥国府のある多賀城があり、多賀城には陸奥国司がいる。本来なら、国司というのは領国内の最高権力者であるが、陸奥国という現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県という広大な領域は一人で統治しきれないし、それ以前に国司の勢力に服属しない集団も存在し続けている。裏を返せば、国司ですら領国内の全ての支配者となることなど不可能というのが陸奥国という地域の特色であり、奥州安倍氏をはじめとする勢力は、名目上は国司に仕える郡司として、事実上は国司の権力の及ばぬ地方の実力者として、奥六郡とその北を支配していたのである。その、東北地方の実力者たちの全ての権力をまとめ上げた藤原清衡が、奥六郡を出て、より南の平泉に拠点を構えたというのが、都市としての平泉の誕生の経緯である。
 具体的に何年何月にその任に就いたのかの記録はないが、この頃の藤原清衡は陸奥押領使という陸奥国の警察権と司法権を握る地位に就いている。押領使を文字通り解釈すると、現在で言う県警本部長と地裁の裁判長を兼任する職務ということであるが、それが陸奥国となると、そこに軍事力の実務方のトップも加わることとなる。陸奥国の制度上のトップというわけではないが、陸奥国の統治において絶対に無視することなど許されない存在になっていたのだ。
 拠点を平泉に移すことを陸奥国司藤原実宗が承認したのは、まさに藤原清衡が陸奥国における軍事力の重要人物になっていることに起因する。軍事力の重要人物であって指揮命令系統のトップに君臨しているわけではないが、京都からやってきた陸奥国に縁もゆかりもない国司と、この時点の東北地方においてこれ以上は考えられない血筋を元で生まれ、育ち、東北地方における強大な権力者となった藤原清衡と、兵士たちはどちらに従うか。ここで藤原清衡の意向を否定することは得策でないだけでなく、前九年と後三年の役を経験してやっと迎えた平和をぶち壊すことを意味する。
 それに、純粋に軍事面だけを考えても、平泉に大きな拠点を構えるのは優れたアイデアである。特に防御のしやすさという点で。
 奥六郡が豊かな土地であるということは、奥六郡の侵略を考える存在のことも無視できなくなるということでもある。忘れてはならないのは、当時の人が蝦夷と呼んだ人たちとは縄文時代の文化に基づく暮らしをしている人たちであり、本州以南で縄文時代が終わっても北海道ではまだ縄文時代が終わっていなかったことである。本州以南では平安時代を迎え、荘園が当たり前となった。これは東北地方でも同じで、各地に荘園が見られるようになった。この時点で東北地方は日本国に組み込まれて二〇〇年以上を経過していたし、自分の民族アイデンティティを日本に置く人も多かった、いや、置いていない人を探すことすら難しい話であった。しかし、北海道に住む蝦夷たちにとっての東北地方はついこの間まで自分たちと同じ暮らしをしていた人たちの住むところであり、かつ、自分たちの先祖がかつて住んでいた場所という認識でもあったのだ。ついでに言えば互いの言葉も通じた。日本国としては津軽海峡より南が朝廷権力に組み込まれた地域であるという認識を持っており、北海道からやってくる人たちは、古い日本語を話す外国人であると考えたが、北海道に住む蝦夷にとっては津軽海峡を超えることは川を渡るのと同じ感覚であり、塩っぱい川でしかない津軽海峡を超えた先もまた自分たちの言葉の通じる同じ文化圏の地域という認識であったのだ。
 津軽海峡を超えて北からやってくる人たちがいても、基本的には北海道に住む者との交流であり、貿易である。熱帯性植物であるコメの栽培はまだ北海道に到達していなかったが、ヒエ、アワ、キビ、ソバなどの耕作は行なわれていたという記録もあるし、実際にそれらの作物の栽培があったことを示す畑の遺跡も発掘されているが、北海道に住む蝦夷の基本は狩猟採集生活であり、農業は食糧不足の補完的側面であって主産業ではなかく、また、その収穫量も多くなかった。生活を維持するために、北海道で狩った動物の毛皮や採取した植物、あるいは鉱石といった余剰品を持ってきて本州に住む者と物々交換をするのであれば、特に何の問題もない。ごく普通の商業だ。
 しかし、津軽海峡を超える理由が交換ではなかったとしたら?
 狩猟採集生活と言えば自然界の動植物を衣食の材料に用いる暮らしを想像するかもしれないが、狩猟採集の対象となるのは自然界の動植物だけではない。農耕生活もまた狩猟採集の対象となるのだ。一年間の農耕生活で獲得した収穫物は、農耕生活をする者にとっての食料であるだけでなく、狩猟採集生活の者にとっても狩猟採集の対象となるのである。北海道の内部でもそれは同じで、狩猟採集の補完としての農作物は、他の集落からの狩猟採集のターゲットになり得た。実際、今から一〇〇〇年前の北海道の集落の遺構を見ると、当時としてはかなり高い防御性をもった構造となっていることが読み取れる。不足を埋めるための行動が北海道内部で完結するのであれば、凄惨な事態であるのは事実でも朝廷権力の及ばぬ地域の出来事である以上、心を傷めることはできても何らかのアクションをとることはできない。だが、津軽海峡を超えたなら話は変わる。
 被害に合わないようにするためには力ずくで立ち向かわなければならない。侵略する者に理(ことわり)は通用しない。ましてや、餓死するかどうかという局面へと追い詰められている集団相手ならなおさらである。
 奥六郡が豊かな土地であることは有名であったが、それは、侵略のターゲットとなる可能性が高いことを意味してもいた。津軽海峡を超えてきた勢力が現在の青森県と岩手県北部を素通りすることはあるだろうが、奥六郡を素通りすることは絶対にあり得ない。だからこそ、これまで本拠地を奥六郡の只中である江刺郡豊田に置いていたのである。ターゲットの只中に強大な軍事力が存在すれば、話し合いの通用しない侵略者でも侵略を諦めるようになる。
 ただ、本拠地を奥六郡に置くということは、奥六郡で軍事力を維持しなければならないということでもあるのだ。軍というものは、それ自体では何ら生産をもたらさない。かといって、本業が他にある者に兵士を兼業とさせると充分な軍事力を期待できない。時期を逃すと収穫に支障が出るというタイミングで従軍を命じられたら、兵士も、地域の庶民も、双方とも貧しい暮らしになってしまう。そこで藤原清衡が考えたのが、奥六郡の南に都市を作り、兵士を都市住民とするというアイデアである。このアイデア自体は何も珍しいものではない。都市とは自給自足できないものである。都市の生活には都市の周辺で生み出される生産物が必要であるし、都市の周辺に住む者は都市で生み出される製品を手に入れることによってより豊かな暮らしをできるようになる。自給自足は経済の無駄遣いであるという言葉もあるが、実際には、無駄遣いなどというレベルに留まらない、無益どころか有害でしかない妄想である。

 大都市を作れば、生産に直接的には寄与しなくても生きていける者を養える。生産に直接的には寄与しないというのは悪口ではない。生活している上で絶対に必要なことをしてくれている人のことである。医師のいない街、教師のいない街を想像できるであろうか。いた方が絶対に良い暮らしができるなどというレベルではなく、必要不可欠な人材だ。ただ、直接何かを生み出すわけではない。医師がコメを収穫することも、教師が布地を織ることもない。しかし、医師がいれば病気や怪我が治り、教師がいれば知識が継承され人が育つ。繰り返すが、医師も教師も必要不可欠な存在である。そして、都市の規模が大きくなればなるほど、直接的に生産には寄与しないが生活の上で必要不可欠な人をより多く養えるようになる。大都市であるほうが多くの医療機関と多くの教育機関を抱えることができ、より高度な教育と医療を享受できる。この、直接的に生産には寄与しないが必要不可欠な人たちの中に、兵士という職種も加えることで、奥六郡をはじめとする地域を全て守ることのできる軍勢を維持することを藤原清衡は考えたのである。無論、奥六郡の軍勢がゼロとなるわけではない。少なくとも、必要最小限の軍勢を残している。だから、奥六郡だけを見れば軍事力が減って侵略しやすくなるように見える。だが、奥六郡のすぐ南に、これまでの奥六郡に鎮座していたよりもはるかに多い軍勢が控えているのである。これでは侵略が成功するどころか、侵略計画そのものを断念するしかなくなる。
 さらに、平泉には奥六郡には無い大きなメリットがあった。日本海沿岸に向かうルートが整備されていることである。東北地方のうち現在の秋田県と山形県に相当する出羽国は陸奥国司の支配の及ぶ地域ではない。しかし、藤原清衡のルーツを辿ると出羽国の豪族に行き着く。公的権力だけで考えれば出羽国に対する指揮権も命令権も持たないが、私的権力まで考えればその両方とも可能になる。おまけに、当時の日本海沿岸は当時の長距離交通の大動脈であった。日本海沿岸を航行して敦賀まで行けば、少し歩いて琵琶湖、琵琶湖を縦断して大津、大津から歩いてすぐに京都となる。京都との情報のやり取りを考えれば、東山道を通って行くことになっている多賀城、すなわち、陸奥国府よりも優れている。


 日本海沿岸を北に向かうと北海道にたどり着き、さらにはその北の樺太にまで行くことができる。樺太に住む蝦夷も北海道に住む蝦夷と同様にもともとは縄文人であり、現在でこそアイヌ語と日本語との間には大きな隔たりがあるが、この時代ではまだ意思の疎通が可能なレベルの差異であった。京都の朝廷に服属するか否かで問えば日本では無いとなるが、同じ言葉を話す人たちという側面で捉えれば少なくとも樺太までは日本文化圏なのである。

 さらに、樺太まで行って間宮海峡を渡れば、あるいはそれより南から日本海を斜めに渡ればそこは沿海州、当時の国号で言うと遼である。遼との交易となればそれはもう国際貿易だ。この頃にはのちの金王朝の原型となる女真族の勢力が現れてきていたが、遼や宋にとっては脅威となる勢力も、刃を交えない限りにおいては貿易相手になるし、実際に交易もしている。
 貿易ルートが整っているということは侵略ルートも整っていることを意味するが、その点でも平泉に拠点を構えることは意味があった。遼や女真族が日本海を渡って日本に攻め込んできた場合、平泉から軍勢を直ちに派遣できるのである。たしかに日本海沿岸の集落だけを見れば侵略可能なように見えるが、すぐにその集落まで駆けつけることのできる軍勢が控えているとなると侵略するに躊躇するようになる。
 と、ここまで記してのを読まれた方の中に、このような感想を抱いた人はいないであろうか?
 地政学的にここまで重要な土地であるのに、それまで平泉には何もなかったのか、と。
 その答えは単純明白で、既に平泉には軍事基地が存在していたのである。その軍事基地を「衣の関」という。藤原清衡は何も無人の荒野に都市を作ろうとしたのではない。既に存在していた基地を整備拡充して都市にしようとしたのである。元々が軍事基地であるから軍勢を抱えておくこと自体何ら不都合はない。不都合があるとすれば収容能力を超える軍勢を抱えることになるという点であるが、それは都市機能の拡充に合わせた基地機能の拡充でどうにかなった。
 さて、藤原清衡がこれだけの都市を作ろうとしたのはわかったが、その点について、以下のような疑問を思い浮かべたかたもいるのではないであろうか? その費用はどこから出ていたのかという疑問を。
 従来は、東北地方で産出される砂金を財源とする都市の建設という説明がなされていたが、近年、砂金だけではない、さらには砂金以上に効力のある財源があったのではないかと考えられるようになった。
 その財源とは、比叡山延暦寺。
 実は、中尊寺は比叡山延暦寺こと山門派の寺院である。先に述べたように、平泉から日本海に出ることで京都との情報のやり取りがあったと記したが、そのルートの途中には比叡山延暦寺がある。山門寺門の争いは京都市民にとって迷惑極まりない、さらには命の危険性さえ気にしなければならない大問題であったが、どちらか一方の勢力しかない地域にとってはもう一方の勢力と争うことそのものが存在しない。そして、そのどちらの勢力も存在しない地域に新しく寺院を建てるという話をしたら、勢力拡張を考えるなら率先して乗り出す。比叡山延暦寺は藤原清衡の誘いに乗ったのである。比叡山延暦寺が負担を引き受けた上での寺院の建立である。その代わり、完成した寺院は山門派の寺院となる。

 藤原清衡にとって重要なのは都市の中心をなす寺院が存在することであり、その寺院が山門派に属していようが寺門派に属していようが全く関係ない。それに、医療も教育も現在のように整備されていない時代において、寺院というのは地域の教育機関であり、また、医療機関でもあった。都市を建設する者は都市に必要な住民サービスを考える必要が絶対にあるが、その建設費用と維持費用は軽く済むものではない。その軽く済むものではない住民サービスを、藤原清衡は比叡山延暦寺に全負担させたのである。白河法皇が意にならぬものの一つとして嘆いていた比叡山延暦寺も、学問という視点で見ればこの時代の最高の機関だったのである。その最高の機関の生み出す医療と学問を平泉に持ってくるというのは、現在の感覚で行くと、一流大学のキャンパスと大学医学部の付属病院の一部を移転させてきたようなものである。
 中尊寺という比叡山延暦寺配下の寺院を平泉に建立させたが、平泉にある寺院は中尊寺だけではない。中尊寺につながる小さな寺院を平泉の街中に点在するように建立させ、それぞれの寺院もまた、その地域の公的施設の役割を果たすよう、藤原清衡は比叡山延暦寺の予算で建立させたのである。大病院の近くにある小規模クリニック、あるいは、大学の近くにある小中高等学校、そして、警察署の近くにある交番といった役割と考えればわかりやすいであろう。比叡山延暦寺にとっては大きな負担になったが、負担が投資になり、投資がリターンとなり、比叡山延暦寺に返ってくるのだから、出費は歓迎こそすれ忌避するものではなくなる。
 都市の公的施設の役割を成す寺院を建立しただけで都市は成り立たない。門前町として発展するにしても生活用水の確保に道路の整備、商業基盤の構築といった都市住民のためのインフラの整備は必須である。藤原清衡は当然ながらこれらも考えている。
 忘れてはならないのは、平泉がかつて「衣の関」という軍事基地であったことである。軍事基地というのは、城に立て籠もって敵の侵略から身を守る設備ではなく、軍隊の派遣をよりスムーズにするための設備である。ゆえに、道路は軍隊が行軍しやすくなるように整えられている。平泉の北には衣川、東には北上川が流れているのも平泉の大きなポイントだ。鉄道という概念が無い時代、川は現在の鉄道の役割を果たしていた。川を航行する船は鉄道車両に、川にある港は現在の鉄道駅に相当し、人や貨物は川を使って移動できた。さらに言えば、河川の水を生活用水として利用できる。
 寺院があり、交通インフラがあるというだけでは都市の構築は不充分である。それだけの設備を持った場所は日本国内の至るところにある。平泉が日本国内の他の地点と大きな違いを見せたのは、都市の安全性である。どんなに優れたインフラがあろうと、どんなに優れた教育機関や医療機関があろうと、命の危険に関わるようなところに住みたがる人はいない。その点で、平泉はこの時代の日本国において最高であったと言える。何しろ藤原清衡という東北地方全体に睨みを利かせることのできる人物の本拠地である上に、都市の中心をなす中尊寺が比叡山延暦寺の配下にある寺院なのだ。比叡山延暦寺の僧兵と奥州藤原氏の軍勢の連合軍というのは、敵の立場に立つならば恐ろしいことこの上ない存在であるが、守ってくれる立場の存在として考えると、この時代のどの集落でも危惧されていた武装強盗集団の襲撃に対抗してくれるありがたい存在に変わる。

 また、こうしたありがたい存在は都市の中における警察の役割も果たしていた。藤原清衡自身が陸奥押領使という陸奥国における警察権と司法権を握っている存在であるということは、藤原清衡の部下は、単なる兵士ではなく治安維持を担当する警察官ということになる。
 豊かな暮らしが期待でき、安全もまた期待できる新しい都市を作ることは、それがゼロからの誕生であるがゆえに一つの大きなメリットを持つ。それまでのしがらみを完全に無視することができるのだ。新しく移り住んで来た人が何年経っても余所者扱いされ、幼少期の人間関係が年齢を重ねても健在であり、生まれた家柄で人生がある程度決まってしまうようなところに住み続けたがる人はいない。乗り越えることのできないヒエラルキーが存在し続ける場所に住み続けるのはそれしか手段がないからで、それ以外の手段があれば、それも、今までの暮らしよりも優れた日常が期待できる手段があれば、人は移り住む。平泉という新しい都市であれば誰もが新参者で誰もが余所者なのだから古参住人であることを大きな声で宣言する者などいない。いたとしてもそれは喧しい騒音でしかなく、耳を傾ける者などいない。新参者の方が圧倒的マジョリティなのだから。その上、幼少期のヒエラルキーなど関係ない。新しい都市での社会的地位は現時点のみで決まり、幼少期のことなど何の意味も持たない。生まれた家柄となると、藤原氏などの有力貴族は別としても、小さな集落の中の上下関係など、誇ろうとすればするほど嘲笑の対象となる。何しろ新しい都市は本人の生まれに基づく社会的地位など完全に消し去られているのだ。
 平泉という新しい都市に可能性を見出す人が生まれ、そうした人たちが揃って平泉へと向かうようになった。
 ある者は陸路で。ある者は海路で。


 奥州平泉に平安京に迫ろうかという規模の都市が生まれつつあることを、この時代の平安京の人がどれだけ知っていたのかはわからない。ただし、一つだけ言えることがある。それは、平安京以上の都市は存在せず、平安京とその周辺からなる京都は日本国の全ての中心であるという概念を崩さなかったことである。京都はこの時点で日本国内最多の人口を擁する都市であるが、仮に人口において京都を上回る都市が誕生しても、日本国は京都を頂点とするピラミッド構造になっていて、京都から離れれば離れるほどピラミッドの下段に来るという感情は永遠不変のものであった。京都以外で何かがあって京都に情報が飛んできたら、京都の朝廷が、あるいは白河法皇が命令をして従わせるという構図もまた不変であり、その命令も絶対であり、この構図が崩れることなど誰も考えておらず、京都の命令に従わない地域が生まれるという考えも生まれなかったのだ。
 考えが生まれなかった代わりに、地方の実情を理解しない中央と、中央の命令に従わない地方という構図が生まれた。
 律令制に遡るが、国司というのは朝廷から多大な権限を受けて地方に赴任する一方で、国司のもとに仕える郡司以下の地方官人はその土地の人、そのほとんどはその土地の有力者である。この仕組みは長治二(一一〇五)年でも変わらない。しかし、国司に任命されながら赴任しない者が出る一方で、国司として赴任したまま任国に留まり、任期を終えても平安京に戻らない者が生まれると、地方が中央から徐々に独立していくようになる。平泉の誕生は奥州藤原氏という特殊事情があってのものではあるが、平泉とまではいかなくとも各地に有力な都市が誕生するようになり、京都の指揮命令権が相対的に縮小するようになっていった。
 京都の命令の及ぶところならば、朝廷の、あるいは白河法皇の命令は絶大なものとなる。自らの権威づけとして京都の命令を求めるようになるし、逆らうなど考えられない。だが、京都の命令が及ばないとなると、どうにもならない。
 どんな時代でも、時代の変化を敏感に察知して社会の仕組みを時代の変化に合わせようとする者と、時代の変化の方を改めて社会の仕組みを残そうとする者とがいる。この時代の京都で言うと、朝廷は後者で、白河法皇は前者であった。白河法皇自身、自らの権力を藤原摂関政治における摂政や関白に擬した存在と捉えていたが、藤原氏にあって白河法皇には存在しない点が、特に地方に視点を向けた上で存在しない点が一つある。
 人的ネットワークだ。

 藤原鎌足以後、数多くの藤原氏の貴族が登場し、奈良時代に四つの家に分裂はしたものの藤原氏という枠組みは残っていた。四つの家、南家、北家、京家、式家の中で北家が圧倒的存在になり、藤原北家の当主が藤原氏全体の当主となるのが当たり前となり、藤原北家の中でも様々な家系に分かれるようになったが、それら全てを合わせた藤原氏というネットワークは地方の隅々まで張り巡らされていた。藤原氏自身は確かに京都にいる。京都を本拠地としているし、藤氏長者は京都にいるのが当たり前である。しかし、藤原氏自身は地方の情報を朝廷よりは集めることができていた。必要とあれば藤原氏があくまでも私的に地方に対して指示を出したり、支援したりすることもできたのだ。この時代の藤原氏のトップである藤原忠実の頼りなさの一つはこうした指示や支援の乏しさも加わる。裏を返せば、頼もしさを感じさせる藤氏長者は例外なく地方にも目を配ることができていたのである。
 こうしたネットワークを持つのは藤原氏だけではない。村上源氏にもあるし、その他の貴族にもある。貴族だけでなく寺社も持っている。
 なぜか?
 このネットワークの根幹をなし、ネットワークを強固なものとさせていたのが荘園だからである。
 一つ一つの荘園は独立した経済体であるが、荘園の寄進と拡張によって荘園間の経済ネットワークが誕生してきていたのである。と言われてもピンとこないかもしれないが、財閥、あるいは関連企業と考えればピンとくるであろう。人やモノ、そしてカネ、カネと言っても貨幣経済ではない時代であるからコメや布地ということになるが、それらを融通しあうシステムが誕生し、同じ藤原氏、同じ寺院、同じ神社を荘園領主とする荘園間に経済的なつながりが生まれただけでなく、荘園はその規模をますます大きく、荘園領主はその資産をますます増やすようになっていたのである。一つの荘園で何かしらの危機が起こったとき、たとえば自然災害や戦乱に巻き込まれたなどの理由で荘園に住み続けることができなくなったときであっても、同じ荘園領主である他の荘園が人を受け入れることはよく見られた。避難民の支援という側面もあるが、現在で言うと、グループ企業における出向、あるいはグループ企業間の転職といったところか。
 また、新しい荘園を開拓するときも、荘園領主だけでなく、同じ荘園領主である複数の荘園が協力しあって資本や人を出し合った。グループ企業が人を出し合って株式を持ち合う子会社を作ることがあるが、これと似た光景は平安時代の荘園にも誕生していたのである。こうなると、荘園の一員になることができれば、それも有力な荘園領主をトップに据える荘園の住民になることができれば、一生はかなりのレベルで安泰だ。
 荘園は元からして荘園領主への年貢を払う代わりに税という公的負担を逃れうる仕組みである。公的負担を拒否するなら公的支援も求めるなという言葉が出てくるのは普通に見られるが、その脅しの言葉はこの時代の荘園の住民には通用しない。この時代はそもそも公的支援など期待できなかったのである。自然災害であろうと人災であろうと、災害に直面したときに朝廷は何一つ助けてくれない。朝廷に言わせれば助けるだけの余裕がないということになるのだが、公的支援を求める側にとってその理屈は通用しない。いざというときに備えて公的負担を引き受けていたのに、いざというときを迎えてしまったにもかかわらず公的支援を得られないとあっては、誰が公的負担を引き受けるというのだろうか。公的負担を引き受けない代わりに公的支援も拒否する。その代わりに荘園領主へ年貢という私的負担を払い、いざというときは荘園領主から私的支援を得る。負担は税という公的負担より安い上に、得られる支援は公的支援より多いとあっては、荘園と、荘園でない土地と、どちらを選ぶ者が増えるのか、その答えは自明である。

 ところが、この時代の人の全員が全員、荘園の住民になっていたわけではない。と言うより、過半数は荘園の住民ではなかった。それどころか、荘園は全ての農地の一割にも満たなかったのである。荘園は前述のような特権を得た豊かな暮らしをしているが、荘園でない地域はこのような特権などなく、公的負担と公的支援しか選択肢がなかったのだ。しかも、公益支援はあるということになっているだけで、実際に行なわれるわけではない。
 ならば、荘園の住民になればいいではないかということになるが、そう簡単に荘園の住民になどなれない。これは現在でも言えることであるが、新参者を快く迎え入れる了見の広い地域は少ない。しかも、自分たちは荘園の住民であることに誇りを抱き、荘園の住民でない者を見下している。格下の者が自分たちと同格に上がってくることなど断じて受け入れられないことであったのだ。生活において困ったことがある場合、特に人手不足である場合、一時的に荘園の周囲に住む者を荘園内に受け入れることがあるが、それはあくまでも一次的な滞在であって永久的な滞在ではない。仮に永久的な滞在になったとしてもその地位は荘園内に元々住んでいた住民から一段下の地位に止め置かれる。負担は多く、利益は少ない地位である。荘園の住民というのは現在で言う正社員に相当し、そうでない住民は非正規雇用に相当するとしてもいいだろう。契約形態についてもそうであるが、手厚い保護を受け、高い収入を得られるという、断絶と形容するしかない正規と非正規との格差にも似た問題が、この時代の荘園と非荘園との間に存在したのだ。
 これを差別と呼ばずに何と呼ぼうか。
 荘園と非荘園との格差を格差問題と考えて荘園を整理しようとし、最終的には荘園廃止を目論んだのが後三条天皇であり、その判断が熱狂的に迎え入れられたのも問題を認識する人の多さに由来するのだが、荘園整理の結果は絶望的なものであった。GDPマイナス九・一パーセントという経済危機がそれである。差別であり格差であるという問題が存在することで経済が成り立っていたのであり、社会構造を否定したときに待っているのは経済の破綻だったのだ。この危機を目の当たりにした当時の人たちが考えたのが、格差問題に目を向けることではなく、格差の勝ち組になることであった。荘園と非荘園との間の格差を維持し、荘園住民であることを維持し続けることを選ぶようになったのだ。そして、荘園住民であることを維持するために、荘園の周囲ではなく、他の荘園との連携を選ぶようになったのだ。不足を非荘園に求めるのではなく他の荘園に求める。ここで求める対象となる他の荘園というのは同じ荘園領主である荘園であり、そのつながりは近さに優先する。徹頭徹尾、ここに非荘園という概念はない。
 荘園同士のつながりはもう一つの意味を持った。荘園の住民であることを誇りとする者であるなら、別の荘園であっても、同じ荘園領主の元で暮らす荘園住民となれば歓迎できる移住者となれる。裏を返せば、荘園内で余剰となる人手を他の荘園に移住させることで人余問題を解決できたのだ。これまで、荘園内で人が余り、田畑を用意することができないとなったら、荘園を出て行って非荘園の者となるか、荘園を拡張して新しい田畑を生みださなければならなかったが、これからは他の荘園という選択肢が得られるようになった。既に荘園住民である者が荘園住民という社会的地位を手放す必要がなくなったのだ。

 朝廷の収入源は非荘園の土地からの税収であり、その金額は年々減っている。一方、貴族個人の収入は荘園からの年貢で安定したものが得られている。しかも、貴族個人は地方にネットワークを張り巡らせることで情報を得ることに成功しているが、本来なら日本全国に張り巡らされているはずの朝廷のネットワークは機能低下に陥っている。
 この状態を目の当たりにした白河法皇が選んだのが、白河法皇自身が荘園領主となることであった。事実上はどうあれ、名目上、白河法皇は一人の僧侶である。そして、荘園領主が貴族であるケースの他に、寺院が荘園領主であるというケースも珍しいものではない。となると、白河法皇自身が荘園領主となることで、安定的な収入と地方に張り巡らされたネットワークの構築が可能となる。しかも、差別問題であり格差問題でもある荘園と非荘園の問題をとりあげ、非荘園であるために荘園のメリットを受けられず一段下に置かれているという問題を解決するのだと宣言したら、文句を言うなどできなくなる。
 白河法皇は、荘園となっていない村落や田畑を自身の荘園とするとしたのである。こうなると、社会的地位の大逆転が起こる。それまでは非荘園ということで一段下に見られていた地域の住民が、これからは白河法皇を荘園領主とする荘園の住民になるのだ。荘園領主が藤原氏であるとか、荘園領主が大寺院であるとかを荘園の誇りとしてきた住民にとっては、藤原氏や大寺院をはるかに上回る巨大な存在を荘園領主とする荘園が現れたことを意味する。しかも、その荘園の住民は今まで自分たちが見下していた地域の面々なのだ。それまでは「うちの荘園の田畑を耕させてやる」という態度でも、今いる非荘園よりはマシだと考えて荘園にやってきた面々が、これからは完全無視となる。非荘園の住民を働かせることで生産を維持できていた荘園は、生産維持のほうを諦めなければならなくなったのだ。
 荘園となる前から豊かな土地であった土地というのは実は少ない。新しく開墾した土地に人と資材を投入して誕生したのが黎明期の荘園である。一方、非荘園の土地というのは以前から豊かな土地であったところが多い。「豊かな土地であった」という過去形で記したのは、時代を経て豊かさが逆転したからで、元々は豊かな土地であったのに重い税負担で衰退して貧しくなったのが非荘園であり、豊かでは無かった新しい土地を豊かにさせていったのが荘園なのである。荘園内で人手が足りないとき、呼びかければ人が集まったのは、相対的には豊かであったからであるが、これからは非荘園もまた荘園となることとなった。荘園ではなかった土地というのは本来ならば豊かな土地なのだ。その非荘園の本来の豊かさを荘園となったことで取り戻すと、従来の荘園の持っていた相対的な豊かさは喪失する。しかも、これからは白河法皇という絶大な存在を荘園領主とする超一流の荘園の住民だ。社会的地位の向上がここで誕生する。


 平泉の誕生と白河法皇の荘園という二つの社会の流れは間違いなく社会の大変動であった。それも、これまでの格差問題、いや、格差というレベルを超えた差別問題に対処するこれ以上ない復讐になっていた。これまで格差の負け組とされ差別されていた者が一瞬にして格差の勝ち組になり、それまで格差の勝ち組であった面々は格差が、そして自身のプライドが破壊されただけでなく、生活に支障が出るようにまでなった。自分では耕しきれない田畑を持っているとき、これまでは土地を持たぬ者、あるいは、土地を持っているがそれが非荘園であるために高い負担を引き受けさせられている者に耕させるという手段を選ぶことができた。しかも、上から目線で。それが今や、上から目線どころか耕しに来てくれと頭を下げなければならない状態である。おまけに、頭を下げても応じない。それまで自分たちの上に立っていた人間が困ろうと知ったことでは無いのだ。自分たちの上に立つのは、平泉では藤原清衡、白河法皇の荘園では白河法皇であり、恩も義理もない、さらに言えば恨みしかない赤の他人など、上に立つ存在ではない。
 結果、白河法皇は豊かになった。平泉も豊かになった。平泉に移り住んだ者や白河法皇の荘園の住民となった面々も豊かになった。
 その一方で、従来の荘園は生産を維持できずに貧しくなり、従来の荘園の荘園領主は受け取る年貢が減って資産を減らした。
 そして、朝廷の税収が激減することとなった。荘園でない土地、すなわち、税が課される土地が激減したのだから、同じ税率では絶対に税収が減るし、税収を維持しようと税率を上げようものなら、待っているのは農地の放棄と失業者の増大だ。おかげで、朝廷は多額の予算をかけた仕事ができなくなってしまった。
 この時代のGDP成長は断じてプラスでは無い。全国的に見ればマイナスである。特に国家予算という点では絶望的な数値である。現在でも大企業に負担を命じるような政策を考える人がいるし、実際にそのような政策を採った執政者もいる。ジンバブエ経済を破壊したムガベ大統領を思い浮かべるかもしれないが、もっと有名なところではアドルフ・ヒトラーなんて例も存在する。さらに言えば、戦前戦中の日本だって大企業にかなりの負担を命じてきた。こうした失敗例を特筆すべきことと考えずに公平な目で歴史を眺めても、大企業に対する風当たりを強くすればするほど、復讐心は満足できても経済は悪化するというのは証明できている。これについてはマルク・レヴィンソン氏の著書「例外時代」に詳しい。そして、同じくマルク・レヴィンソン氏の著書を参考に言うと、白河法皇自身が荘園を大量に保有するようになったことが日本国の経済にどのような影響を与えたかは、故マーガレット・サッチャー以前のイギリスにおける産業国有化と類似していると述べれば、ある程度は理解してもらえるであろう。違いとしては、イギリス政府ではなく白河法皇という個人の所有となっていたことがあるが、経済に与えた影響を考えると両者はかなり似ている。
 朝廷内の権力争いを考えたとき、莫大な荘園を持つようになった白河法皇は強くなった。強くなりすぎてしまった。朝廷そのものも、朝廷内の有力貴族たちも、揃ってその資産を減らしてきているときに、目に見えて豊かになってきていた白河法皇は相対的に巨大な存在へとなった。そう、あくまでも相対的であり、絶対的に巨大な存在ではない。それがこの国にとっては不幸なことであった。

 社会の流れが変わってきていること、言うなれば下克上にも似た社会の変動が起こっていることを察知できた者は少数であった。多くは、これまで続いてきた社会を乱す者が出てきたが、すぐに元に戻るであろうと考えていたのである。
 これは日本国内に限った話ではなく、東アジアに目を向けても同じことが言えた。
 五代十国の混迷を経て中国大陸を統一したはずの宋も、遼や西夏といった勢力の前には弱かった。経済的には発展を見せていたし、産品の海外輸出で稼ぎを得るようにもなっていたが、軍事力で中国大陸を統一し、徴兵制も敷いて軍事力の強化を図り続けてきた国でありながら、その軍事力は弱かった。大軍を率いて戦争に赴いても、戦いに負け続け、賠償金として年貢を払い続けることで平和を買う状態であった。
 朝鮮半島を統一した高麗も遼に服属することで命を永らえる状態であった。これは朝鮮半島に人類が住み続けるようになってから現在まで続いていることであるが、朝鮮半島というのは元々が貧しい地域である。農作物が育たないし、日用品も生み出さない。それでいて戦争を頻繁に引き起こす。田畑を耕すよりも近隣諸国に出向いて略奪をするほうが稼げるということで、日本だけでなく、宋に至るまでの中国大陸の国々は無論、宗主国であるはずの遼ですら、高麗人の海賊や山賊の襲撃のターゲットとなってきていた。それを力ずくで食い止めてきたのが遼である。遼の軍事力で強引に海賊や山賊を高麗国内に留めようとしてきたのである。あくまでも留めようとしてきたというだけで一〇〇パーセントの確率で留めることに成功してはこなかった。その証拠に、日本にも、宋にも、遼にも、高麗人の山賊や海賊の襲撃の記録が残っている。ただ、それでも新羅の頃よりは少なかった。新羅と違って遼の監視が有効だったということでもある。
 しかし、遼による安定は弱まってきていた。この頃に一つの勢力が目に見えて勢いをつけ、遼の監視を弱めるものにさせっあったのだ。その勢力のことを女真族という。
 女真族の名称自体はこの時代より一〇〇年以上前には既に登場している。日本国においても刀伊の入寇で既に史書に名を刻んでいる。それまでの女真族は部族集団であって国家ではなかったが、この頃の女真族は国家に相当するレベルの集団へと成長するようになっていたのだ。それまでも高麗や遼への侵略を繰り返し、刀伊の入寇時には高麗人と組んで日本への侵略もしたが、それは海賊や山賊の延長上であった。つまり、厄介で迷惑極まりない存在ではあったが国家権力を動員すればどうにかなった存在であったのである。しかし、この頃になると、国家権力ではどうにもならないレベルに成長してしまっていたのだ。何しろ遼の正規軍が女真族の軍勢の前に敗れ去ったのだから。

 遼の正規軍が敗れたというのは、それまで遼に服属していた高麗にとって独立のチャンスではある。独立のチャンスではあるが、女真族の立場に立つと、自分たちが戦いを挑んで勝った相手の属国であるだけでなく、それまで何度も女真族に向かって略奪を繰り返してきた相手である。今度は高麗が略奪を受ける側になった。
 強固な同盟関係であった渤海国と違い、日本と遼との間は緩やかな同盟関係である。そして、明確な敵対関係であるだけでなく一〇〇年間に四回の戦争をしてきたのが日本と新羅との関係であったが、高麗となると緩やかな同盟関係にある国の属国であり、身構えはするものの、新羅とは違って戦争には至っていない。高麗も宗主国の同盟国ということで、日本国のことを、新羅が四回に渡って繰り返してきたような国家ぐるみの侵略のターゲットとはしていない。例外は刀伊の入寇だけである。
 そんな高麗に対する遼の支配が終わり女真族の侵略を受けるようになった。そのまま時期を経たとき、待っているのは高麗が女真族の属国となり、刀伊の入寇のような略奪行を繰り返す、それも、これまで以上に大規模な状態で繰り返す日々である。侵略をしようとする者に道理は通用しない。侵略を企む者は例外なく、何かしらの理由をつけて侵略をはじめる。全く問題ない関係を維持していたとしても、解放を名乗って侵略をはじめる。
 朝鮮半島からの侵略を食い止める方法は一つしかない。侵略したとしても、コメ一粒奪うこともできず海の藻屑に消えてしまうと思わせるだけの軍事力を用意することである。侵略者に道理は通用しないが、殴り合いで勝てるかどうかの判断を求めることは可能だ。
 ところが、この時点の日本国における侵略対策は心もとないものであった。女真族と高麗の二カ国からの侵略が想定しうるケースとしてあり得たのである。
 女真族が北から攻めてくるケースについてはどうにかなった。
 女真族が現在のウラジオストクのあたりから攻めてくる場合、日本海を一気に斜めに横断してやってくることは、考えられないことではないにしてもどうにかなる話ではあった。この時代の航海技術で日本全土を侵略して支配できるだけの軍事力を送り込むのは困難である。不可能とは言い切れないが現実的ではない。それに、この時代の日本海沿岸は日本国における重要な交通ルートである。大軍を指揮しての侵略が威力を発揮するのは、大軍が何の前触れもなく現れることであり、重要な交通ルートである日本海を船が行き交っている日常において、大軍はともかく、何の前触れもなくというのは難しい。大軍を日本に向けて航行させたとき、日本海を縦断して日本にやってきた軍勢が目の当たりにするのは、日本海沿岸に布陣を強いた日本の軍勢である。

 女真族が大軍を率いて日本に侵略しようとした場合、海路を最小限に食い止めるには、間宮海峡を渡って樺太に至り、宗谷海峡を渡って北海道に至り、津軽海峡を渡って東北地方に至るというルートになる。かなりの長距離であるが大軍の移動が不可能な距離とは言い切れない。当然ながら過酷なルートであり、侵略軍が東北地方に到着した頃には疲弊しきった状態であるだろう。それでも日本全土の侵略を狙うなら耐えることも可能かもしれない。その、耐え続けていた侵略軍が目の当たりにすることとなるのが、まさに誕生しっある平泉という軍事拠点である。これを侵略計画などとは呼べない。
 しかし、日本国にとって厄介なルートが存在する。この時点までの日本国が歴史上で受けた侵略のほぼ全てに該当するルートである。それが、朝鮮半島から、対馬、壱岐を経て、九州に上陸するというルート。航行距離が短いために大軍の移動も可能であるだけでなく、航行距離の短さから前触れなしで大軍が姿を見せるということも不可能ではない。新羅との四回の戦争では、そして、刀伊の入寇では、被害をゼロにすることはできなかったが、最終的には戦勝で終えることはできた。ただし、これまでは、という条件付きであり、これからもその条件が有効である保証はどこにもない。
 この時代の日本国に必要なのは、朝鮮半島の情勢を常に察知することである。ところが、朝廷の情報収集能力は目に見えて衰えてきている。そして、朝廷の予算も減ってきている。情報を正しく収集し、潤沢な予算で対馬、壱岐、そして九州北部の防御を固めることができれば侵略を食い止められるし、それ以前に侵略そのものを全く起こさせないようにすることも可能だが、今や、その両方がない。
 朝廷はこの現状の前に何をしてきたか?
 本来、朝鮮半島情勢を常に把握して適切な対処をとり、京都の朝廷に定期的に情報を送りっ九州で軍事力を組織して侵略を食い止めるのが太宰府に与えられている役割であった。藤原純友の乱で太宰府が灰燼に帰し博多が九州の一大拠点として発展しっあっても、九州の行政は太宰府が担っていた。その太宰府のトップであったのが藤原季仲である。太宰府に実際に赴任しない者も多い中、藤原季仲は実際に赴任して九州の統治に尽力していた。
 太宰府の統治下にある国は九州と、対馬国、壱岐国からなる合計一一カ国である。この一一の国の税はいったん太宰府へと集められたのち、国土防衛に必要な予算を太宰府で確保した残りが平安京に送られることとなっている。九州一一カ国の荘園の認定も、京都まで行かなくとも太宰府で可能だ。また、国土防衛の費用が不足しているとなったら太宰府のトップである太宰帥(だざいのそち)の権限で税を課すことも認められていた。この時代の太宰府のトップである藤原季仲は太宰帥ではなく太宰権帥(だざいごんのそち)であり、役職としては大宰帥より一段下であっても、与えられている権限は太宰帥と同じである。そして、藤原季仲は太宰権帥としてなすべきことをしたのである。

 前述の通り、太宰府には九州一一カ国における独自の徴税権と荘園の承認権がある。税を課されながら税を納めない者に対する処罰を下す権限もある。藤原季仲はそれをした。税を課しながら払わないでいる者を逮捕しようとしたのである。
 問題は、その逮捕しようとした者というのが比叡山延暦寺につながる寺院の僧侶であったことである。その男が言うには、自分は比叡山延暦寺の僧侶で、ここ筑前国大山寺竃門宮は自分が管理する比叡山延暦寺の荘園であり、太宰府の支配下には無いというものであった。
 税を払わないというのは問題であったが、ここが荘園であるとするなら、現在の法律では租税免除は困難でも、この時代の法であれば可能だ。そして、その男が訴えている内容が荘園であるために免税というだけであれば何の問題もなかったであろう。しかし、その荘園は越前国大山寺の荘園であって比叡山延暦寺の荘園ではなかったのだ。荘園に住む者にとっては、免税はいいにしても、自分たちの荘園を勝手に乗っ取ろうとしているのがいるというのは納得できるものではなかった。さらに、この時点での男の述べる身分はあくまでも自称であり、本当に延暦寺につながる僧侶であるかどうか以前に、そもそも僧侶なのかどうか怪しいというものであったのだ。
 おまけに、藤原季仲が筑前国大山寺竃門宮に立て籠もった容疑者を逮捕しようとした結果、容疑者がその場で亡くなったのである。容疑者死亡という結果ではあったが、荘園は越前国大山寺所有の荘園であって比叡山延暦寺所有の荘園ではないという結論に至り、徴税は不可能であったにせよ、事件は不明瞭ながら解決したかに見えた。
 ところが事態は長治二(一一〇五)年八月二九日に急展開する。
 延暦寺の僧徒が大挙して京都に押し寄せたのだ。要求は、藤原季仲の罷免と、荘園が比叡山延暦寺所有であると認めることである。本当に比叡山延暦寺の僧侶であったかどうかは怪しいし、比叡山延暦寺所有の荘園である証拠もなかったが、それを受け入れるようでは白河法皇だって三不如意の一つに山法師、つまり、比叡山延暦寺の僧侶を挙げたりはしない。とにかくごねまくるデモ集団が藤原忠実の邸宅前に押し寄せ、要求を認めるまで騒ぎ続けたのである。
 結果は比叡山延暦寺の要求が全て認められたものとなった。藤原季仲は太宰権帥から罷免され、荘園は比叡山延暦寺の所有であると宣言することとなったのである。

 完全に朝廷の権威は失墜していた。
 堀河天皇はこの現実をどうにかしなければならないと考えていたが、予算不足という現実が存在していてはどうにもならなかった。
 この現実の前に堀河天皇が執りうる手段は限られていた。まず、どうにかして予算を得ること。ただし、これ以上増税することはできない。もともと課税対象が減っているだけでなく、現在進行形で荘園が増えている。かつて、荘園は全体の二パーセントという限られた存在であり、後三条天皇の頃でも六パーセント、それ以後も全ての農地における荘園の割合が一〇パーセントは超えることは無かったが、白河法皇以後になると荘園が全農地の過半数を上回るようになってしまったのである。この状態で、荘園以外の土地にしか課すことのできない税を強めたらどうなるか? しかも、現在進行形で農地がだんだんと荘園化してきているのである。
 資産のある者を朝廷に取り込むというのは一つの手である。特に、それまでであれば最大の荘園所有者であった藤原氏を朝廷に取り込むことは、策として無効とは言い切れない。それに、藤原氏の一員であるだけでなく太宰府に赴任する前は中納言まで勤めたほどの人材でもある藤原季仲を大宰権帥から解任してすぐである。比叡山延暦寺をはじめとする僧兵たちのデモの相手をさせられてきているのが右大臣藤原忠実であり、藤原氏のトップである藤氏長者でありながら関白になれずにいるという問題も残っていた。藤原忠実の資質に問題があると言っても、関白と右大臣とでは行使できる権威や権限に大きな違いがある。何となれば、右大臣ではできないことも、それこそ比叡山延暦寺対策についても、関白になればどうにかなる可能性があるのだ。
 これらのことから、堀河天皇と藤原忠実との間で一つの合意がなされた。
 長治二(一一〇五)年一二月二五日、藤原忠実が関白に就任。承徳三(一〇九九)年六月二八日に藤原師通が亡くなってからおよそ六年半に渡って空席となっていた関白がついに誕生したのである。
 関白藤原忠実が最初に命じたのは、大宰権帥を罷免されてから去就が未定であった藤原季仲を周防国に配流するという命令である。一見すると比叡山延暦寺の圧力に屈したかのように見えるが、よく見るとそうは言えない。
 周防国、現在の山口県東部は太宰府の管轄にある国ではない。しかし、二一世紀初頭における中国地方最大の都市は広島市であるが、今から九〇〇年前は周防国の国府のある都市、現在の防府が中国地方最大の都市であった。国府の建物そのものが八五〇メートル四方の大きさ、現在の感覚で言うと埼玉スタジアムの八倍の大きさを持っていただけでなく、その周囲に展開されている都市が、この時代の地方としてはかなりの規模を持っていたのである。しかも、当時の瀬戸内海の海岸線は現在よりも内陸に入り組んでおり、国府の目と鼻の先が港であった。実際、交易されていたであろう国内外の陶磁器が多数発掘されている。

 瀬戸内海が目と鼻の先である都市に配流ということは、太宰府との連携が困難ではないということを意味する。現在のように鉄道で簡単に移動できるというわけではないが、いかに交通手段が現在のレベルにほど遠いこの時代であっても、太宰府との情報のやりとりは容易だ。こうなると、比叡山延暦寺の圧力に屈したように見せかけたごまかしだ。
 これがもし、相手がデモ集団というクレーマーでなかったら成功していたであろう。
 残念ながら、クレーマーというのは妥協を全く認めないだけでなく、要求を一つ二つ呑んだところで満足しないものである。それどころか、自らに不利益になることを多少でも見せればさらなる反発を強めるのがクレーマーというものだ。目的は反発して相手を屈服させることそのものであり、要求を認めさせることではない。攻撃し続け、相手が自分に屈服し続けることしか望まないのがクレーマーというものである。
 まともな相手だったら通用したであろう藤原季仲の周防国配流という決断は、デモ集団相手には通用しなかった。クレーマーに対して示すべきは要求の完全拒否以外に無い。多少でも譲歩を見せようものなら、それで終わりではなく二番手、三番手の要求が降りかかってくるのだから。
 長治三(一一〇六)年二月一七日、藤原季仲の配流先を周防国から常陸国へ改めることとしただけでなく、藤原季仲の二人の子が官界から追放されるまでになったのである。これでやっとデモは鎮静化したが、待っていたのは朝鮮半島情勢の最新情報が掴めなくなったという国難であった。
 反政府デモに対して、敵国のスパイだとか、非国民だとか、あるいは特定の国の人間だろうという非難をぶつけることがあるが、それらは間違っている。という以前に、反政府デモはそのレベルにすら至っていない。単に攻撃している自分に酔いしれているだけで、国難を迎えるとか、敵国に有利に働く結果になるとかは全く考えていない。それどころ、自分たちのせいで国難に陥り敵国有利の状況を作り出したとしても、その非を認めることなく新しい反政府の道具にするだけである。もっとも、敵国にとっては最良の存在であろうが。

 財政問題の解決を契機に情勢の回復を狙っていたのが藤原忠実の関白就任である。これは、藤原忠実の個人的な資質を買っていたからではない。個人的な資質という点ではむしろ逆で、藤原忠実に関白としての個人的な資質が有ったか無かったと言えば、答えは「無かった」の一言で済む。それでも堀河天皇が藤原忠実を関白に任命したのは、それが摂関政治の復活であったからに過ぎない。まさにその時代の渦中にあった頃は批判の対象でしかなかった藤原摂関政治が、いざ時間が過ぎ去ると、古き良き時代の政治体制と考えられるようになってしまったのだ。
 堀河天皇はクレーマーと化したデモ集団に対しても、相手にせず、要求は一切飲まないという決意をした。そう、決意をした。ただ、堀河天皇の決意と、その実現との間に関連性は生まれなかった。
 例を挙げると、長治三(一一〇六)年二月二五日に、清水寺の別当に定深が就任すると決まったことに反発する清水寺の僧徒が、鴨川を渡って平安京になだれ込み、定深の罷免を要求した。定深とは興福寺の僧侶であり、興福寺は藤原氏の氏寺である。関白藤原忠実は藤氏長者でもあり、これまでの関白であれば関白としての公的権威で、藤氏長者であれば藤氏長者としての私的権威で定深の別当就任を強行できたであろう。何しろ、この時代の清水寺は興福寺の傘下の寺院であったのだから。ところが、堀河天皇の意思がデモ集団に伝わる前にデモ集団は散開してしまった。何が起こったのかと調べてみたら、白河法皇がデモ集団の要求を受け入れて定深の別当主任を白紙撤回すると決定したのである。要求が全て受け入れられた、それも白河法皇が決定したというのは、堀河天皇にとって残酷な現実となって突きつけられることとなったのだ。藤氏長者よりも、関白よりも、そして、天皇よりも、上皇や法皇の権威が優っている時代になってしまったのだ。