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天下三不如意 4.清和源氏の崩壊と再生

2019.03.29 15:23

 治安を悪化させる要因は、検非違使と北面の武士を総動員してデモ集団にぶつけたことだけではない。この時代の犯罪に直面したときの対応の常識にもある。
 その一例が、嘉承三(一一〇八)年四月二四日の夜の出来事として記録されている。場所は二条富小路とあるから高級住宅地、ただし、邸宅の主人は貴族としてはギリギリである五位。この五位の貴族の家に強盗が入り込み、五位の貴族をはじめとするこの家の人たちを殺害して財物を奪い去っていったのである。ここまでは、とんでもない出来事ではあるが、古今東西どの国でも起こる出来事でもある。
 近所で起きたこの出来事に直面した者の名を、当時の記録は少内記光遠と残している。強盗が襲撃してきたというのは、被害者にとっては一生忘れることのない悲劇であっても、全国レベルのニュースとなり、現在まで記録として残されるというニュースであるかと言われると、残酷な言い方になるが、無い。にもかかわらず、九〇〇年の時を超えて現在まで語り継がれるというのは、なにか珍しい理由があるはずだ。
 理由はあった。このとき、少内記光遠が検非違使に弓矢で射殺されてしまったのだ。
 強盗が隣人宅を襲撃したと知った少内記光遠は、隣人を助け出そうと二条大路に出た。まさにそのタイミングで、駆けつけてきた検非違使に強盗と間違えられ、弓矢で狙われたのだ。街灯のないこの時代、強盗襲撃の一報を受けた検非違使が駆けつけた事件現場で暗闇の中を彷徨く人影があれば怪しいと思うだろう。ただ、いきなり弓矢というのは問題がある。しかも、犠牲者が命を落としたとなっては大問題だ。
 ところが、この検非違使は全く処罰を受けていない。それどころか、職務を真面目に遂行したと褒められているのだ。それだけではない。なんと、射殺された少内記光遠が非難を浴びたのである。少内記というのは文筆で朝廷に仕える職務であり、いかに隣人の命を助けるためであろうと、強盗騒動の渦中に飛び出すのは許されざる愚行だと一刀両断したのだ。
 これがこの時代の認識だった。
 近くで犯罪が起こっても動かないというのが共通認識であり、それを破ったからこそ少内記光遠は珍しいこととしたとされ、記録に残されたのである。
 これで治安が良くなるだろうか?


 さらなる治安悪化の要因の一つとして、生活苦がある。というより、治安悪化の最重要原因としても良いのが生活苦だ。生活苦が無くなれば治安が最良の状態となり犯罪がゼロとなるというわけではないが、生活苦が減れば犯罪も減る。その逆に、生活苦が増えれば必ず犯罪も増える。
 生活苦はどこから起こるか?
 個人的な理由での生活苦と全体的な理由の生活苦がある。個人的な理由の生活苦は、自己責任なものと、病気や怪我、予期せぬ失業といった自己責任が全く無いものとに分けられ、全体的な理由の生活苦は革命や戦争、あるいは執政者の無能からくる人災と、執政者の能力とは無関係の自然災害とに分けられる。
 この中で最も厄介なのが自然災害だ。地震にしろ、台風にしろ、これだけは人間の手でどうこうなるものではない。
 嘉承三(一一〇八)年七月二一日に始まったのは浅間山の噴火だ。
 このときの噴火の様子を記す前に、天明の大飢饉の原因となった天明三(一七九三)年の大噴火の様子を記す必要がある。火山の規模を示す指標の一つとしてマグマ噴出量(Dense Rock Equivalent:DRE)というのがあるが、噴火そのものだけで死者一一五一名、家屋喪失一〇六一棟という被害を生みだした天明の大噴火のマグマ噴出量は、噴火開始から沈静化までの合計で〇・五一DRE立方キロメートルである。
 この〇・五一という数字を覚えていただきたい。
 嘉承三(一一〇八)年の噴火の開始から沈静化までの間のマグマ噴出量は、実に、〇・六二DRE立方キロメートルである。このときの噴火の被害を伝える上野国からの書状には「猛烈な火災が山を焼き、噴煙の火山灰が上野国中を覆い、燃え残りが庭に積もり、田畑は全滅してしまった」とある。現在の火山学者はこのときの浅間山の噴火を、一万年に一度の規模の噴火であるとしている。
 それを裏付けるのが現在の発掘調査である。前橋市と浅間山は同じ群馬県内であるといっても直線距離で八〇キロメートル近く離れている。位置関係で言うと、浅間山からまっすぐ東に行くと前橋市に行き着く。関東地方で言うと東京駅から成田空港、関西で言うと明石の天文台から難波駅ぐらいの距離だ。浅間山とそれだけの距離がある前橋市の発掘調査ですら、嘉承三(一一〇八)年七月の噴火で二〇センチメートルほどの火山灰が積もったことを観測できている。後述するが嘉承三(一一〇八)年の浅間山の噴火は一度で噴火を終えたのではない。これから数カ月に渡って噴火が続き火山灰を吐き出すのであるが、前橋市で発掘された火山灰は七月の噴火だけで二〇センチメートルである。当時の風向きも西から東、あるいは北西から南東へと向かったことが確認されている。

 浅間山噴火の被害は火山灰だけではなく火砕流もあった。火砕流の流れは火山灰と違い、北は嬬恋、南は軽井沢と二方向に分かれた火砕流は厚さの平均、最大ではなく平均が八メートルに達したという壮絶な規模で、尾根は削りとられ、谷は埋まった。当然ながら火砕流に飲み込まれた集落は全滅だ。当時の記録はどれだけの人が命を落としたのかを伝えてないが、決して軽いものではなかったろう。また、前橋市で二〇センチメートルもの火山灰が降り積もったのだから、前橋より遠く、また、上野国、現在の群馬県の域外であるとしても、浅間山に接する信濃国や、風に乗って火山灰が運ばれる関東地方がその被害から免れたとは考えられない。


 一万年に一度という規模の大噴火である。現代日本であれば臨時ニュースが流れ、無条件でその年のトップニュースになっていたであろう。少なくともその日のニュースは火山がトップニュースとなり、翌日の新聞紙面は火山の報道で埋め尽くされるはずである。
 しかし、この時代の情報伝達スピードは現在と比べものにならないほど遅い。さらに、正式な情報と未確認情報とが混在する。その上、後者は前者より速く伝わるが、前者より不明瞭な内容で分散して広まる。
 嘉承三(一一〇八)年七月二一日に浅間山が噴火したことが京都に伝わったと確実に言えるのは、八月二〇日になってからである。しかし、それまでの間に噂として京都に伝わっていたことは容易に推測できる。
 なぜそれが言えるのかというと、八月二〇日に京都で起きた地震について、浅間山の噴火の影響ではないかと噂する者がいたという記録が残っているのである。つまり、この時点で浅間山の噴火が京都に伝わっていたことは間違いない。ただ、火山の噴火という大災害でありながら、朝廷は何もしていない。さらに言えば白河法皇も何もしていない。
 白河法皇は浅間山の噴火を知らなかったようである。ただし、浅間山の噴火の影響を実体験している。京都における浅間山の噴火の最初の記録である八月二〇日の二日前である八月一八日に、北東から太鼓が鳴るような音がするので、これはいったい何の音だと摂政藤原忠実に問い合わせたという記録が残っている。

 このときの浅間山の噴火を、天仁噴火とも天仁の大噴火とも言う。元号は嘉承なのに何で天仁なのかと思うかもしれないが、これは間違いではない。浅間山が噴火してから、浅間山噴火の情報が京都に届くまでの間に改元が行われたのである。
 嘉承三(一一〇八)年八月三日に、鳥羽天皇の即位を記念して天仁へと改元することとなった。この時点では京都まで浅間山の噴火の情報は届いていない。改元直後の京都でもっともニュースを集めていたのは、あれだけ騒がれながら未だに太宰府に赴任しないでいる大江匡房についてである。現在であれば連日ワイドショーのトップニュースとなっていたであろう。
 しかし、浅間山の噴火の情報が届いてからはニュースのトップが入れ替わる。大江匡房のことなど完全に忘れさられてしまったかのように話題に全くのぼらなくなったのだ。浅間山の噴火は京都まで届くのが遅くても、届いてからはそのインパクトの大きさから話題の主役を奪うに充分であった。
 浅間山の噴火は改元前の嘉承三(一一〇八)年七月二一日に始まったと言っても、一度の噴火で、あるいは一日の噴火で全ての噴火を終えたわけではない。何度か噴火を繰り返し、マグマの上にマグマを重ね、火砕流を幾度となく吐き出す。天仁元(一一〇八)年八月二五日、京都市民は東の空が赤く光るのを目撃した。京都から浅間山までは遠いが、それでも浅間山の吐き出すマグマと噴煙、それらが生み出す赤い空が確認できた。この頃にはもう、浅間山が噴火中であることを知らない京都市民はいなかった。
 天災を天が与えた執政者失格のサインであると見なすのがこの時代の人たちの考えである。この時代の人は一万年に一度の大噴火だとは知らなくとも、それまで実体験したことのないだけでなく、歴史として伝わっているどの噴火よりも激しい噴火であることは知っていた。その大噴火が即位に伴う改元の前後に起こったということは、これ以上ない執政者失格のサインであると判断するに充分であった。
 噴火が人間の力でどうこうなるものではないことぐらい誰でも知っているが、それでも、誰か何とかしてくれと願うことは普通である。しかし、ここでどうにかできるような誰かなどいない。
 浅間山の噴火に右往左往しているまさにその最中である天仁元(一一〇八)年八月二九日、ちょっとした人事異動が発表になった。平正盛の子の平忠盛が一三歳という若さで左衛門少尉に就任したのである。伊勢平氏の勢力の伸張を印象づけると同時に、同じく一三歳で清和源氏を集めることに成功した源為義に対する牽制にもなった。一三歳の左衛門少尉というのはこの時代の貴族の子弟としては妥当なものであるし、清和源氏再結集の牽制としての伊勢平氏の抜擢もおかしなものではない。伊勢平氏に対する貴族としての処遇については疑念を持つことがあっても、少なくとも寺社のデモ集団に向かい合ったという実績を考えればこれぐらいの褒賞がなければ割に合わないと考えるのも普通だ。
 ただ、浅間山噴火で大騒動となっているこのタイミングでやることだろうかという疑問は感じる。これで支持率が上がるとしたらそのほうがおかしい。

 浅間山の噴火に京都市民が恐れおののいている最中、浅間山に面する上野国や信濃国、火山灰の影響を免れなかったであろう他の関東地方の関東地方の国々がどうなっていたのかを記す資料はない。ただし、後の記録から推測できることが一つある。
 荘園のリセットだ。
 火山灰に埋もれた土地は田畑ではないと扱われる。そして、墾田永年私財法はこの時代でもまだ有効だ。つまり、火山灰に埋もれた土地を田畑として開墾してしまえばその土地の所有権を手にできる。とは言え、さすがに噴火前から荘園であった土地に手を出して自分の荘園であると訴えるのはリスクが高い。具体的に言えば荘園住民や荘園を守る武士から袋叩きにあうこと必定だ。しかし、荘園ではない土地にそれはない。特に、真面目に国司に対して税を納めてきた土地であれば、開墾することで、法に由来する私有化が許される土地に変わる。こうなればあともう一歩で荘園だ。すでに荘園である土地に組み込まれるもよし、新しい荘園となるもよしである。
 もっとも、庶民にとってメリットのあることが国にとってありがたいこととなるかというと、そんなことはない。荘園が増えると言うことは国に税を納める者が減るということにもなるのだ。そして、新規荘園の停止というのはこの時点でも法として有効である。浅間山の噴火で右往左往している最中であっても荘園を増やすことにためらいは見せないでいる庶民はたくましいが、その動きを察知して新規荘園の停止が有効であると再確認して緊急声明を出すというのも、誉められるか誉められないかは別として、たくましい話ではある。
 関東地方で庶民がたくましさを見せていた頃、京都では様々な流言飛語が飛んでいた。それもそうだろう。何しろ東の空が真っ赤になっているのが京都からも見えるのだ。おまけに、カミナリとも違う不気味な鳴動が聞こえているのだ。
 上野国からの正式な連絡が京都に届いたのは天仁元(一一〇八)年九月五日。すでに噂になっていた浅間山の噴火が本当であると確認できただけでなく、上野国における被害状況も伝えられた。ただし、火山の激しさと降り積もる火山灰についての記載だけで、死者が何名で行方不明者が何名で、失われた家が何棟で失われた田畑がどれだけの広さなのかは記されていない。
 本来であれば、このような天災のときに人々の救済にあたるのが宗教というものの役割であるが、その役割をこの時代の宗教は放棄していた。相変わらずデモは続いているし、他の寺社への襲撃も続いていた。天仁元(一一〇八)年九月一〇日には、興福寺僧徒が多武峯の堂舎を焼くという騒ぎも起こしている。


 朝廷が直接浅間山の噴火に対して起こしたアクションの最初は、上野国から正式な報告を受けてから一八日を経た天仁元(一一〇八)年九月二三日のことである。この日、朝廷で軒廊御卜が開催されたのだ。軒廊御卜(こんろうのみうら)とは、単純に言えば宮中の渡り廊下で催される占いのことであるが、この占いを開催する条件はかなりの大規模な自然災害や天変地異のときであり、軒廊御卜の開催は現在でいう激甚災害指定に相当する。ただし、現代日本の激甚災害指定は災害被災者の支援と被災地の復旧を最優先に掲げているのに対し、軒廊御卜はそこまでいかない。このときの天変地異や自然災害が国にとって吉なのか凶なのかを占い、凶と出れば改元をはじめとする対策を打つのである。このときの占いの結果はわからないが、少なくとも改元はしていない。
 遅すぎる対応の結果、少なくとも改元はしないという結果に至ったのは、占いの結果であるかもしれないが、それよりも、多少なりとも浅間山の噴火が沈静化してきたことに由来する。空の青さは戻り、カミナリとも違う鳴動も気がつけば起こらなくなっている。これで京都市民は考えた。浅間山の噴火は沈静化してきたのだ、と。
 ところが、浅間山は朝廷のこの対応をあざ笑うかのような動きを見せた。天仁元(一一〇八)年九月二三日、鳴動が再び観測されるようになった。繰り返し記すが、これは京都での話であり浅間山の近くでの話ではない。浅間山の鳴動が京都まで届いているのだ。そして天仁元(一一〇八)年一〇月三日、浅間山がさらに噴火した。一万年に一度の噴火は一度で一気に噴火したわけではなく、何度か繰り返し、その規模が毎日減ってきていたのであるが、減ってきていた分を取り戻すかのような大規模な噴火をしたのである。取り戻した東の空の青さは再び赤に戻った。空の青さを取り戻せたのは一〇月一一日になってからである。それまで毎日、鳴動が聞こえ、京都から東を見ると空が赤くなっていたのだ。
 なお、一〇月三日の大噴火による火山灰は当時の風向きもあって北東へと向かったため、関東平野ではなく越後山脈へと向かっている。無論、関東地方ではないという理由で不幸中の幸いだと言うつもりは毛頭無い。このときの火山灰は越後山脈の集落にも襲いかかったし、越後山脈を越えた火山灰が越後平野にも届いてしまっており被害を生み出しているのだから。

 浅間山の噴火の生み出した被害は関東地方の勢力図に一つの変化を見せるようになった。関東地方は清和源氏の武士団の勢力が強く、関東地方における清和源氏の根拠地は鎌倉である、ということになっていたのであるが、この時代の鎌倉は後世の鎌倉幕府に比肩するほどの鎌倉ではない。
 その上、清和源氏が源為義のもとに清和源氏が結集したと言っても、まだ一三歳の少年であることに加え、理論上の清和源氏のトップである源義忠とともに京都に身を置いている。つまり、清和源氏の関東地方における根拠地である鎌倉と一線を画している。
 清和源氏再結集は果たしたが、浅間山噴火が招いた関東地方の荘園拡張は、関東地方をはじめとする清和源氏の個々人の勢力の見直しも生むこととなったのである。要は、鎌倉に従わない清和源氏が生まれるようになったのだ。
 源義家には二人の弟がおり、この二人はともに健在であった。源義家の三歳下の弟である源義綱と、六歳下の弟である源義光である。三兄弟が手を取り合って清和源氏を交流させていたとは言い切れない。特に、源義綱は幾度となく源義家から清和源氏のトップの差を奪い取ろうと画策してきた。しかし、源義綱には源義家の持つ何かが足りなかった。源義家には従う武士であっても、いかに源義家の弟とは言え無条件で源義綱に従うとは限らず、勢力を築き上げることに失敗していたのである。一方の源義光は兄に従う武人の一人であり、兄とともに後三年の役で戦ったという実績もある。後三年の役に参加するために官職を辞して参加したというのも清和源氏の武士達にとってはアピールポイントになっていた。ただ、清和源氏の武士達は源義光を信頼できる人だと考えたが、源義光をトップに据えようとは考えなかった。とは言え、源義光もまた、トップに立つことの野心を完全に捨てたわけではなかった。
 天仁二(一一〇九)年時点で、源義綱は六七歳、源義光は六四歳になっている。六五歳定年の会社であれば、源義綱はとっくに定年退職している年齢であり、源義光は定年退職まであと一年という年齢だ。平安時代に定年退職という概念は無いが、五〇歳で高齢者扱いされる時代での六〇代は第一線を退いて数年を経ていたとしてもおかしくない年齢である。実際、源義綱も、源義光も、第一線を退いた過去の人という見られかたをしていた。清和源氏のトップが兄の源義家であり、兄の死後は甥の源義親が受け継ぐというのも不本意ではあるにせよ納得はしていたのである。

 その納得が、源義忠への引き継ぎで薄れてきた。悪評はあろうと源義親は武人としての能力が高かったし、朝廷に叛旗を翻したと言ってもそれは庶民の支持を得た行動でもあったのだ。後三年の役のあとで朝廷は源義家どう対応したのかを知っている清和源氏の武人達にとって、朝廷とは、従うよりも反発を抱く対象になっていたのである。特に、庶民と朝廷との利害が対立した場合、庶民側に立つというのは清和源氏の武人にとって躊躇する必要の無い選択であった。
 ところが、その選択肢に躊躇を見せているのが他ならぬ清和源氏のトップになった源義忠であった。源義親と違って武人としての才能を持たず、自身を武人であるとも考えなかった源義忠は、庶民と朝廷との対立で朝廷を選ぶことも厭わなかったのだ。それどころか、清和源氏でありながら、朝廷の指揮する武力を清和源氏ではなく伊勢平氏に委譲することも厭わなかったのだ。これでは清和源氏の武士達の尊敬を集めようなどない。
 この現実は源義光や源義綱に一つの野望を思い出させるに充分だった。自分が清和源氏のトップになるという野望である。
 野望を実現させるのに必要なのは、野望を実現させることの意義を語ることではなく、野望を実現させたあとで何をするかである。少なくとも自分の野望を実現させたあとで今よりも生活水準と社会的地位の両方が向上することを保証しなければ、野望に同調する者はいない。
 現在に目を向けると、政権とは無関係の政党の熱心な支持者や党員が野望に同調するのも、支持者や党員であるということにアイデンティティを持って彼らなりに高い社会的地位を得ていると考えているのに加え、その政党が政権を担うときが来たら、古参党員や古参の支持者であればあるほど恵まれた特権階級としての暮らしを手にできる。それがあり得ないことだと心のどこかで考えていたとしても、それを認めることはこれまでの人生を全否定することにつながるのだから、ますます先鋭化する。
 先鋭化するが、仲間を増やすことはできない。政権交代という名目で、悪の権力者を打倒しようという野望を掲げて支持を集めようとすることは珍しくないが、それで本当に支持する人が増えるかの答えは、否、である。現時点で権力を握っている者というのは、その者の周囲にいる者に現在進行形でメリットを与えている。与えられるだけの財力があるからこそ権力者であり続けられるとしてもいい。権力者を倒して権力を握ったあと、予算をどこから持ってくるのかを明確にできずにいるのは、権力者になれば予算を使い放題と考えているか、あるいは予算の概念を持っていないかのどちらかである。

 これまでであれば、源義忠に代わって自分が清和源氏のトップになると訴えても、一部の熱心な者を除いて特に何の返答もなかったであろう。しかし、源義光も、源義綱も、急速に拡大した関東地方の荘園という新しい資産を手にした、つまり、野望に協力する者に目に見える形でのメリットを与えられるのだ。「自分がトップになるのに協力すればやがていつかはこんなメリットが手に入る可能性がある」ではなく、「自分の味方になればその瞬間からこんなメリットがある」と訴えるのは、野望への協力者を増やすのは以前よりも容易になる。人間とは、理ことわりだけでは動く存在ではないが、金銭だけで動く存在でもない。しかし、理ことわりを実現させるにも日常がある。理ことわりを成すことの目に見える評価もないのに理ことわりを成すのに尽力することもない。少なくとも、日常を過ごせぬような理ことわりに同調することはできない。源義綱も、源義光も、理ことわりを同じくする者に相応の評価と目に見えるメリットを与えることに成功するようになったのである。
 とは言え、これにも限度がある。源義光や源義綱がメリットを与えることに成功したと言うことは、源義忠のほうにもメリットを与える準備が整ったことを意味するのだ。
 おまけに、源為義という若者が登場した。源義忠には存在しない武人としての才能を持つ若者であり、清和源氏に仕える多くの武人が源為義の元に集った。一三歳の少年と、六〇歳過ぎた高齢者と、どちらが未来を感じられるか? この時点で源為義に政治家としての素養は乏しいとしか言えないものであるが、源義忠が文官として、源為義が武人として清和源氏を率いるようになるなら、源為義の武人としての素養の乏しさはデメリットでなくなる。今でこそ伊勢平氏に接近しているが、清和源氏のトップとなった源義忠が甥の源為義を利用して武士集団としての清和源氏を成立させることは充分に考えられる話だ。こうなるとますます、清和源氏に仕える武士達が源義忠や源為義のもとを離れて源義光や源義綱の元にやってくる可能性が減る。時間が経てば経つほどデメリットは激増し、清和源氏のトップに立つ可能性が減っていく。
 それが一つの事件を生んだ。
 天仁二(一一〇九)年二月三日、検非違使の源義忠が何者かに切りつけられる。この時点で犯人は不明である。検非違使というこの時代の警察権力にある者が襲撃されたというのは、治安問題を考えると間逆な二つの評価となる。警察権力ですら犯罪者に襲われるほどに治安が悪化したのかという思いと、犯罪者が復讐を企てるほどに警察権力が機能したのかという思いと。なお、この時点では源義忠が犯罪にあったというニュースのみが広まっており、真犯人が誰なのかというのは噂だけが流れている未確認情報のレベルである。そのため、噂は源義忠に対する評価を伴って興味本位に広まっていった。
 しかし、襲撃の二日後である天仁二(一一〇九)年二月五日に源義忠が死去したとなるとにわかに雲行きが怪しくなる。
 そして、多くの人がこう考えるようになった。
 これは清和源氏の内紛だと。


 源義忠は貴族としての清和源氏を考える人であるとは知っていたが、源義家の指名した後継者であり、不満はあっても清和源氏の武士たちは納得はしていた。それに、貴族としての清和源氏を考えていても検非違使という武力を求められる職務に就いているとなれば清和源氏のもとで武人であろうと決断する可能性も期待できた。それが伊勢平氏への接近という予期せぬ選択肢のせいで清和源氏の武人たちは源義忠から離れていったのである。
 これは、源義綱や源義光にとっては、清和源氏のトップの座をめぐる争いでむしろ優位に立つ状況であった。源義家の後継者に相応しくないと武士達が考えるようになってしまったら、清和源氏の武士達は源義忠のもとから離れ、源義家の後継者として相応しい誰かのもとに、源義綱が考えるには源義綱のもとに、源義光が考えるには源義光のもとに結集するようになると想定できたのだ。
 それが源為義の登場で白紙に帰した。源義家の孫で源義親の息子が登場したとなると、源義家の弟である高齢者が出る場面は少なくなる。その上、この時代は武士というカテゴリーが明確に成立していない。いかに朝廷と庶民との間で利害が相反することとなろうと、そして、そのときに庶民の側に立とうと、この時代、役人や貴族のヒエラルキー以上に自らの権威を形作るものはない。役人であり貴族であることが第一義で、武門のトップと言うのは、役人や貴族のうち、武門にも幅を利かせることのできる者がいるという認識である。源為義に貴族としての素養が感じられなくとも、朝廷の命に従って清和源氏を結集させ僧兵たちと向かい合ったという前歴が存在するのは否定できない。これで貴族としての素養があればヒエラルキーの上位に登りつめること間違いなしである。また、源為義に貴族としての素養が乏しくとも、庶民の意見の代弁者になることはできると容易に想像できた。貴族としての何かには欠けていたが、庶民の思いを募ることのできる何かはあったのだ。貴族としてのキャリアを重ねている源義忠と、清和源氏のトップに相応しい未来を予期させる源為義とが手を組めば、源義家の弟である高齢者は、野望を実現させるどころの話ではなくなる。
 野望を実現させるのに邪魔になる障害を排除する、それも、障害である二人のうち排除しやすい方を、かつ、排除したときのダメージも大きい方を排除する。それが源義忠の排除である。源義忠は源為義を利用できるようになってありがたいと感じているが、最悪なケースとしては、源為義を頼れなくともどうにかなる。実際、源為義の登場まではどうにかできていた。一方、源為義は源義忠以上に朝廷とのパイプを持つ者を頼れない。いかに清和源氏を再結集させたといっても朝廷の権威を利用するに源義忠が絶対に必要だったのだ。だから、まずは源義忠を排除した。清和源氏の内紛の一場面として。
 とは言え、これらはあくまでも推測である。誰もが清和源氏の内紛だと考えたが、その証拠はどこにもない。現在の警察もそうだが、この時代の警察権力も、証拠もないのに動けないのに違いはない。別件逮捕での取り調べという手もあるが、いかに法で許されている捜査であろうと、それでの警察の捜査は大問題と扱われる。
 ただ、この時代は法を平気で踏みにじる人がいたのだ。白河法皇という人が。


 藤原良房は律令制の限界を見抜き、律令制に代わる新しい政治システムである摂関政治の土台を作ったが、律令を廃止したわけではない。一つ一つは律令制のもとで適法でありながら、まとめ上げると律令制の精神と相容れない政治システムである藤原摂関政治が成立するようにしたのである。これは政治の仕組みとしては不明瞭であるが、メリットもある。個人の資質に寄ることのないシステムと為すことができるのだ。
 政治がどんなに素晴らしい結果を残そうと、政治家個人の資質に由来する政治システムは劣っているシステムと断じるしかない。個人に由来しすぎるシステムというのは、個人がいなくなった瞬間に瓦解する運命にあるのだ。
 天仁二(一一〇九)年二月の源義忠暗殺事件は容疑者不明の状態であった。この時点では証拠が何も無く、誰の手による犯行なのか不明瞭であった。ただし、犯人と噂される者は多かった。特に清和源氏の内紛だという噂は、ある者は源義光を、ある者は源義綱を犯人と噂した。
 近代国家でなくとも、ある程度法令を整えている国であれば、噂だけで逮捕しようとはしない。噂による逮捕であるとしか考えられない状況でも理由を見つけてから逮捕する。
 だが、白河法皇はそれをしなかった。噂の段階でしかなかったにもかかわらず、容疑者の逮捕を命じたのだ。権力を誇示する目的もあったろうし、世論に配慮したというのもあるだろうが、一番の理由は自分のことを法を超えた存在であると認識していたからである。法治国家と明記されている国家体制の国は無論、そう明記されていない国であろうとも、権力者より法のほうが強い。しかし、それを不満に感じる執政者は珍しくない。そのようなとき、多くの執政者は法を変える。だが、白河法皇は法よりも自分のほうが上回っていると考えたのだ。だからこそ、法の規定を平然と無視したのである。それでいて、法の重要性に全く無知なのではない。それどころか法を守らせようとはする。
 どういうことか?
 白河法皇は法や先例に縛られないが、白河法皇の行動は先例となり発言は法となると考えて平然としていたのである。
 殺人事件があったのだから、警察、平安時代の平安京で言うと検非違使に出動を命じるのはおかしなことではない。源義忠自身が検非違使であるというのは関係ない。誰であれ、事件に巻き込まれたら犯人探しの捜査が始まる、ということになっている。理論上は。

 実際には、平安時代の治安の悪さと警察権力の弱さとで、殺されても犯人が逮捕されないことが珍しくなくなっていたのだ。それどころか、犯罪に巻き込まれたときに、犯罪者に立ち向かったり、犯罪を受けている者を助け出そうとしたりすることすら、この時代ではマナー違反とされてすらいたのだ。これを苦々しく思わない者はいない。犯罪者をのさばらせて気分爽快になる者もいない。こうした庶民の思いを白河法皇は汲み取っていた。源義忠殺害事件というのは白河法皇にとってのきっかけでしかない。治安を何とかしなければならないと以前から考えていたところで飛び込んできた絶好のきっかけでしかない。
 白河法皇がそう思うのは勝手だが、白河法皇の命令を実践する立場になると話は変わる。貴族の一員でもある源義忠の殺害であるから特別な捜査が敷かれたと言われても何も言い返せないというのがこのときの検非違使たちの思いであったのだ。しかも、職務をこなしたことで何かしらのメリットがあるわけではない。検非違使達にとって、検非違使という職はより上の職務へ出世するための踏み台でしかなく、一生をかける仕事では無かった。無難にこなして任期を終えたあとの出世だけが望みであり、検非違使として抜群の成果を見せることと任期満了後の出世とは何のつながりもない。それどころか、治安回復のために犯罪者を次から次に逮捕しようものなら、それだけ治安が悪くなっていたのだと判断されて評価を下げられてしまう。ゆえに、検非違使という職務に対するやる気など無い。これに、容疑者不明の殺人事件であるという点と、白河法皇の命令が下っているという点が加わる。これらが重なると何を生むか?
 冤罪だ。
 とにかく誰かを逮捕しなければならないという焦りが、真犯人を探し出すことではなく、ノルマとしての逮捕へとなってしまう。ただし、法を踏みにじって平然としているのは白河法皇のみであり、検非違使達は法を守っている。そこに葛藤がある。
 天仁二(一一〇九)年二月七日、検非違使は左大臣源俊房の邸宅を包囲した。犯人は美濃源氏の源重実とされ、左大臣源俊房の邸内に潜んでいるとされたのである。これは大騒ぎになった。現役の左大臣が暗殺を命じただけでなく暗殺犯を自宅内に匿っているというのである。
 それが本当だったらどれだけのスキャンダルであったろう。
 いきなり犯人だと訴えられたのは驚きであったろうが、このときは一つの悲劇と、悲劇を引き換えにした幸運が存在した。二月八日、邸宅内の源重実の逮捕を目論む検非違使たちと、逮捕を拒もうとする左大臣源俊明の家の者たちとで争いとなり、自殺者が出る騒ぎとなったのだ。命が失われたのを目の当たりにした源重実は検非違使に連行されることを承諾した。つまり、左大臣源俊房の邸宅に源重実が匿われていたのは本当だったのであるが、源重実も、左大臣源俊房も、邸宅内に籠っていたことなどどうでもいいと扱い、この捜査そのものが不正で、この邸宅にいる誰もが無罪であるという主張は崩さなかったのだ。
 邸宅内に匿われていたというだけでも有罪に決まっていると考えた検非違使たちを落胆させたのは、源重実も、左大臣源俊房も、ともに無罪であるという証拠だった。冤罪逮捕であることが言い逃れできない証拠が示され、スキャンダルを娯楽として眺めていた平安京の庶民達から、検非違使の冤罪逮捕に激しい非難が起こったのである。白河法皇が捜査を命じていることは公然の秘密となっており、庶民の怒りの矛先は白河法皇にも向かったが、白河法皇はこの怒りをそのまま検非違使にぶつけた。自分の命令のせいで冤罪を生み出したとは全く考えず、冤罪をやらかした検非違使を叱りつけたのである。

 天仁二(一一〇九)年二月一六日、白河法皇は再び検非違使達に出動を命じた。源義忠殺害の容疑者として、源義綱とその三男である源義明の二名を挙げ、逮捕するように命じたのである。あくまでも噂の段階であるが、源義忠殺害事件の現場に落とされていた刀が源義明の所有する刀であり、刀の所有者こそ真犯人であるという話は広まっていたのだ。
 ただし、刀の所有者が真犯人であるとは断定できない。
 それをほとんどの人は理解していたが、白河法皇は認めなかった。
 三人目の容疑者として、藤原季方の名を挙げたのである。藤原季方の妻は源義綱の三男源義明の乳母であり、源義明の私物である刀を手にすることは不可能ではない。それだけが理由だった。
 この無茶苦茶な決めつけは当然ながら反発を生んだが、源重実のときのようにはっきりとした無罪の証拠を示すこともできなかった。結果は全面対決である。軍を指揮して検非違使達と激突することを選んだのだ。ただし、全員が軍勢となったのではない。軍勢となったのは源義明と藤原季方である。二人の指揮する軍勢は数百人とも千人以上とも推定され、検非違使が率いる軍勢もほぼ同数に達した。なお、検非違使の軍勢を指揮するのは源重時。彼は、当初の容疑者と目されていた源重実の弟である。
 ドラマ等での警察の逮捕の光景を思い浮かべていただきたい。拳銃の打ち合いを思い浮かべるかもしれないし、容疑者が徹底的に抵抗する場面を思い浮かべるかもしれない。だが、数百人、さらには数千人規模の軍勢同士の激突を思い浮かべる人はいないであろう。デモ隊と機動隊の衝突でもここまではない。しかし、天仁二(一一〇九)年二月一六日に見られたのは、凄惨としか形容しようのない光景であった。検非違使の率いる軍勢だけでも死傷者がおよそ二〇〇名。その上、源義明、藤原季方の二名は、不当逮捕に抗議するとして自害したのである。

 源義綱は源義明以外の息子達や家臣達を連れて脱出し、源義光の所領である近江国甲賀郡の甲賀山の山頂に立て籠もった。後世の戦国時代とは無論、この時代の城とも比べ物にならない程度ではあったが、それでも山頂に陣地を築くというのは籠城戦における典型である。飛行機もヘリコプターもないこの時代、食料と水さえどうにかなれば、山頂の軍勢の方が圧倒的に優位になるのだ。
 白河法皇がこの情報を知ったのは翌日のことである。白河法皇はただちに源為義に源義綱追討を命じ出動させた。この時点でまだ一四歳の源為義であるが、清和源氏の武士達は源為義の率いる軍勢に従うことを選び、その日のうちに軍勢は近江国に向けて出発した。源為義が、源義忠の後継者ではなく、源義家の後継者と見られるようになった瞬間である。さらに、清和源氏のトップに立つ野望を捨てきれずにいた源義光も軍勢を支援した。もっとも、源為義に軍勢派遣が命じられなかったとしても、源義光は軍勢を率いていたはずである。何しろ、源義綱が陣地を築いているのは自分の所領の山なのだ。
 源為義が軍勢を率いて押し寄せてきているだけでなく、源義光も軍勢の支援に加わったという一報は、源義綱を絶望に追いやった。
 籠城戦の強みを知り尽くしている源義綱は、同時に、籠城戦の弱点を知り尽くしてもいる。籠城戦に打って出るというのはその双方を知っている上で選んだ選択であったが、懸念事項は一つだけあった。相手が籠城戦の弱点を知っていた場合、どうにもならなくなる。しかし、その弱点を知る者は少ない。
 籠城戦とは消耗戦である。戦いにならないで時間だけが経過するのが宿命で、たまに小競り合いがあったとしても基本的には膠着状態が続く。膠着状態が続けば籠る側と囲む側の光景が日常と化し、さらには厭戦気分が広まる。小競り合いが起こっても、籠る側は攻めていかないで守りに徹し、城をこじ開けようとする軍勢を追い返すのに徹していれば、城を取り囲む側は被害だけが積み重なる。陣地とはそれだけで守りに適した場所である。おまけに源義綱が構えた陣地は山頂だ。囲む側が攻め込む場合は坂を駆け上っていかなければならないが、これだけでも囲む側は不利。体力の消耗もあるし、それ以前に弓矢のターゲットにもされる。攻め込む側も矢を射ることは不可能ではないが、同じ弓矢を用いるにしても、高いところから低いところへ射るのと、低いところから高いところへ射るのと、射程距離で優位に立つのは高いところにいる側である。矢をかわして陣地に張り付いたところで中に入るには難しいし、入ったところで兵士一人に対し、坂の上で待ち構えている複数人の兵士が向かい合う光景が待ち構えているだけだ。戦いとは一対一でするものだという美学を唱えても、戦闘でそんな悠長なことは言っていられない。一対多で向かい合えば、よほどのことがない限り多が勝つ。これが何度も繰り返されれば、攻め込む側が迎えるのは消耗だ。攻めても攻めても攻め落とせず、ほぼ毎日、自らの仲間の誰かが命を落としていくという光景が続けば厭戦気分が広まる。無論、籠城している側も無傷で済むとは言えないし、矢は消耗品であるから無尽蔵とまではいかないが、それでもダメージは小さい。そのときこそチャンスだ。厭戦気分が広まっているときを狙って一気に勝負を仕掛ける。そして、勝負となったときに強いのは、籠城している側、いや、籠城していた側と記すべきであろう。勝利の後は籠城する必要などないのだから。

 ただ、籠城している軍勢を包囲する側にも攻略法がある。そして、後三年の役の終幕は金沢柵での籠城戦であった。源義家の軍勢は籠城戦で城に籠っている相手と戦闘をして勝ったのだが、今の源為義の軍勢にはそのときの経験を持った武士達が数多くいたのだ。特に源義光の存在が大きかった。兄の源義家とともに後三年の役を戦った、それも、一兵士としてでなく作戦立案の側にいた人物の存在は、籠城戦の弱点を知り尽くしている人物がいるという何よりの証拠にもなるのだ。
 先に、籠城戦における典型として山頂に陣地を築くというのは典型だと記したが、同時に条件も記した。「食料と水さえどうにかなれば」という条件を。
 裏を返せば、どんな堅牢な陣地を築いても、食べ物がなくなったらそこで終わりなのだ。後三年の役の勝敗を決めたのも、軍勢の戦闘力ではなく、金沢柵を完全に包囲し、中にこもる敵兵達を飢えさせ、餓死させたことにある。金沢柵の中で何が起こったかは、金沢柵の中で見つかった白骨死体を見ればわかる。朽ちて白骨となったわけではない死体がどのような運命を迎えた結果であるのか、誰もが容易に想像できる。源為義がそれを知らない可能性はあるが、その周囲を取り囲む武士達は絶対にそれを知っている。少なくとも源義光の協力があると言うのだから、知らない者がいないわけなどない。このまま抵抗して山頂に籠っていたら、舞台が金沢柵から甲賀山に変わる以外、迎える運命は同じである。目の前にいる息子達、家臣達、武士達の餓死、そして白骨死体化。戦闘で死ぬのではない。飢餓で死ぬのだ。
 源義綱は決断した。自分が無罪であると訴えるのは続ける。しかし、源為義には降伏すると。それ以外に助かる道はない。
 源義綱のこの言葉に驚きを隠せなかったのは源義綱の息子達である。彼らとて後三年の役の金沢柵のことを知らないわけはないし、自分達も同じ運命を迎えるであろうことは知識としては理解できていた。理解できていたが、それを回避しようとする父の姿勢は納得できることではなかった。このまま餓死するぐらいなら戦闘に打って出て死ぬと、戦闘に応じないと言うのなら自らの死を以て抵抗すると訴えたのだ。源義綱の息子たちも戦況は理解できていた。このまま敗北を受け入れるか、死して敗北を受け入れるかのどちらかしか選択肢が存在しないのだ。そして、息子達は後者を選んだのだ。

 自殺をほのめかす息子の言葉に源義綱は耳を疑ったが、父の静止を聞く前に、源義綱の長男である源義弘が真っ先に行動を起こした。高い木に登り、そこから谷底に飛び降りて投身自殺したのである。
 兄の最期を見届けた後、次男源義俊も兄と同じ方法で命を捨てた。
 四男源義仲は源為義軍が放った炎に身を投じた。
 五男源義範は腹を切って命を絶った。
 六男源義公は四人の兄の絶命を見届けた後に自ら命を断った。
 息子達が次々と自殺していくのを見届けた源義綱であるが、息子達と運命をともにすることは選ばなかった。甲賀にある大岡寺で出家したのち、源為義に投降したのである。
 息子達の行動を潔いと考え、源義綱の行動を臆病と捉えるかもしれないが、どちらが正しいかと言えば源義綱のほうだ。自らの誇りのために命を投げ出すというのは、潔さがあったとしても無責任な行動である。武人に限らず、人を組織して行動する人には、自分とともに行動する人の現在と未来を保証する義務がある。生活を保障し、命を保証する義務がある。行動後の日々を保証する義務がある。何かしらの名誉を掲げ、名誉のために死ねと命じるのは責任の放棄でしかない。
 源義綱には、自分とともに陣地に籠もった仲間の人生と、自分の所有する荘園の住民の生活を保護する義務がある。これは源義綱に限ったことではなく集団を率いる全ての者に課されている義務である。自死というのは、潔さをカモフラージュにした責任逃れである。死したのち、誰が保護する義務を果たすのか。
 犯罪者として京都へ連行されていった源義綱に対し、天仁二(一一〇九)年二月二九日、処罰が決まった。佐渡国への配流、死刑のないこの時代では事実上の最高刑である。源義綱は源義忠殺害事件については無罪だと主張したが、軍勢を率いて甲賀山の山頂に立て籠もったことは言い逃れのできない朝廷への叛逆であり、源義忠殺害事件についてではなく朝廷への叛逆だけが罪過となって処罰が決まった。ただし、ここで源義綱は責任を果たしている。自分とともに武器を持っ立て籠もった面々と、自分の所有する荘園の住民の双方の保護を、白河法皇と源為義に託したのである。


 源義綱の追放とその息子たちの死という結果を迎えたという衝撃的な結末で忘れてしまいそうになるが、元々は源義忠殺害事件であり、その事件の犯人を逮捕するというのが始まりだったのだ。
 そして、源義綱が追放となり、源義綱の子供達が自ら死を選ぶという結末を迎えたが、その中の誰一人として源義忠殺害事件の犯行を認めた者はいない。無実にもかかわらず、さらに言えば有罪である証拠が何一つ無いにもかかわらず、犯人と決めつけて強引に逮捕しようとしたことに抗議をした者がいるだけだ。
 源義綱の追放で一段落といきたかったところであるが、ここまで大騒ぎになると騒ぎはそう簡単に沈静化しない。新しい真犯人の登場だ。
 噂に挙がるようになったのは鹿島冠者とも鹿島三郎とも呼ばれる者である。なお、これらの呼び名は通称で、本名は平成幹(たいらのなりもと)という。平成幹は常陸国鹿島郡の郡司であるという説があるがこれは怪しい。しかし、関東地方に多く在住する平氏の末裔であり、清和源氏の武士団を構成する武門の一員であり、常陸国鹿島郡に住まいを構え、鹿島郡の有力者家系の一員に名を連ね、常陸国における有力な武士団の一員であったこと、そして、源義忠殺害事件当時は源義忠の従者であったことは記録に残っている。
 ただ、どういう経緯で源義忠の従者になったのかわからない。気づいたら源義忠の従者の一人となっていたのである。清和源氏の武士団を構成する武士の多くが源義忠の元から離れていっていたのを考えると、従者として平成幹が新しく加わるのは異例であったことが噂を生み出した。
 さらに噂を強化したのが、この平成幹が、源義忠殺害事件の直後から行方不明となっていたことである。いつの間にか、源義忠殺害時に源義忠の反撃を喰らって重傷を負って命を落としたとか、命は落とさなかったものの園城寺まで逃れて園城寺で絶命したとか、もっとひどいになると園城寺で生き埋めにされたという噂まで出てきた。なぜ園城寺なのかというと、園城寺の僧侶の中に源義光の弟である快誉という僧侶がいたからである。
 噂は平成幹の個人的な犯行であるとは述べていない。噂の内容は、直接の犯人は平成幹であるが、背後で操っているのは源義光であるとするものであった。
 もっとも伝播した噂をまとめるとこうなる。
 まず、源義光が清和源氏のトップになることを企画した。源義忠と源義綱の二名を亡きものにするという陰謀であり、手順としては、源義忠を亡きものにし、その責任を源義綱に負わせるというものである。

 源義忠を亡きものとするだけでなく源義綱に責任を負わせるために、まず、平成幹を源義忠に接近させた。平成幹が後三年の役に参戦していたかどうかの明確な記録はないが、清和源氏の武士団の一人でもあるだけでなく常陸国に根拠地を持つ平成幹が後三年の役に参戦した可能性は極めて高い。一方、源義光は間違いなく後三年の役に参戦している。官職を投げ捨てて兄である源義光の元に駆けつけたというエピソードはあまりにも有名だ。この二人が後三年の役を契機に知り合いとなっていたとしてもおかしくない。あるいは、それ以前から知り合いであったとしてもおかしくない。
 源義光がどのように説得したかわからないが、かなり早い段階から平成幹を源義忠の従者とさせることに成功していた。
 そして、源義光にはもう一つ成功させたものがある。源義明の刀を持ってくることだ。源義明の乳母は藤原季方の妻であることから、まず藤原季方の妻に源義明の刀を盗ませ、盗んだ刀を藤原季方に渡し、さらにその刀を平成幹に渡したのである。実際の藤原季方は、最後まで自分は犯人でないと最後まで訴えて命を落としたが、噂における藤原季方は共犯者の一人、あるいは騙されて荷担することになった人物となっている。
 源義明の刀を手にした平成幹は、主君である源義忠を刀で襲撃した。しかし、源義忠も必死に抵抗し、平成幹に傷を負わせることに成功した。源義忠の襲撃に成功した平成幹は、本来は源義明の所有物である刀を事件現場に捨て、ケガをした身で源義光に襲撃成功を報告。源義光は平成幹のケガの激しさを心配し、園城寺に優秀な医師がいるからとそちらに向かわせた。ただし、襲撃直後に園城寺に行くのは怪しまれるだろうからと、治療目的ではなく、園城寺で僧侶をしている源義光の弟の快誉に向けての書状を運ぶための園城寺派遣である。
 園城寺に到着した平成幹は、ケガを見せるよりも先に託された書状を快誉に渡した。
 快誉は書状に記されていたことを実行した。書状に記されていたのは、平成幹のケガの治療ではなく、源義忠襲撃事件の犯人である平成幹を処分するようにとの兄から弟への指令書だったのだ。ケガの治療と思っていた平成幹に待っていたのは、証拠隠滅のための生き埋めであった。
 こうして真相は闇に葬られ、源義光は陰謀を成功させたのである。
 以上が、源義忠殺害事件において平安京の内外で広まった噂であった。

 この噂の流布は、源義光にとって思いも寄らぬことであったが、噂の否定はできなかった。陰謀など計画していないと言おうと、関係者である藤原季方は既にこの世の人ではなく、殺害実行犯と見なされた平成幹の行方もわからない状態である。現代なら鑑識で無実を証明しようもあるが、この時代にそのような科学技術はない。
 ただし、その犯罪によって誰がもっとも利益を得たかという概念ならばある。そして、そのときの最大利益者こそ真犯人に近い人物であると考えもある。平安時代の日本国にラテン語などあるわけないが、ラテン語の格言であるQVI BONO(クィ・ボーノー:誰の利益に)ならば平安時代の日本にも通用する概念だった。
 その結果が源義光に最悪の結果をもたらした。
 法によって処罰を受けるのならばまだマシとしか言いようのない、完全無視だ。
 京都にいても誰も相手にされない。
 所領である荘園でも相手にされない。
 自分はいくら陰謀を張り巡らしていないなどと主張しても誰も耳を傾けず、皮肉なことに有罪である証拠がないがゆえに法によって処罰がされないという日常を過ごさねばならなくなったのである。
 常陸国鹿島郡に根拠地を置き、源義忠殺害事件の主犯と見なされるようになった平成幹は結局、安否不明のまま歴史の闇に姿を消している。園城寺で生き埋めにされたという噂を否定するには平成幹の生存が確認できなければならないが、それもできない。
 その後の源義光の詳細は不明である。ただし、関東地方に戻ったのではないかとする説は強い。どういうことかというと、後の源平合戦の頃に関東とその周辺を根拠地とする武士団が登場するようになるが、その武士団の中に源氏である武士団が登場し、おしなべて源義光を祖先と主張したのである。信濃国佐久郡の平賀氏、戦国時代には武田信玄を輩出する甲斐の武田氏、常陸国に勢力を築き上げた佐竹氏、甲斐国から信濃国に掛けて勢力を築き上げた小笠原氏、後に奥州で一大勢力を築き上げるが、当時は甲斐国の一大勢力となっていた南部氏といった氏族が揃って、源義光を祖先とすると名乗るようになったのだ。そして、後世の源平合戦においては、佐竹氏を除く多くの氏族が源頼朝のもとに参戦したのである。


 さて、もう一度ラテン語のQVI BONO(誰の利益に)に戻ると、源義光以上に利益を確保した人物が姿を見せる。
 白河法皇だ。
 そもそもなぜ白河法皇が源為義に派兵を命じたのか?
 叔父が殺害されたことの復讐を命じたというのはわかりやすい理由だ。
 治安の悪化を危惧していたのも本当だ。
 ただ、源為義が源義綱を襲撃しただけでなく、源義光が京都にいられなくなったとなると、源義忠が殺害された時点で清和源氏のトップは一四歳の源為義しかいなくなる。源義綱追討の功績によって左衛門少尉に任じられたが、一族のトップとしては低い地位だ。この一四歳の少年をトップとしなければならない、しかも、源義綱も源義光もいない清和源氏は、どう贔屓目に見ても勢力が弱くなる。
 清和源氏の武力が弱くなるとなぜ白河法皇の利益となるのか?
 未だ伝説となっている、いや、死したからこそ、完璧な存在として源義家の存在がより強力にクローズアップされるようになっていたのだ。そして庶民は思い出した。その源義家に朝廷は何をしたのかを。最後は不遇としか言いようのないものだったではないか。この思いが庶民にくすぶっているときに一四歳の若者が颯爽と登場し、清和源氏が再結集した。これは頼もしく思うと同時に脅威だ。
 しかも、源為義は貴族としての素養が乏しい。武力を率いる才能はあるが、貴族として朝廷の官職を勤めることは難しいだろう。武官として職務を果たすことはできるかもしれないが、国司をはじめとする地方官は無論、参議をはじめとする議政官の職務がつとまる人物に育つとは到底思えなかったのだ。しかし、武力で国に貢献するとなると相応の権威と権力を与えなければならなくなる。これを朝廷が許すとは思えない。
 しかし、白河法皇が個人的に、成長した源為義を北面の武士として採用したとすれば話は変わる。朝廷に対する反発を持った集団をまるまる自派に引き入れられるようになるだけでなく、成長した源為義は源義家のようになるだろうと考える人の目には、白河法皇のもとには清和源氏の武力が結集していると見えるようにもなるのだ。
 これは白河法皇の権力をより強固なものとする効果を持つ。
 さらに言えば、一四歳の少年でしかない源為義は、いかに成果を出したとしても年齢的にはまだまだ保護者が必要な年齢である。その保護者の役を白河法皇が担うとなれば、白河法皇が清和源氏の武力も利用できるようになるのである。もうしばらく年月が必要となるが、源為義が成長すれば、伊勢平氏と清和源氏の双方の武力を自在に操ることのできる絶対的存在としての白河法皇が誕生するのである。

 白河法皇は何としても武力を必要としていた。寺社の繰り出すデモを鎮圧させるには強引に抑え込むしか無かったからだ。
 デモは、本来は何かの要求を求めて起こす行動であるが、デモそのものが目的と化し、暴れることそのものが目的と化すとなると、放置してはおけなくなる。放置してはおけなくなるが、対処する手段を白河法皇は持っていなかった。朝廷は法を綿密に適用すれば対処する手段を行使できるが、白河法皇はそもそも手段そのものを持っていなかった。白河法皇には北面の武士もいるし伊勢平氏もいるではないかとなるかも思うかもしれないが、白河法皇自身のボディーガードと平時の平安京の治安維持についてはどうにかなっても、寺社の繰り出すデモは平時の領域を遥かに超えてしまっている。白河法皇がどんなに頭を悩ませても、遠くから眺めているしかできなかったのだ。
 これまでは。
 これからは違う。
 源義家のもとで戦ってきた武士たちが源為義のもとに集結し、伊勢平氏と連合軍を組むことで、デモと対峙することが可能と判明したのだ。しかし、清和源氏を一つにまとめるには障害が三つあった。清和源氏のトップは源義忠であること、後三年の役で官職を投げ捨てて兄の源義家のもとに駆けつけた経験を持つ源義光が健在であること、源義家に逆らうことも厭わに清和源氏のトップを狙い続けていた源義綱が健在であること、以上の三つである。
 源義忠殺害事件の結果、三つの障害の全てが消えた。後に残るは一四歳という若き源為義だけである。白河法皇自身が保護者となることでこの若き武将を白河法皇が操ることが可能となり、間接的に清和源氏の武力を行使できる。
 こう考えると、源義忠殺害事件でのQVI BONOは白河法皇となる。ただし、証拠はどこにも無い。あくまでも推測である。


 白河法皇が清和源氏の武力を手にしたというニュースは、デモをする側の目には脅威に映った。
 繰り返すが、何かを訴える手段としてのデモそのものが禁止されているわけではない。訴えることそのものは当然の権利とされてはいたのである。問題は、訴えることが名目でしかなく、主目的は暴れることそのものであるというデモの存在だった。
 現在の我々は、一九六〇年代から一九七〇年代に暴れ回っていた学生運動のことを全く理解できない。その思いは当時の人たちも同じで、大迷惑であると感じるだけでなく、ああは落ちぶれたくないという感想しか抱けない。しかし、その時代の学生運動に青春を捧げていた人たちは、自分たちがやっていた犯罪を誇らしげに語る。犯罪をしていたと自覚すらできず、何で今の若者が自分と同じように集団で暴徒と化しデモという名目でなぜ暴れ回らないのだろうかと上から目線で嘆いている。これはもう、時代の違いではなく知性の優劣の話である。もっとも、時代とともに優秀な者が増え、デモという名目で暴れ回ることが犯罪であり無価値であると知る者が増えたという意味では時代の違いではあるが。
 話を平安時代に戻すと、寺社の繰り出すデモを多くの人は迷惑に感じ苦々しく思っていたのだが、デモに参加する面々は、デモとして暴れ回るのが犯罪だという意識すら持っていなかったのみならず、自分たちのしていることは正しいことであり、訴えは全て正しいことであると信じて疑っていなかったのだ。デモによって何かを変えようと彼らは考えていたとは到底思えない。デモとして暴れまわることそのものに人生を掛け、デモという正義に全てを掛けていたとするしかないのだ。

 さらに言えば、彼らはデモに参加する自分たちのことをエリートと考えて疑わないでいた。そして、デモに反感を抱く者のみならず、無関心でいることすら、彼らにとっては知的弱者という扱いになっていたのだ。優秀な自分たちは知性を基準とするヒエラルキーのトップであり、劣った者達を先導してあげなければならないと考えていたのである。優秀な自分たちに従ってデモに協力する者が自分たちの次、その他は問答無用で底辺という感情を隠すことなく振る舞っており、自分たちがすることはエリートであるがゆえに全て許され、自分たちに逆らったり、あるいは無関心であったりすることは、底辺どもがエリートである自分たちに逆らうという赦されざる叛逆という扱いをしていたのである。
 こうなると、デモを停めようとするのは、それが人命に関わることですら、正義に立ちふさがる悪行となる。さらには、デモを迷惑と感じることすら底辺どもが正義でのエリートである自分たちに叛逆することであり、正義のエリートであるデモ参加者にとっては矯正してあげる対象にすらなったのだ。ましてや、朝廷が繰り出す警察権力にしろ、さらには武力といったものは、正義の自分たちに刃向かう悪の集団以外の何物でもなく、悪と対決する自分たちは美しく正しいという結論に行き着き、そして、話し合いが全く通用しなくなる。
 とは言え、人の世の常として、話し合いが通用しなくとも殴り合いなら通用する。自分たちのしていることに対する客観的評価はできなくとも、警察権力や武力と殴り合いになったときに無事でいられるかどうかという客観的評価は可能であったのだ。
 天仁二(一一〇九)年のデモは数が少なく、その規模も小さなものにとどまった。六月八日に延暦寺僧徒が摂政藤原忠実の邸宅前に集まり、祇園社神人を凌礫した清水寺別当を訴えたという出来事があったが、特筆すべきデモとしてはこの一件のみである。


 白河法皇にとって清和源氏が利用できる存在になったと同時に、藤原摂関家も藤原道長の時代から清和源氏と私的な接点を持っていた。ただ、摂政藤原忠実が清和源氏との接点を持とうとせず、清和源氏に武力の発動を命じたこともなかった。
 というタイミングで、一四歳の若き少年のもとに清和源氏が結集した。
 白河法皇にとっても使い勝手の良い武力が登場したと実感できた瞬間であったが、藤原摂関家にとっても、特に藤氏長者である藤原忠実にとっても実感できた瞬間だった。
 実感できると、それまでできなかった行動をとれるようにもなる。
 それまでの藤原忠実であればデモ隊が自分の邸宅前に押し寄せても何もできず、時間が過ぎるのを待つか、あるいは要求を受け入れるしかできなかった。しかし、デモに対処できる武力があると実感できると、対処の仕方はいくらでもできる。少なくとも、要求を黙って受け入れる必要はなくなる。
 それどころか、藤原忠実はここでデモ集団中のデモ集団である比叡山延暦寺に逆らう姿勢も見せるようになったのだ。
 比叡山延暦寺をはじめとする有力寺社は、寺院の僧侶や神社の神官だけでなく、寺社に仕える民間人も抱えている。そうした人たちが田畑を耕して得た収穫だけでもかなりの規模に及び、宗教のためではなく豊かな暮らしのために寺社の門をくぐる者が多数いたほどである。自社の抱える荘園内の需要を超える生産が行われることも珍しくなく、そうした製品は荘園を超えて流通に乗り、多くは平安京をはじめとする都市へと運ばれて行った。都市での売買による収入も寺社にとっては有力な収入であり、収入を増やすために荘園と荘園で働く者を増やそうとする寺社も珍しくなかった。荘園を増やせば収穫が増え、人を増やせば働き手が増える。ついでに言えば武器を持って暴れるデモ集団の勢いを増やせる。

 寺社の荘園で生活している夫婦に子供が産まれて成長すれば人口はたしかに増えるし、そうして増えた荘園内の人口を使って新たな土地を開墾すれば田畑も増えるが、それでは時間が掛かりすぎる。荘園を抱える寺社が人手を増やすためによく行われたのが、僧侶を派遣してのスカウトであった。その寺社の荘園になれば、あるいはその寺社の荘園で働くようになればどのような良い暮らしが待っているかを説いてスカウトするのである。宗教的な死後の救済を挙げることもあったし、現世利益を説いて回ることもあった。比叡山延暦寺では、このスカウト専門の僧侶を抱えていたほどで、その僧侶のことを「山門使」という。
 山門使の行動はかなり強引なところがあり、鎌倉時代の記録になるが、他者の所有する荘園の中にあくまでも一人の僧侶として入り込み、時間を掛けて荘園内の人々の信頼を獲得し、荘園内で指導的立場を握り、最終的には荘園を乗っ取って元の持ち主から荘園を独立させた上で比叡山延暦寺に荘園を寄進させたというものまである。そこまでの強引さと執念深さはさすがに特筆すべきことであるが、山門使が各地でトラブルを起こしていることは平安時代から既に記録に残っており、その中には強引な貸し付けでの借金(この時代で言うと「借コメ」とでもすべきか)漬けにし、返済が滞って身動きできなくさせたところで証書をちらつかせながら比叡山延暦寺の配下に加えさせたというものまで存在する。
 藤原忠実が問題視したのはこれである。
 人身売買を認めないことを再確認したのだ。法を新しく作ったのではない。既に存在する法を再確認することで、現時点で人身売買をしている者を現行法で処罰できるようにしたのである。このターゲットに比叡山延暦寺の山門使も含まれたのだ。普段は藤原忠実を支持することのない庶民が、この対応には支持を表明した。さらに、比叡山延暦寺にとっては自らの行動を狭められる決定であったが、違法であることの再確認となると何の反論もできなくなる。いつもであればデモ隊を率いて反発の姿勢を見せるところではあるが、藤原忠実のもとにも清和源氏の武士団がいるとなると、デモ隊を組織して派遣させたところで、待っているのは流血の事態だ。


 ただ、このときの藤原忠実の強い決断は思わぬ副産物を生んだ。
 インフレだ。
 元々進んでいたインフレをさらに加速させたのである。
 律令に規定されていた奴隷制は、藤原基経によって売買が厳しくされ、藤原時平によって正式に廃止され、以後、日本国では奴隷がいないことになっていた。しかし、実際には密かな人身売買が続いており、人を拉致して売り飛ばす者までいたのである。さすがにこれは捨て置くことのできぬものであったが、ここには厄介な問題もあった。事実上の奴隷によって生産するからこそモノを安く作ることが可能となるのだ。安く作ったモノを都市に運び込めば、従業員に適正な待遇を用意して作らせたモノよりよく売れる。売値を安くできるのだから、同じ品質なら安い方がよく売れる。平安京をはじめとする都市住民に奴隷制について質問したら、一〇〇人中一〇〇人が許せない制度であると答えるであろうし、全員が廃止に賛成すると答えるであろう。だが、奴隷制廃止で自分の生活を彩る品々が値上がりすることになるのを受け入れますかと質問したら、値上がり反対の意見のほうが多くなる。
 現在のブラック企業問題にもつながることであるが、モノやサービスを安値で供給するには何かしらの理由がある。企業努力が発揮されたというのは短絡的な思考であり、その多くは誰かの犠牲によって成り立っている。安月給で長時間働かされる人たちの存在だ。言ってしまえば事実上の奴隷だ。現代社会におけるブラック企業問題しかり、共産主義における日常生活しかり、人権を与えず奴隷扱いしてこきつかうことでモノやサービスを安値で生みだし供給するというのはよくあるケースだ。
 そして、この安値の恩恵を受けるのは誰か?
 消費者だ。
 藤原忠実が人身売買の禁止を再確認したことで事実上の奴隷労働をさせられていた人が救われることとなった。全員ではないにせよ解放される人もいたし、人身売買に携わっている人、そして、人を拉致して売る側だけでなく、人を買う側に対する処罰も法の通り適用されるようになった。この結果、安値での供給が減り、都市部でインフレが起こった。それまでメリットを享受していた層、つまり、都市の一般庶民にも打撃を与えることとなったのだ。
 人身売買の禁止の瞬間にインフレとなるわけではなく、また、人身売買の禁止がインフレの直接の原因であるという共通理解が生まれているわけでもない。ゆえに、この人身売買禁止という措置は、インフレで最初に被害をこうむることになる庶民の支持を得ることができた。特に、目障り極まりない存在である比叡山延暦寺のデモ集団に対する処罰でもあったことがさらなる支持を生んだ。

 藤原忠実の寺社のデモ集団に対する反発は、天仁三(一一一〇)年六月二一日にピークを生んだ。奈良の興福寺は藤原氏の氏寺である。そして、藤原忠実は藤氏長者、すなわち、藤原氏のトップである。つまり、興福寺に対して強い影響力を与えうる。現在の感覚で行くと株式会社興福寺の筆頭株主である藤原忠実としてもいい。
 この興福寺の筆頭株主である藤原忠実が、興福寺の僧徒の武器携帯を禁止したのである。暴れまわる集団に対して武装解除を命令したのだから思い切った決断だといえる。そして、このときの藤原忠実の命令もまた高い評価を獲得したのである。多くの庶民が武器携帯禁止に賛成し、まずは興福寺からという藤原忠実の決断を称えたのである。
 ただ、興福寺に対してだけしか命令を出さなかったのは画竜点睛にかけていたとするしかない。命令が出た当初は賛成意見に囲まれていたが、想像していただきたい。戦いを繰り広げている関係の一方だけから武器を取り上げたらどうなるかと?
 答えは二段階を経る。
 まず、武器を持っていないためにいいようにやられ、次いで武器を持つなという命令のほうが無視される。武器を持つなという命令を出すなら、暴れ回る全ての存在に対して武器を持つなと命令するしかない。一部だけに武器を持つなと命令して、残る全てについてはお咎め無しとするのでは治安回復に役立たないどころかむしろ悪化させる。興福寺に対して出された命令は、決して無効とはならなかったが、有名無実化するに至ったのである。ただし、この二段階は時間を要する。命令が出た直後は武器無き日常に対する期待を強く抱いたのだ。
 この世間の風を寺社の側も感じていた。デモをいかに正しいことと考え、デモを鎮圧しようとする武士達のほうが悪であると訴えようと、庶民の多くは武士達を支持し、武士の活用を図る白河法皇が支持を集めるようになったのみならず、これまでの人生で全く庶民の支持を獲得したことのなかった藤原忠実までもが清和源氏を活用するようになった瞬間に庶民の支持を集めるとなると、ここで自分たちの正義を信じて行動することは得策ではなくなる。
 そして考えた。自分たちに対する反発は清和源氏が再結集したことに由来するのだということを。
 となれば、清和源氏にダメージを与えることができれば反撃も可能となる。
 とは言え、反撃のポイントなどあるのか?


 あった。
 より正確に言えば捏造した。
 天仁三(一一一〇)年七月九日、清和源氏の一員でもある僧侶の静実が、鳥羽天皇を呪詛したという訴えが起こされ、審理が始まったのである。現代の日本では、呪詛を唱えたところで、薄気味悪いとは思われても刑事事件にはならない。しかし、この時代の法に従えば充分に刑事事件であった。しかも天皇に対する呪詛である。法を綿密に適用すると死罪、慣例に従っても死罪の次に重いとされていた流罪になる案件である。
 静実は出家して僧籍に入っているとは言え清和源氏の一員と見なされてもいたから、これは清和源氏に対するスキャンダルと言えばスキャンダルであるが、静実は源頼信の子孫を軸とする清和源氏の本流ではなく、いまいちぱっとしない家系であった。そもそも、このときの訴えがなければ歴史に名が出ることもまなかったであろう僧侶なのである。
 いかに現在よりも迷信が跋扈する時代であるとは言え、この捏造は通常であればさすがに怪しすぎると考えられて聞く耳も持たれなかったであろう。ところが、まさにこのタイミングで厄介な問題が二つ起こっており、捏造が受け入れられる素地が存在してしまっていたのだ。
 一つはインフルエンザの流行だ。この時代の史料には「咳病」とある。症状が現在のインフルエンザと同じで、風邪だと思っていたら想像より症状が重く、しかも伝染性が強い。その上、命を落とすことも珍しくないとなると、不安は高まる一方である。
 二つ目は、五年前の嘉承へのへの改元を彷彿させる彗星。現代人にとっては単なる天体現象に過ぎない彗星も、この時代の人にとってはインフルエンザと匹敵する、あるいはインフルエンザ以上に恐怖を抱かせる現象だ。彗星が姿を見せると、「これは良からぬ事が起こる」と、あるいは現実のインフルエンザの流行を前に「良からぬ事が起こってしまった」という感情を抱かせるに充分になってしまう。
 彗星とインフルエンザの二重の登場は、時代に追い詰められている側にとっては絶好の反撃の機会だ。清和源氏に連なる僧侶が天皇を呪詛したからこのような事態になってしまったのだと言えば、科学的根拠は乏しくとも信じてしまう人はいる。
 この時代の人たちが彗星とインフルエンザをいかに恐れていたかは、天仁三(一一一〇)年七月一三日に、天永に改元したことからもわかる。そして、天永元(一一一〇)年七月三〇日、僧静実らを鳥羽天皇呪詛の罪より流罪とすることが決まったのだ。流罪先は信濃国の戸隠山顕光寺、現在の戸隠神社である。明治時代の神仏分離で神社となったが、この時代の戸隠山顕光寺は比叡山延暦寺に連なる寺院として有名であった。

 藤原忠実が興福寺の武装解除を命じてからしばらくは効果を持っていたが、効果はだんだんと薄れ、興福寺の武装勢力は復活したのみならず、武装解除命令前を超える勢力へと伸長していった。
 興福寺の側にも言い分はあった。自衛のためである。武装解除を命令されても他に武装して暴れる勢力がある以上、自分たちと、自分たちの抱える荘園、そして荘園に住む者を守るには武器が必要だとあっては、武装もやむなしと誰もが考えた。
 興福寺の再武装を当初は訝しんでいた者も、天永二(一一一一)年二月一日に六波羅蜜寺が何者かによって放火され、同年三月四日に円城寺がやはり放火で焼亡したとなると、興福寺の再武装はやむなしとなる。放火魔をのさばらせてまで武装解除をさせ続けたとすればそのほうがおかしい。
 しかし、再武装後の興福寺の武力が武装解除命令前を超えるとなると、周囲に与える脅威はただならぬものとなる。興福寺のある奈良だけでなく、大和国全体、さらにはその周辺地域においても、いつ爆発してもおかしくない緊張感が空気を包むこととなったのだ。
 この緊張感に直面させられることになったのが東大寺である。
 律令制における東大寺は総国分寺として圧倒的優越性を手にできた存在であったが、平城京が首都でなくなったと同時に衰退が始まり、斉衡二(八五五)年五月の震災で大仏の頭部が落下したことが一つのきっかけとなって奈良第一の寺院としての地位も失った。
 もっとも、大仏損壊だけが地位を失うこととなった原因ではない。大仏損壊はあくまでもきっかけであり、奈良第一の寺院としての地位を失った最大の理由は、東大寺内部の高度な自治と全体としての混乱がある。東大寺は、一人の僧侶が特定の地域のため、あるいは、特定の宗派のために建立させた寺院ではなく、国策として建立された寺院である。その上、東大寺というのは日本全国から僧侶が仏教を学びに、それも特定の仏教宗派に限定すること無く全ての宗派の僧侶が学びに来る寺院でもある。一見すると宗派にも地域にも縛られることのない環境で幅広い仏教を学べるというように見えるのだが、実際には東大寺内部で派閥争いが繰り広げられるようになり、東大寺内部の僧坊は派閥の基盤として発展するものの、東大寺全体の建造物、たとえば南大門や大仏殿といった東大寺全体で所有する建物は全く無視されるようになっていたのである。
 これを問題視したのが藤原忠実の父の藤原師通であった。永長元(一〇九六)年に東大寺に対して、建造物に対する修繕命令を出したのである。藤原師通の死後もこの命令は有効であっただけでなく、天永元(一一一〇)年には東大寺修理所が朝廷直属に戻されたことが確認できている。おかげで、この時代の人は東大寺のことを「手斧の音する所」、つまり、工事の音が聞こえてくる場所と呼ぶようになり、工事のピークは天永二(一一一一)年九月三日に一つの山場を迎えた。
 悲劇を伴って。

 天永二(一一一一)年九月三日、東大寺で御霊会が開催された。復旧の進んだ東大寺ということもあり例年を超える観客が詰めかけた。
 という混雑のまっただ中に興福寺の軍勢が襲撃をかけたのである。
 権中納言藤原宗忠はこのときの出来事を九月六日付の日記に残している。大和国からの伝聞として、興福寺が御霊会の最中である東大寺に襲撃を掛け、東大寺の武装勢力も興福寺の軍勢に対して応戦。戦闘が夜を通して繰り広げられた結果、東大寺の周囲の民家が焼かれ、東大寺内部の僧坊もおよそ一二ヶ所が放火されるという大惨事になった。
 いったいこれは何なのか?
 東大寺にしてみれば理解できない話であったろう。東大寺の再建がかなり進んできたところで例年の祭を開催したら、興福寺の軍勢がいきなり襲撃を掛けてきて、東大寺の周囲の民家も、そして、東大寺の敷地内の建物も焼かれてしまったのだ。
 ただし、こうも考えられる。
 興福寺は最大のダメージを与えることのできるタイミングを狙っていたのだ、と。
 これは興福寺にしか通用しない理屈であるが、興福寺に言わせれば興福寺は被害者である。東大寺の僧侶や東大寺領の荘園に住む者から被害を受けていたのだという意識を持っていて、その復讐の機会を狙っていたのだとすれば、倫理的には大問題でも、論理的には大勢の人が集まっている状況というのは最高の効率の場面である。平安時代に爆発物などなく、刀や槍、弓矢、あるいは放火といった手段であるが、それでも多くの人が集まれば、興福寺の武装勢力にとって最高の、そうでない一般人にとっては最悪の状況となる。
 それにしても気になるのは、火災の記録だけしか残っておらず、死傷者についての記録が全く残されていないことである。これが天永二(一一一一)年における人権意識だとしたら、我が国の祖先の人権意識を恥ずかしいと断じるしかない。


 この問題を目の当たりにして真っ先に立ち上がったのが白河法皇であった。
 白河法皇は未だ廃止となっていない法を持ち出すことで、経済的に寺社勢力に圧力を掛けようと狙ったのである。
 寺社勢力の経済基盤は荘園である。そして、白河法皇の父である後三条天皇の打ち出した荘園整理令は未だ廃法となっていなかったのだ。つまり、荘園を理由にして経済的な締め付けをする場合、新しい法を作って制限を加えるのであれば、新しい法の生まれる前の荘園については法の不遡及の原則が立ちはだかる。しかし、既存の法を再確認するだけであれば法の不遡及の原則が立ちはだからない。それまで違法であったことを取り締まってこなかったというのであれば、処罰そのものに立ちはだかるのは時効のみとなる。
 天永二(一一一一)年九月九日、白河法皇は延久の荘園整理令が無効ではないことを宣言すると同時に、検非違使の別当、現在で言う警察庁長官に相当する役職を持っている権中納言藤原宗忠を呼び出し、活動停止状態となっていた記録荘園券契所を復活させるよう命令し、荘園整理の実担当者として蔵人左少弁源雅兼、大外記中原師遠、左大史小槻盛仲、明法博士坂上信貞、勘解由次官平行盛といった面々を指名した。
 ただし、父の後三条天皇は荘園制度そのものを無くそうとして荘園整理令を活用してきたのに対し、このときの白河方法が狙ったのは寺社勢力に対する経済制裁である。そのため、後三条天皇の頃は全ての荘園に対する審理をしていたが、天永二(一一一一)年に復活した記録荘園券契所は多分に恣意的なものであった。表向きは荘園の所有権に対する紛争解決であったが、実際は白河法皇の意に沿った裁定を下すための場となったのである。
 復活した記録荘園券契所がいつから稼働したのかについてであるが、天永二(一一一一)年一〇月五日に最初の審理があったことが判明している。しかも、審理の場所は太政官朝所という、朝廷の中枢中の中枢である。
 思い出していただきたいのは、このときの記録荘園券契所の設置は白河法皇の命令であるという点である。鳥羽天皇が絡んでいるわけでも、摂政藤原忠実が絡んでいるわけでもないのだ。
 ここに白河法皇の政治的立ち位置の不明瞭さがある。
 この時代の日本国のどこを探しても白河法皇を無視できる人物などいない。しかし、白河法皇が命令したとしてもそこには何の法的拘束力も無いのだ。鳥羽天皇の祖父であるのは事実であるし、荘園整理に人生を注ぎ込んだ亡き父である後三条天皇の思いを息子として果たそうとしているというのも、それが建前であろうと理解できることではあるのだが、幼い鳥羽天皇を摂政として支えているのは藤原忠実であって白河法皇ではない。実際、記録荘園券契所を再稼働させるという白河法皇の決断も、法的にはグレーゾーンになるのだ。
 記録荘園券契所という組織は未だ有効な法に基づく組織であり、その組織の人員として誰を指名するかを決めるのは、法制上は鳥羽天皇に、実務上は議政官にある。白河法皇がしたのは、検非違使別当という犯罪者を逮捕する権限を持つ権中納言藤原宗忠を記録荘園券契所のトップである上卿に推薦するという一事のみであり、権中納言藤原宗忠の下で実務に当たる面々は、実際には白河法皇の指名であっても、形式的には、白河法皇の推薦を受けて記録荘園券契所を復活させる意欲を見せた権中納言藤原宗忠が、自分の部下として活躍して欲しい人員を推薦したという形になっている。その推薦を議政官が可決し、摂政藤原忠実が鳥羽天皇に代わって人事の決定をしたという構造になっている。

 ただし、人事こそ朝廷の承認を要するものの、記録荘園券契所そのものは、朝廷の中枢を占める有力貴族の圧力に屈することの無いように朝廷権力から独立した組織になっている。後三条天皇の頃に機能していたのも、大江匡房が朝廷権威を意に介すること無く荘園整理にあたっていたことに由来する。もっとも、それと同じ役割を藤原宗忠が担うかというと、それは難しいというしかない。既に権中納言にまで出世していることからもわかるとおり、その当時の大江匡房と比べて権力が強すぎる。それに、そもそも藤原宗忠は藤原摂関家の人物であり、荘園整理では整理される側なのである。
 無論、白河法皇がそのあたりのことを知らないわけない。それどころか、藤原宗忠は使い捨ての消耗品であるかのように、記録荘園券契所が復活した瞬間に用済みとされたのである。天永二(一一一一)年一〇月五日が復活した記録荘園券契所の最初の審理の日であることは既に記した通りであるが、その審理の場に藤原宗忠がいない。審理に参加したのは実務にあたらせるとして白河法皇が指名した面々のみであり、組織のトップである藤原宗忠抜きで朝廷の中枢中の中枢で活動を始めたのだ。
 後三条天皇の頃は記録荘園券契所の審査を経た荘園以外は荘園として認められないとするものであったが、白河法皇のもとで復活した記録荘園券契所は荘園の所有権についての裁定に特化したものであった。つまり、今ある荘園はそのまま荘園であり続けて良いが、誰の所有する荘園なのか、複数の所有者のいる荘園であればその複数者間でどれだけの割合とするのかを判定するのが新しい記録荘園券契所の役割となったのである。これだけを見ると、激務であった記録荘園券契所の仕事量が減っただけであるのかと思うところであるが、実際には白河法皇にとっての武器となったのである。
 白河法皇自身が荘園の所有者であるだけでなく、白河法皇の息のかかった面々が記録荘園券契所で実務を担当している。こうなると、荘園領主としての白河法皇が寺社をはじめとする他の荘園領主に対して荘園の所有権を主張したら、その瞬間に荘園の所有権は白河法皇の手に移ることとなってしまうのは目に見えている。比叡山延暦寺にしろ、奈良の興福寺にしろ、その経営基盤となっているのは荘園である。そうした荘園に対して、白河法皇は完全に合法に奪い去って自身の荘園に組み入れることが可能となったのだ。こうなれば、寺社は経営が厳しくなる一方で、白河法皇はさらに豊かになる。
 こうして復活した記録荘園券契所を、格差是正を目的に後三条天皇のもとに集った面々はどう思っていたであろうか? それを伝える資料はないが、強いショックを受けたのではないかと想像はする。何しろ人生を掛けてきたことが、プライドを掛けてきたことが、自分のもっとも望まぬ形で利用される存在へと堕してしまったのだ。
 この光景を、天永二(一一一一)年一一月五日に亡くなった大江匡房はどのように見つめていたであろうか。

 荘園を合法的に奪いに来た白河法皇のやり口に、特に怒りを隠せなかったのが比叡山延暦寺である。とは言え、荘園整理は後三条天皇にまで遡ることのできる法であり、白河法皇のやり方がムチャクチャであると不平を述べたところで、延暦寺の荘園の抱え方がそもそも違法であり、記録荘園券契所は法に従って判断しただけではないかと指摘されたらその通りだと答えるしかない。
 それに、荘園の所有権を決めるのは記録荘園券契所であって、通例の裁判組織ではない。この時代の裁判の仕組みに従うと、近江国滋賀郡に存在する比叡山延暦寺が何かしらの訴えを起こすには、まずは近江国滋賀郡の郡司に、その判定に不服であれば近江国司に訴え出て、二度目の判定でも不服ならばはじめて朝廷に訴え出ることとなっている。ただし、荘園の所有権だけは記録荘園券契所の管轄だ。自分たちの荘園の所有権についていかなる証拠を示そうと、白河方法が自由に操ることのできる記録荘園券契所の判断が最終決定になってしまう。
 この不条理な仕組みを訴え世論の同情を誘おうとしても無駄である。世論は比叡山延暦寺が懲らしめられているとしか考えていない。やり方がムチャクチャであることは理解できても、わき起こる感情は延暦寺への同情ではなく、白河法皇に対する声援なのだ。
 おまけに、清和源氏が源為義を軸に再結集したこともあり、デモを組んで京都まで行くのは命に関わる話になってしまっている。
 誰が見ても苛立ちを隠せなくなっている延暦寺にさらに追い打ちを掛けたのが、天永二(一一一一)年一一月一六日の出来事である。この日、京中で暴れ回った延暦寺の僧侶が逮捕されたのだ。ただでさえ世間の非難を浴びているときに起きたこの事件は、比叡山延暦寺に対する世間の風当たりを一層悪くさせるに充分だった。

 延暦寺は考えた。
 記録荘園券契所による荘園接収があったとしても、誰が接収しに来るのか、と。
 北面の武士は白河法皇の個人的なボディーガードであり、伊勢平氏も白河法皇と私的なつながりを持つが公的な権威はない。朝廷が命令を下せるのは清和源氏のみである。つまり、記録荘園券契所の判断を遂行するには清和源氏の出動が必要となる。
 おまけに、比叡山延暦寺のデモ隊を食い止める勢力もまた清和源氏だ。
 となると、清和源氏に対して何かしらのダメージを与えることができれば比叡山延暦寺が受けている劣勢を取り戻すことが可能だ。
 僧の静実が嵯峨天皇を呪詛したというスキャンダルに似たものはないかと調べた延暦寺は、一つ、清和源氏にダメージとなるスキャンダルを見つけ出した。
 それは、下野国司である源明国、史料には多田明国とも記される人物である。清和源氏の一員であり天永二(一一一一)年一月より下野国司に任命されている。
 この人物が何をしたのか?
 殺人だ。
 主君である摂政藤原忠実の命令で美濃国にある藤原摂関家の荘園に赴いた際に、信濃国司橘広房や源為義の郎党など、確認できるだけで三名の命を奪っていたのである。下野国司である源明国が下野国ではなく美濃国にいて、その場で信濃国司を殺害したとなれば大スキャンダル。おまけに、同時に殺害された者の中に源為義の郎党がいるとなると、清和源氏に与えるダメージはさらに倍増することとなる。