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天下三不如意 6.藤原忠通

2019.03.29 16:26

 国境の外に目を向けると、このとき、中国大陸を震撼させることになる勢力が誕生していた。

 一一一五年一月一日、女真族の阿骨打(アクダ)が金の初代皇帝に就任したのである。
 女真族は遼の支配を受けながらも半ば独立した勢力であったが、この時代から三〇年ほど前までは様々な部族に分かれて内部争いを繰り返すのみで、統一した勢力を築いていたわけでも、ましてや、国家を形成していたわけでもなかった。それが、女真族のうちの完顔(ワンヤン)部の八代目族長劾里鉢(ガリベチ)の時代に完顔部が女真族の最大勢力となり、劾里鉢の弟で九代目族長となった盈歌(インコ)の時代には女真族全体が遼の影響から脱し、劾里鉢の長男である一〇代目族長の烏雅束(ウヤス)の時代になると完顔部を軸とする事実上の独立勢力となり、劾里鉢の次男である阿骨打(アクダ)が一一代目族長になって二年目で、国家成立を、それも国家元首が皇帝を称する帝国を宣言するに至ったのである。
 新しい国家の誕生は、それまで遼の勢力を無視できずにいた宋にとって祝福の瞬間であった。歴代の中華帝国が決して認めてこなかった皇帝の称号を、阿骨打が皇帝を名乗るぐらいで遼の勢力が打破されるなら問題ないと考え、早々に金を国家として承認したほどである。
 一方、独立して帝国を名乗る国家が成立したことを脅威に感じたのが遼である。ただでさえ女真族が半独立勢力となって遼の支配の及ばぬ存在となってきているのに、国家成立を宣言して独立を宣言したのである。遼は金の独立を認めず制圧する方針を固めたが、遼は国家としての衰弱を迎えており、金を征圧する軍事力を結成することもできずにいた。
 海の向こうで起こったこの出来事を日本は複雑な思いで眺めていた。
 かつて、日本海の北西には日本の最大の同盟国であった渤海国があった。その渤海国を滅ぼした遼のことを、日本は当初は訝しんでいた。渤海国を滅ぼした余波で日本への侵略を始めるのではないかという危惧も現実的な恐怖として存在していた。しかし、海を挟んでいることもあり、遼が日本に向かって侵略しに来ることはなかった。それどころか、高麗を属国とすることで朝鮮半島への睨みを利かせることに成功し、日本へ向かう海賊を締め付けることに成功していたのである。朝鮮半島からの海賊襲来に悩まされていた日本にとって、海賊退治に乗り出してくれる遼は、ありがたい存在でもあった。
 さらに、五代十国の混迷の末に誕生した宋も日本にとっては侵略される恐怖を抱かせる存在であったが、この宋への睨みについても遼は機能した。日本と渤海国との間における明瞭な同盟関係ではないが、日本と遼との間には、宋に対抗するための緩やかな同盟関係が存在したのである。
 その遼に逆らう存在が登場した。しかもそれは、刀伊の入寇を起こしたとされる女真族の国家である。刀伊の入寇は女真族と高麗人の混成部隊からなる海賊の襲来であり、この時代からおよそ一〇〇年前の出来事であるが、その間、耐えることなく語り継がれてきた悲劇の記録である。その女真族が国家を作り、遼に立ち向かう存在へとなっている。これは脅威とするしかない。


永久三(一一一五)年、議政官は以下の体勢で始まった。

 一目見てわかるが、機能不全に陥っている。
 まず、左大臣源俊房が自宅に籠もっている。そして、右大臣が空席である。
 左右の大臣がともに不在である場合は、内大臣ではなく大納言筆頭が議政官の議長を務めることになるのだが、その大納言もいない。関白ではあっても議政官の一員でではない藤原忠実は議政官に関わることができないため、権大納言筆頭である藤原家忠が議政官を率いる立場となるのだが、立ち位置が微妙だ。
 議政官の見直しが行われたのが永久三(一一一五)年四月二八日のことである。まず、内大臣源雅実を空席であった右大臣に就任させる。空席になった内大臣には藤原忠実の息子である藤原忠通が一九歳の若さで就任。同じく空席であった大納言は、権大納言であった藤原家忠と藤原経実の二名が昇格。権中納言からは、藤原仲実が権大納言へと二段階の昇格を果たしたほか、藤原能実と源顕通の二名が中納言に昇格。参議源重資が権中納言に昇格。ともに正四位下である二六歳の藤原通季と三六歳藤原実行が参議に就任した。
 その結果、議政官の構造ははっきりとしたものになった。はっきりとしたものにはなったが、より一層白河法皇の息のかかった議政官の構成となった。議政官で新しい地位を手にした者、そして、新しく議政官に加わった者は白河法皇の側近であり、白河法皇の意思を合法的に法制化するための手順がより一層形骸化することとなった。

 それまでは理論上、白河法皇が提案したことを議政官の議決で拒否することが可能だった。否決されたことが無かったというだけで、否決される可能性はゼロでは無かったのである。しかし、このときからはその可能性もゼロになった。政権与党が議会の過半数を占めるようになったのと同じである。議政官の構成を見ると、それまでと同様に藤原氏と源氏である。ただし、構成は藤原氏という派閥と源氏という派閥ではなく、白河法皇の側近であるか否かという派閥構成となった。姓ではなく、白河法皇との距離がその人の政治的立ち位置を意味するようになったのである。
 永久三(一一一五)年四月二八日の大規模な人事異動によって、白河法皇の院政の構築は事実上完了した。ただし、法のどこを探しても「院政」という語はない。しいて挙げれば当時の史料に白河法皇のことを「白河院」と記している文献があるという程度だが、絶対的な独裁者となった白河法皇の法的な権力の根拠を示したものは無い。
 この法的な根拠が無いというのが曲者なのだ。
 次の表をご覧いただきたい。永久三(一一一五)年四月二八日の人事異動の結果である。なお、人事異動のあった者については色を付している。

 確かに大規模な人事異動があったが、過半数が入れ替わるというほどの異動ではない。政権交代で内閣が総入れ替えになる現在のほうがはるかに大幅な人事異動だ。
 おまけに、一見すると藤原摂関政治が健在である。関白はいるし、関白藤原忠実の後継者と目されている藤原忠通が一九歳の若さで内大臣だ。そして、左右の大臣に目を向ければ村上源氏。大納言から参議を眺めても記載されている姓は源か藤原で、その他の姓の者はいない。
 ただし、姓は違えど白河法皇の側近であることでは共通している者がいる。言わば、法皇派として良い派閥である。議政官は上がってきた提案を審議する義務があり、議政官の過半数の賛成があれば提案は法案となって天皇に上奏される。太政大臣がいれば議政官の議決を差し戻すことがあり得るが、この時点で太政大臣はいない。制度上、天皇は議政官の議決を拒否できるし、議政官の議決無しに法を発することもできるが、慣例として拒否することも無ければ、議政官の議決抜きで法を発することもない。
 法皇派が過半数を占めるということは、白河法皇の意見が自動的に、正式な審議を経た法案となって鳥羽天皇の名で法となって発せられることを意味する。そこに時間を要することはあれど、白河法皇の意見は数日後には日本中に広まる法となることが決まるとなったら、藤原摂関家に働きかけるより、あるいは村上源氏に働きかけるより、白河法皇に働きかけるほうが自分の思いを法にしてもらいやすくなるのは必定だ。見返りは、自分の荘園。
 忘れてはならないのは、白河法皇が記録荘園券契所を復活させ、荘園の所有権を自由に裁量できる立場にもなっていたということだ。これは、今まで自分の支配する荘園を藤原氏や源氏に寄進することで働きかけをしていた者にとって、寄進先を藤原氏や源氏から白河法皇に変更することが得策になったことを意味する。なぜか? 寄進を受けた側は資産が増えるメリットと引き換えに働きかけに応えるのである。増えた資産が没収されてもなお働きかけに応えるのは、道義的にはともかく、ビジネスライクに考えるとあり得ないし、道義的に動くのであっても白河法皇に逆らって動くのはやはりあり得ない話になる。働きかけに対する期待値で言えば、白河法皇に寄進するほうがはるかに高いのだ。
 藤原摂関政治は見た感じ継続しているように見える。だが、藤原摂関家の権威は白河法皇に及ばず、財力も白河法皇に及ばず、議政官の審議についても絶対ではなくなった藤原氏に、藤原道長の頃と同じ勢力を誰が見いだせようか?


 日本で白河法皇派が過半数を占める安定政権が誕生した頃、日本海の向こうでは国家存亡の危機に直面している国があった。
 遼である。既に遼の支配を事実上脱していた女真族が国家を建設しただけでなく、阿骨打が皇帝を名乗ったことを脅威と考えていた。女真族は遼の支配下を脱しただけでなく、遼に対する侵略を頻繁に繰り返していたのである。
 遼の天祚帝は早い段階で女真族を殲滅することを考え、金という新国家を認めずに討伐軍を派遣した。予定ではこれで女真族の“反乱”を食い止める、はずだった。
 結果は金の圧勝だった。日本海からウィグルまでを領地とし、高麗を属国とし、宋に年貢を差し出させるまでの隆盛を誇った遼はもう無かった。
 高麗は遼の属国でなくなった。ただし、遼から独立したのではない。女真族の侵略を受けるようになったのだ。高麗王睿宗は女真族の侵略に抵抗すべく軍勢を組織し、国境沿いに城塞を築いたが、女真族の侵略を食い止めるには不充分だった。そもそも、高麗王国を守るために高麗王の軍勢の一員となって戦っても高麗王国の中で重要視されない。高麗王国で重要視されるのは科挙に合格した文官だけである。武力で生きている武官は文官より下に置かれ、いかに武力で国家に功績を残そうと地位を得ることは適わなかったのである。その意味ではこの時代の日本国も他国のことは言えないが、それでも日本人の方がマシだと思わせる点が、より正確に言えば高麗には日本よりも深い絶望があった。
 日本は他国からの侵略を受けても跳ね返せてきたが、高麗は侵略を受け入れるしかできなかったのだ。その上、高麗人でありながら、高麗を裏切って侵略する側の一員になった方が高い地位と豊かな暮らしを手にできる、裏を返せばそれだけ高麗の生活水準が低かったのである。
 この現実を前にしては、いかに国王が女真族の侵略に抵抗するように訴えても無駄であった。女真族に抵抗して殺されるぐらいなら女真族の元に下って侵略者の一員となって暴れる方がまだマシだと考える者に、その思いを留まらせるだけのものを用意できないのだから。


 鳥羽天皇は、即位してからずっと六条院を内裏としていた。これは白河法皇の意向である。
 庶民街の中に内裏を設けることで庶民の支持を集めたのが即位当時の白河天皇である。ただし、承保三(一〇七六)年に白河天皇が建設を命じ、完成し、実際に内裏として機能し始めてから四〇年近くを経ている。この四〇年近くという時間は、六条の内裏が持つ二つのデメリット、すなわち、庶民街であるがゆえの距離的な不便さと、敷地面積の狭さというデメリットについて解決するに充分な時間では無かった。
 距離の不便さは相変わらずであった。平安京の北部に集中している貴族の邸宅から平安京の南にある六条内裏まで牛車に乗って通勤するのは時間が掛かるし、役所があるのは平安京北部であって六条ではない。現在の東京で言うと東京ドームと東京駅ぐらいの距離がある。近いといえば近いが、気軽に歩いて移動できる距離ではない。書類を持って役人達が平安京を駆け巡るのは御世辞にも効率的とは言えない。
 一方、二つのデメリットのうちの敷地面積の狭さについては、白河法皇の元に権力が集中していて鳥羽天皇の政務が儀礼と化しているという現実が皮肉にもデメリットを緩和させてもていた。六条内裏での政務の絶対量そのものが少なかったのである。しかし、鳥羽天皇は一三歳となり、元服も迎えている。鳥羽天皇の元服前は摂政藤原忠実が政務の大部分を肩代わりできていたが、鳥羽天皇が元服し、藤原忠実が摂政から関白になったことで、藤原忠実が肩代わりできる政務は一部に限られるようになっていた。それが法に従うということである。
 法に従って天皇としての政務をこなすためには、六条内裏では狭い。庶民街の中にあるとは言え通常の貴族の邸宅の二倍の広さを持ち、それまでの里内裏から比べれば倍の広さを有してはいるのだが、臨時の内裏である里内裏ならまだしも、恒久的な内裏とするには充分な面積ではない。


 そこで選ばれたのが、六条内裏をまっすぐ北に行き、大炊御門大路の北にあった大炊殿である。デメリットの一つである距離的な不便さはこれで解消した。地理的にも役所群と近いので役人達の移動は容易になるし、貴族の通勤もさほど困難とはならない。残るデメリットである狭さであるが、大炊殿は当時の貴族の一般の邸宅に設けられた里内裏であり、敷地面積だけでみれば六条内裏の半分に見える。しかし、大炊殿の西を走る東洞院大路を挟んだ隣には白河法皇の邸宅であるほうの、こちらもまた同じ邸宅名である白河院大炊殿、そして、この二つの邸宅は道路を挟んではいるものの一体化した機能を有していた。単純に二つの建物の面積を足すと六条内裏に匹敵するが、話はそれだけではない。大炊御門大路を東に進み、鴨川を渡った東は白河の地である。


 白河法皇は白河の地に白河南殿を建設した。その敷地面積、実に六条内裏の二倍、つまり、貴族の一般の邸宅の四倍はある邸宅である。
 話はそれに終わらない。白河南殿の東をさらに進むと九重塔で有名な法勝寺がある。平安京を見下ろす高層の塔、その麓の巨大邸宅、その出先機関であるかのように見える新しい内裏の大炊殿。この一帯が新しい大内裏であるかのように機能するのようになったのだ。これは政務のしやすさだけを考えた結果かも知れないが、同時に、平安京の視点を変更するに充分だった。
 平安京ができてからずっと、いや、平安遷都以前の平城京の時代から、都というものは北を向くものだった。都の住む全ての人は北に住まう皇室に向かっていた。平安京の西半分である右京が事実上廃棄されたとしても、都の中心は都の北部の中心にあるものだという認識は普遍だったのだ。
 それがこのときから、東も向くようになった。基本的には北を向く暮らしであることに変わりは無いが、東にある法勝寺の九重塔を、そして、九重塔が体現する白河法皇を仰ぎ見るようにもなったのである。桓武天皇によって平安京の歴史が始まるとは誰もが知っている。藤原氏がどのような権威を握ろうと、どのような権力を掴もうと、桓武天皇の設計に基づいて北を仰ぎ見る暮らしは変わらなかったのである。その前提の元で人々は暮らし、社会を作り、経済を発展させ、法を作り、政治をこなしていた。桓武天皇の前の平城京でもそれは同じだった。
 その概念に楔が入った。白河法皇は遷都をしたわけではない。ただ、平安京の中心をずらしただけで、桓武天皇に匹敵する、あるいは桓武天皇を超える、新しい時代の創造者になったのである。

 白河法皇が新しい時代の創造者になったことを心の底から受け入れることのできない勢力があった。後三条天皇派だ。
 皇室は平安京中央北部の内裏に鎮座するものであり、火災などの理由で内裏を使用できないときには一時的な里内裏を定めることは仕方ないこととして受け入れるが、そうではない内裏を皇室の場所とするのは納得できない。ましてや平安京の外に根拠地を築き、内裏が平安京の外の根拠地の出先機関となるというのはもっと納得できない話だったのだ。
 本音を言えば、このようなケースにおいて納得できないのは、自派に権力が無いことであり、自分が忌み嫌っている存在が権力を握っていることそのものあって、内裏をどこに置くかとか、平安京の外に根拠地を持っていることなどはどうでもいい話なのだが、それを攻撃材料としている以上、大炊殿の内裏と白河の地の邸宅が批判対象となる。断言できるが、後三条天皇派の要求を全て受け入れて、白河の地をまっさらな地にし、大炊殿ではなく大内裏の中の内裏に戻ったとしても、後三条天皇派かそれで満足することはない。絶対に新しい難癖をつけて攻撃する。
 永久三(一一一五)年一一月二六日に鳥羽天皇大炊殿へ遷るときの警備は厳重なものとなったが、天皇の遷御であるがゆえに厳重なものとなったのではなく、後三条天皇派のテロを恐れて厳重なものとなったのである。自分を正しいと考え、かつ、派閥の勢力の弱さを直視せざるを得ず、それでいて、一発逆転のチャンスなら存在すると考えれば、あとはテロリズムまで一直線だ。輔仁親王は謹慎しているとは言え今でも皇位継承権筆頭であり、鳥羽天皇の身に何かあれば、次の帝位は輔仁親王のものとなる。
 それを考えれば、遷御に際して厳重な警備をするのは当然。さらに言えば、白河法皇の立場に立つと、これほどまでに厳重な警備をしなければならないほど今なお残る後三条天皇派は危険な存在なのだとアピールする機会にもなった。


 海の向こうで女真族が暴れ回っていることを日本人は知っていた。
 特に東北地方では深刻な問題として捉えていた。
 奥州藤原氏の根拠地は平泉であり、平泉そのものは太平洋に流れ込む川にしか面していない都市であるが、平泉から日本海沿岸へと向かう陸路が整備されていたのは既に記してきた通りであり、日本海沿岸の港から北海道、樺太、さらに間宮海峡を隔てた沿海州との交易路も存在していたのは発掘によって明らかとなっている。特に、当時日本有数の交易港であった津軽十三湊を支配下に置くのに成功していたのは大きかった。北海道や樺太、さらには沿海州との交易は無論、日本海沿岸の航行によって京都や北陸、山陰、九州との交易もあった。最盛期には沖縄との交易、さらには日本国外にも船を出し、あるいは船を受け入れていたという。それだけの国際交易港を抱えているのに、女真族の建てた新勢力である金の存在に気づかないわけはない。
 どんなにごまかしても、交易品の質と量の低下は目に映るし、航行の安全性だって身を以て体験する。ましてや、新しく国家樹立を宣言したのはこれまで何度となく海賊として暴れてきた女真族だ。これを警戒しないとすればそのほうがおかしい。
 もっとも、海賊や山賊となって暴れるというのは、そうしないと生活できないという事情があって選んだ結果であることが普通である。犯罪が人間社会から消えることはないが、犯罪をするよりも楽に生活できる方法があるのに犯罪に手を染めることを選ぶ人もそうはいない。収穫物を奪うよりも自分で田畑を耕す方が楽に生活できるならば山賊になどならないし、船に乗って他の船や沿岸地域を襲うよりも船に物資を載せて交易するほうが稼げるとなれば海賊になどならない。
 女真族がこれまで海賊として暴れ回ってきたのは、そうしないと生きていけなかったからである。金が遼に攻め込み、遼の地域の新しい国家となったら、わざわざ海賊になどならなる必要など無くなる。それまでの遼の国民がどこに行くのかを考えると、金の国民として飲み込まれるか、あるいは大陸の奥深くに行くかのどちらかであり、そのどちらの結果を迎えても遼の国民であった者が新しい海賊として日本海沿岸に出没することはあり得ない。
 日本の立ち位置は難しいこととなった。日本の安全だけを考えたら、それまで海賊として、あるいは山賊として暴れ回っていた金が遼に勝つほうが望ましい結果となるというのだから。

 外交において厳しい局面に立っていることを白河法皇がどこまで認識していたかは怪しいが、全くの無為無策であったとは言い切れない。それまでの経歴で二度に渡って周防権守をつとめた権中納言源基綱を、永久四(一一一六)年一月三〇日に大宰権帥に任命したのである。
 大陸や朝鮮半島との公的な繋がりは太宰府が受け持ち、大宰帥が太宰府のトップとして、大宰権帥は太宰府のナンバー2として外交の責任を持つ。ただし、延久元(一〇七〇)年を最後に大宰帥就任の記録は無くなっており、それ以後は大宰権帥が事実上のトップとして太宰府のトップであり続けている。つまり、源基綱の大宰権帥任命は、権中納言を現在でいう外務大臣に任命したというのに等しい。
 これは源基綱が周防権守を二度に渡って勤めてきた実績を買ってのものである。周防権守は文字だけを見れば周防守、すなわち周防国司の補佐役のように見えるが、周防国司の補佐役なら周防介がいる。周防介でなく周防権守としたのは、長治二(一一〇五)年一二月二五日に藤原季仲を周防国に配流するとしたときとほぼ同じ理由である。違うのは、藤原季仲には処罰としての配流という名目があったのに対し、源基綱の場合は外交官養成という目的があったというぐらいで、外交を考えての周防国という点で違いは無い。
 周防国、現在の山口県東部は太宰府の管轄にある国ではない。しかし、太宰府と連携のとれる地域にあり、周防国の国衙に勤める者は太宰府から独立した状態で外交に関する情報に接することができるというメリットがある。そして、周防権守は周防国の外交部門のトップだったのだ。太宰府という中間を持たずに国外の情報に直接接する役職というのは、この時代の朝廷直属の外交官養成におけるエリートコースであり、源基綱はそのエリートコースを歩んできたという、白河法皇の選ぶことの許された最高の人材だったのだ。
 この選択だけを見れば白河法皇の行動に間違いは感じられない。
 ただ、一点だけ問題があった。
 源基綱の年齢だ。既に六八歳になっている。源氏ではあっても村上源氏ではない貴族がキャリアを重ねていく上で外交という道を選んだのは何らおかしなことではない。実際、実績を残してきたから権中納言にまでなれたのである。もう少し若ければどうにかなったかもしれないが、五〇歳で高齢者扱いされる時代の六八歳は、新しい任務を帯びて九州に赴くには厳しい年齢であった。また、このタイミングで九州に向かうことは、権中納言にまで出世した自分のキャリアアップを終えてしまうことを意味する。太宰府で無事に任務を終えて戻ってきたとしても、中納言、権大納言とキャリアを上がる保証はどこにもなく、その前に人生が終わってしまう。
 大宰権帥に任命されながら、源基綱は高齢を理由に九州赴任を遠回しに拒否したのである。ときには健康を理由に、ときには方違えを理由に。


 外交政策について裏目に出た白河法皇は、内裏についても裏目に出てしまった。
 鳥羽天皇が大炊殿に遷御し、法勝寺、白河南殿、白河院大炊殿と合わせた新しい大内裏を構成したといっても、その周囲に城壁を構築しているわけではなく、個々の敷地の周囲に通常の邸宅と動揺の塀が築かれているだけである。
 無論、内裏としての警備は成されている。成されてはいるが、元々が一般の貴族の邸宅として建設されたものなので、警備に向いているとはお世辞にも言い切れない。
 そもそも本来の内裏ですら放火による焼失が頻発していたのであるが、内裏よりも警備設備の整っていない大炊殿では放火の被害を喰らう可能性はもっと高い。
 永久四(一一一六)年八月一七日、大炊殿焼亡。放火であろうことは容易に推測できたが、容疑者逮捕どころか不審人物の洗い出しすらできなかった。
 鳥羽天皇をはじめとする朝廷の主立った者は大炊殿の東の隣にある高倉殿に一時的に逃れ、八月一九日に、源雅実の邸宅である土御門万里小路殿を里内裏とすると決定したが、それから鳥羽天皇は奇妙な行動を見せるようになる。あるいはそれが白河法皇の狙いであったのかもしれない。
 何をしたのか?
 頻繁に遷御を繰り返すようになったのだ。
 とりあえずは土御門万里小路殿を里内裏とするが、鳥羽離宮、白河南殿、かつての居としていた六条内裏、さらには藤原基隆の邸宅である三条烏丸といった場所への遷御が、一年半で実に二六回を数えたのである。もっとも、その中には陰陽道に基づく方違えもあれば、石清水八幡宮や賀茂社といった天皇としての職務遂行のための遷御も含まれるが、それにしても異常だ。そして、一ヶ所に遷御して数日留まって土御門万里小路殿に戻るという日常を繰り返すようになったのである。この遷御は何も鳥羽天皇一人が移動するのではない。鳥羽天皇をはじめとする主な皇族、関白藤原忠実、議政官を構成する主な貴族とその護衛の面々も付き従うのだ。
 とは言え、それを税の無駄遣いであるとして批判する者はいなかった。永久五(一一一七)年一月八日に平安京で大規模な火災が発生し、炎が平安京の敷地を越えて鴨川沿いにまで広がった結果、法成寺など一〇〇〇あまりの建物が焼亡したのである。鳥羽天皇の遷御はこの火災の被災者の見舞いの意味もあったのである。遷御というのは単に天皇をはじめとする皇族や、議政官をはじめとする貴族が移動するだけではない。遷御先でかなりの出費をする。遷御先で出迎えてくれた人に対して大盤振る舞いするのはマナーであり、被災者を遷御先に招き入れた上で、出迎えに感謝してチップをはずむという体裁で被災者の支援をするのも通例だ。さすがにこのことに文句を言う者はいなかった。


 さらに、永久五(一一一七)年三月二日には、消失した大炊殿の復旧工事ではなく、平安京北部の北辺を東西に走る土御門大路と、平安京東部の三坊を南北に走る烏丸小路の交わる地に新しい内裏として土御門烏丸殿を造営すると決まった。場所が重要なのではない。新しく建てることでこれよりも優れた警備システムを構築すると同時に、火災によって職業を失った人に生活の糧を与えることの方が重要だった。これもまた、税の無駄遣いと非難する者のいないことだった。

 永久五(一一一七)年に京都を襲ったのは火災だけではない。天災で言えば旱魃と水害、そして台風。人災で言えばもはや年中行事とするしかない寺院の武装デモ。その都度、鳥羽天皇は遷御をするという名目で被災者の支援にあたった。
 台風で被害を受けたのは、勧学院や法興院といった建物の他に、まさに工事をしている新造内裏も含まれる。組み立てているまさにその最中の建物が倒壊し、建て直しを迫られることとなったのだが、台風で住まいと仕事を失った人達に対し仕事を与える機会を増やすのだと説き伏せられ、期間延長の上での再工事が決まった。
 ただ、これだけ災害が続いていることに動揺を隠せなくなっている人が一人いた。
 白河法皇だ。
 それまで何度も繰り返してきた熊野詣をしただけでなく、自身の建てた法勝寺、そして、デモを繰り返して取り締まってきた寺社に対しても寄進を繰り返したのである。寄進したのは仏像とか、あるいはコメといった資産、さらには建造物を建てさせて奉納したというレベルに留まらない。白河法皇の荘園を寄進することもあったし、荘園の所有権を巡る争いで寺社に有利な裁定を出させることもあった。
 代償として、白河法皇は宗教の祈りを求めた。祈ることで天災を抑えようとしたのである。この慌てふためきぶりで新しく尊敬を得ることは無かったが、白河法皇の持つ権威の重さの前に、白河法皇がそういう人なのだと思い出させるに留まった。
 また、白河法皇はこのタイミングで、以前より考えていた策略を実行することにした。
 再工事となった土御門烏丸内裏では、再工事前と比べてちょっとした修正が加えられていた。ある人のための空間が用意されたのである。
 その人こそ藤原璋子であった。
 藤原忠実の息子である藤原忠通のもとに嫁ぐことを予定されていた藤原璋子であるが、婚姻相手が変更されたのだ。その相手こそ、一五歳を迎えた鳥羽天皇である。一方の藤原璋子は一八歳。女性のほうが歳上であるというのはこの時代では少数派であったが珍しいというほどのことでもない。また、一五歳と一八歳の婚姻はこの時代で見るとむしろ遅いぐらいである。
 藤原璋子の実父は藤原公実であるが、藤原公実は既に亡くなっている。天皇の婚姻相手は父親が誰であるかが重要視されていた時代にあって、父を亡くしている藤原璋子の立場は厳しいものがあるはずであった。しかし、白河法皇が代父であるとなると話は変わる。自身を関白に比すべき存在と捉えることで権威を獲得してきた白河法皇にとって、藤原璋子の代父になるということは、藤原璋子が子を産み、その子が皇位を継いだら、白河法皇は関白どころか摂政に比すべき存在になることを意味する。さらに言えば、摂政になってなれなくはない。天皇の実の曾祖父であると同時に、母親を通じると祖父になるのだから。
 たしかに複雑な関係になるが、皇統の連続を考えたときに誰かが鳥羽天皇のもとに輿入れをして鳥羽天皇の男児を産まなければならない。そうしなければ、後三条天皇派を抑え込むことはできないのである。


 金が遼に対して圧倒していることを知った宋は、金と同盟を結んで遼と挟み撃ちにすることを狙った。しかし、金にとって重要なのは自らの生活である。新国家の建設はその過程で発生した結果であり、また、民族アイデンティティに関わる話でもあるのだが、宋と同盟を結んで遼を打倒するというのは必須では無かったのだ。
 金にとって、特に皇帝阿骨打にとって、遼の領域に攻め込むことはあるが、女真族の治める地域で自活でき、自分たちの生活と安全が確保できるならそれで充分なのである。この時点での金は、宋との同盟を得るメリットもあったし、断ることでもやはりメリットがあったのだ。
 同盟の必要性は、金よりも宋のほうが切実であった。そして、金が同盟に乗り気になるための方法を模索していてもいた。
 宋が選んだ方法の一つが日本だった。日本に使節を派遣し、宋と日本とで同盟を結び、この同盟に金を加えることで遼を挟み撃ちにすることを狙ったのである。
 この時代の東アジアにおいて、外交とは、格下の国が格上の国に使節を派遣することであった。日本よりも格上と自負する宋は日本から使者が派遣されたならばそこで同盟結成を申し入れるつもりであったのだが、宋のその思いは日本に届かなかった。民間交易を使って日本に非公式な国書を送ることもあったが、外交のトップに立つべき大宰権帥源基綱は永久四(一一一六)年末に太宰府の地で亡くなり、以後、太宰府のトップが不在となってしまっていた。それでも国書は朝廷にまで届けられてはいたのだが、同盟の必要性を感じていない日本に、宋の求める同盟案は魅力的では無かった。
 日本からの返答が無いことから、永久五(一一一七)年九月、宋がついに日本に対して正式な使節を送り込んてきた。手には国書が携えてある。内容は、宋との二国間同盟締結と、その同盟を将来的に金も加わった三国同盟へと発展させ、遼と、この時点ではまだ遼の属国という位置づけであった高麗に対する軍事行動をとることである。
 これは議論百出となった。

 たしかに日本にとっては、金が遼に打ち勝ち、遼の領域を金帝国の領地とすることに成功すれば、海賊の脅威から脱することはできる。その一方で、高麗にも侵略している金が朝鮮半島でどのような仕打ちをしているのかの情報は伝わってもいる。最悪なケースは金があまりにも成功しすぎて遼を支配下に置くに留まらず、日本海の向こうまで軍勢を差し向けることである。軍事同盟を結べば金のその侵略を食い止めることは可能になるかもしれない。
 ただし、金が遼に圧倒していると言っても、遼がこのまま金に負け続けるとは考えづらかった。遼が反撃して金を打ち破り、金帝国を滅亡させたとき、国家を持たぬ民族へと戻ってしまったなった女真族は、再び海賊や山賊と化してしまう。それだけではなく、金の残党を追い詰めるためと称して、また、金とかつて同盟国であった国に対しての攻撃と称して、日本海を渡らせた軍勢を差し向ける可能性がある。ましてや遼と日本は緩やかな同盟関係にあった国だ。ここで遼との緩やかな同盟関係を白紙にするのはリスクの高い話であった。
 宋との同盟に乗るか、遼との緩やかな同盟を継続するか、あるいは、そのどちらとの同盟も破棄するか。その全てにメリットがありデメリットがある。
 簡単に決まらない議論は延々と続いた。このような難問のときに白河法皇は指令を出さない。議論して決めろと言うだけである。おまけに、議論の結果が正しければ白河法皇の功績であり、間違っていれば議政官の責任であるというのだから議論するのが嫌になる話であったが、議論に参加しなければ罷免が待っているとあっては、議論に参加しないという選択肢も考えられなくなる。
 その間、宋からの使者は待たされ続けた。

 永久五(一一一七)年一一月一〇日、鳥羽天皇、新造内裏土御門殿に遷る。
 それからおよそ一カ月を経た一二月一三日、公的には亡き権大納言藤原公実の娘として、藤原璋子が入内した。なお、この入内のときに白河法皇が代父を勤めている。
 年明けの永久六(一一一八)年一月二六日、藤原璋子が中宮となった。
 その間も宋からの使者は待たされ続けたのであるが、「内裏に移らねばならないのでお待ちください」「法皇が代父となっている女性が天皇へ入内しますのでそれまでお待ちください」「天皇の正式な成婚がありますのでお待ちください」との回答しか返ってこなかった。それでも、一つ一つは当時の外交儀礼において待たされるのが当然とされることであったので、辛抱強く待ち続けた。
 その裏で、議政官は一つの指令を日本中に出していた。
 宋から書状が届いたこと、宋との軍事同盟を結ぶべきか検討する局面であることを公表し、ついては日本中から意見を募るというのである。
 議政官で議論百出することは、国内の意見でもやはり議論百出となる。
 国民からの意見の中には、まさに金と遼と朝鮮半島と交易している複数の者の意見もあった。彼らの意見に共通して言えるのは、交易を考えるなら宋との交易が最大の利益をもたらすが、その質が年々落ちているというものである。質が落ちているのは遼との交易についても同じであり、交易でもたらされる富が減っている。しかし、一つだけ増えているものがあるという。それが航海の安全性だ。それまで海賊として海で暴れ回っていた女真族が日本海沿岸に姿を見せることも、日本海を横断する船への襲撃をかけることも無くなったというのだ。
 これらの意見を踏まえた上で、議政官は一つの結論を出した。
 宋も遼も衰えてきている。新しく覇権を握るのは金である。
 宋が金と同盟を結んで遼を倒したとしても、その次に待っているのは同盟を破棄した上での金と宋との対決である。これを踏まえたとき、これまで遼と結んでいたような緩やかな同盟関係を金と結ぶなら意味はある。そうではなく、遼を倒すことを前提として宋と軍事同盟を結ぶのは、それが金を巻き込んだ三国同盟であろうともメリットはないとしたのである。
 宋の使者に対しては、鳥羽天皇の婚姻のあと、鳥羽天皇の婚姻を祝した改元があるという理由を設けてまで待たせ、その証拠を見せるためもあってか永久六(一一一八)年四月三日に実際に元永へ改元し、さらに議論を詰めて、一つの結論を出した。
 元永元(一一一八)年六月八日、宋に対して正式に同盟締結を拒否すると宣言した。結局、九カ月も待たされて何も得られなかった使者は落胆して帰国するしか無かった。


 宋の使者の落胆は、一点だけ納得できる事情を抱えていた。
 永久五(一一一七)年の梅雨は雨が少なかったと思えば、今度は水害が起こり、水害が一段落したら今度は台風の被害を被った。これだけ天災が起これば飢饉もやってくる。元永への改元は鳥羽天皇の婚姻を祝した改元となっていたが、これから起こること間違いない飢饉の対策としての改元でもあった。
 食べ物が無くなれば人は都市にやってくる。この時代の日本では博多や平泉といった都市も現れてきていたが、やはり平安京が最大の都市と見られていた。平安京に行けば食べ物はどうにかなると考え、その考えは無駄であったことを知り、餓死した者が京都の道路で死体となっている光景が日常となった。
 白河法皇は朝廷で保管してある米倉を開放して配給することを命じたが、朝廷での蓄えは食料を求める者の全てに行き渡るほど充分ではなかった。宋の使者が目のあたりにしたのは日本国内のこの状況である。日本と同盟を組んで遼と対抗するというのは理想としては優れていたかもしれないが、突然現れた日本国の飢饉は宋の同盟戦略を白紙撤回するのもやむを得ないと思わせる効果を持ち合わせていた。
 戦争に巻き込まれなかったことは評価できるかもしれない。そして、この凶作は天災由来である。だが、それで白河法皇の院政に責任はないという結論も、評価に値すると結論づけることもできない。政治は庶民生活の目に見えた向上以外に評価対象になどならない。戦争に巻き込まれないのは評価できることではなく当たり前のこと、そして凶作は、天災由来であろうとマイナス評価の対象でしかない。
 院政の何が問題だったのか?
 生産力の低下だ。
 白河法皇の政策によってたしかに格差は縮まってきていた。しかし、格差があるがゆえに維持できている生産力を、格差解消を優先させたために破壊してしまったのは痛事だった。格差問題で対処すべきは格差があると認めた上で格差を乗り越えるチャンスを用意することであって、格差そのものを無くすことではない、いや、なかった。
 荘園の過剰な拡大によって格差そのものを無くそうとした結果が、生産力低下、凶作、そして餓死。朝廷の米倉を開放して飢えに苦しむ人に食料を配っても、それで院政の起こした人災を無かったことにするなどできない話だ。


 元永元(一一一八)年七月一〇日、白河の地にまた新しい邸宅ができた。白河北殿である。すでに完成していた白河南殿と合わせると、平均的な貴族の邸宅の八倍というとてつもない敷地面積の邸宅である。飢饉に苦しむ人がいるのに何を呑気なことを、と思う人もいるかもしれないが、対策としては間違っていない。食料を求めて京都まで来た人に食料を与えた後、その人の生活をどうするのかという問題がある。新しい建物を建てることで雇用を創出し、雇用によって食にありつけるようにするというのは政策として実に正しいことである。それを踏まえると、とてつもない敷地面積というのは、圧倒させられると同時に、莫大な雇用を生み出す。
 圧倒したのは敷地面積の広さだけではない。建物の醸し出す威圧感でも圧倒したのだ。どういうことか?
 白河南殿と、このとき誕生した白河北殿との間には道路がある。ただの道路ではない。平安京で朱雀大路の次に幅の広い二条大路が走っているのだ。朱雀大路は巨大であるが、平安京の人口中心が東へと移っていったことで、都市計画上では平安京の中心をなすはずの道であったのに、この時代では京都の西端を意味する道へと変わっていたのである。一方、メートル法に直して道幅五一メートルという広さで東西に走る二条大路は、平安京の東西を走る最重要幹線道と位置づけられ、道の南北には様々な役所や貴族の邸宅が立ち並び、感覚的には平安京の中心を成すようになっていた。
 二条大路を東に行き、鴨川を渡って鴨川の東岸に行くと白河の地に出る。白河で最初に出迎えるのは、右に貴族の邸宅の四倍の大きさを持つ白河南殿、左にこれまた貴族の邸宅の四倍の大きさを持つ白河北殿。どちらも美しく、壮麗で、かつ堅牢な建物だ。そして真正面にそびえ立つのは、この時代の平安京の最大の建造物である法勝寺九重塔。この高さはただただ圧倒されるのみである。
 これだけでも圧倒されるが、もっと圧倒されるのは振り返ったとき。白河の地に立てば平安京が一望できるのだ。鴨川の向こうに広がるは、右に貴族の邸宅街、左に庶民街。そして平安京の事実上の西端である朱雀大路が風景における人工物の終焉を告げる線として存在している。白河の地に立って平安京のほうを振り返ると、誰もが平安京の支配者になったかのような錯覚に陥る。そして思い出す。錯覚ではなく現実に支配者となっている白河法皇のことを。


 元永元(一一一八)年末、一つのニュースが公表された。
 中宮藤原璋子の妊娠である。
 この子が男児であったなら皇位継承権筆頭に躍り出る。それはすなわち、後三条天皇派に残されていた希望を失わせることを意味する。
 ただし、それまでの藤原摂関政治の継続についても疑問符が付く。既に何度か記してきたとおり、中宮藤原璋子の父は藤原公実であり、既に故人となっている。つまり、中宮藤原璋子の産んだ子が男児で、その子が天皇に即位したとしても、男児の祖父が摂政や関白として権力を握ることはない。
 さらに言えば、藤原公実は藤原摂関家の本流である藤原北家御堂流ではない。藤原公実から見て鳥羽天皇は甥にあたるが、嘉承二(一一〇七)年の鳥羽天皇即位時に摂政になることを望んだものの、藤原公実の所属する藤原北家閑院流は摂政や関白になるのに相応しくないと一蹴された経緯がある。すなわち、藤原公実が健在であったとしても、藤原璋子が生んだ子が帝位に就いたところで摂政や関白に就くことはない。
 では、誰が摂政や関白になるのか?
 祖父でもなければ伯父でもない藤原忠実であり、あるいは藤原忠実の息子である藤原忠通ということとなる。理論上はこうして摂関政治が継続されることとなる。ただし、法的には微妙である。


藤原忠通画像(「天子摂関御影」宮内庁書陵部蔵)

橋本義彦著「藤原頼長」(吉川弘文館,1964)p.4


 関白はいい。関白は天皇の相談役であり、天皇との血縁関係は必須条件ではない。
 問題は摂政だ。摂政は天皇が幼少である、あるいは病気やケガで政務を執れないときに、天皇の近親者が天皇の代行をするという職務である。そして、藤原璋子の産んだ子が帝位に就いたときに摂政に就く資格があるかというと、厳密に言えば、無い。拡大解釈をすればどうにか可能になるというレベルの話である。
 おまけに、鳥羽天皇の祖父である白河法皇が藤原璋子の代父を務めている。圧倒的権威を以て独裁者となっている白河法皇がその気になれば、摂政を藤原北家御堂流以外、さらにいえば藤原北家以外の人物にさせることも可能だ。その人物候補の中には白河法皇も含まれる。
 何という皮肉か。
 後三条天皇は藤原摂関政治の打破を目指した。
 その急進的な考えを息子である白河天皇が否定した。
 否定して藤原摂関政治を復活させ、白河天皇自身は上皇となり、法皇となった。
 ここに来て、白河法皇は藤原摂関政治を有名無実化することも、藤原摂関政治を白紙に戻すことをできる環境を手に入れたのである。

 さらに、ここに来て白河法皇と藤原摂関家の対立が表面化するようになった。
 藤原璋子が鳥羽天皇の元に嫁いだが、藤原璋子は元々藤原忠実の息子の藤原忠通の元に嫁ぐことを予定されていたのである。それが白紙撤回された。代償として藤原忠実の娘の藤原勲子の入内も白紙撤回された。
 というタイミングで届いた藤原璋子の妊娠の知らせは、関白藤原忠実に一つの危機感を抱かせる知らせにもなった。白河法皇がその気になれば藤原摂関家が摂関家ではなくなるのだ。
 藤原忠実はここで娘の藤原勲子の入内を企んだようであるが、祖父としての白河法皇が断固拒否した。
 この話が広まったことで、藤原摂関家と白河法皇との対立が鮮明となった。ただし、こうした対立については白河法皇のほうがはるかに経験を持っている。白河法皇は藤原摂関家ではなく藤原忠実にターゲットを絞ることとしたのである。
 藤原忠通を無視したのか? それはない。無視しないからこそ藤原忠実にターゲットを絞ったのである。藤原摂関政治の全否定をした父の後三条天皇と違い、藤原摂関政治が継続することを前提とした政治システムの構築を図っているのが白河法皇である。ここで重要なのは、藤原摂関政治そのものは継続するが、藤原摂関家の勢力が強くならないことである。藤原摂関政治はシステムとして強固であり、利用するには便利であるが、強くなりすぎると白河法皇の権威を超えてしまうこともあるのだ。
 藤原忠実に対して有能な人という評判はない。だが、これだけ経験を積めば、否応なく政治を執る能力だって身につく。実際、この時点の国政で、多少なりとも白河法皇に逆らえたのは関白藤原忠実だけである。白河法皇は当初から藤原忠実を侮っていたが、気がつけば脅威にまで成長していたのだ。
 このようなとき、藤原摂関政治を残しつつ、藤原摂関家の勢力を弱める方法がある。家庭内不和だ。
 家庭内不和は藤原氏に限ったことではなく世襲において例外なくつきまとうことであるが、世襲というのは家庭内での対立が勢力の分裂を招き、結果として勢力の衰退を生み出しやすい。特に対立が深まりやすいのが兄弟での対立だが、父と子という関係も対立を生み出しやすい関係である。中でも、父がまだまだ長期に渡って勢力を維持することが予想されたとき、父に代わって勢力を掴み取ろうと考える子がいれば、子の側に立つ、あるいは父の敵となることで対立を表面化させる効果を持つ。


 藤原忠通という名を聞いたことがなくても百人一首でのこの名を聞いたことならばるという人は多いのではないだろうか? 「法勝寺入道前関白太政大臣」の名を。あるいは、百人一首での「わたの原こぎいでて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波」を記憶されている方も多いのではないだろうか?
 この歌人こそ、元永元(一一一八)年時点で二二歳という若き内大臣、藤原忠通である。後年の院政期における長期政権と保元の乱の一因を生みだしたイメージもあって人物像はお世辞にも良いイメージを伴ったものではないが、この時点での藤原忠通はそのようなイメージを伴った人物では無い。この時代の藤原忠通のイメージは文化の保護者である。
 万葉集の時代から、和歌というのは身分の差も、年齢も、性別も、さらに言えば学識の差も存在しなかった。原則として、使用するのは和語に限られ、漢語はない。単語を漢字で記すことはあっても基本的には訓読みで、百人一首を見渡しても、出てくる音読みは「衛士」と「菊」のみ。それ以外は仮名か訓読みである。突き詰めれば、誰もが知っている単語を使って三十一文字で作品を作るのかというのが和歌の世界である。
 誰もが和歌を詠むのが当たり前で、いかに難しい単語を知っていようと、いかに多様な知識を会得していようと、和歌の善し悪しで判断される。和歌を詠みあう歌合(うたあわせ)というイベントも頻繁に開催され、どれだけ歌合に呼ばれたかがその人の社会的な地位を推し量る尺度にもなっており、歌合の場で詠まれた和歌の中には、その素晴らしさから広く喧伝されることもよくあった。歌合での和歌の素晴らしさは名声となり、卑俗な話をするとそれだけでモテた。なにしろ、プロポーズの言葉にも和歌が用いられていたのがこの時代であり、和歌の出来栄えでプロポーズを受け入れるかどうか決めるなんていうのも珍しくなかったのだ。
 ただ、和歌が窮屈な物になってきてもいた。
 文化の衰退を示す指標の一つとして、表現規制の強化がある。新しい文化が生まれても、くだらないと一刀両断されて消滅させようという動きがあるのは、いつの時代もどの社会でも見られる。この動きは、それまで神聖不可侵な領域とされてきていた和歌に対しても広まってきており、和歌の表現、用いる言葉、その内容についての自主規制が広まってきたのだ。現代の感覚で行くと、SNSの自主規制と考えると近い。
 藤原忠通が乗り出したのは歌合だ。
 元永元(一一一八)年一〇月だけで三回の歌合を開催している。うち二回は、わずか一日の間を置いて開催している。内大臣主催の歌合となるとその歌の内容は間違いなく公表される。つまり、内大臣が公表問題なしとなった和歌が公表される。自主規制を考える者にとって内大臣の評価基準は絶好の尺度になった。けしからんと批判する人がいたとしても、これは内大臣が認める表現なのだから問題ないと言い張ることも可能となるし、批判した側は黙り込むしか無くなる。
 あれこれと禁止することの多かった白河法皇が、言論の保護者として名乗り出た藤原忠通のことを全く無視するなどあり得ない。むしろ藤原忠通の行動を後方で支援していたとすれば、このあとの藤原忠通の行動が理解できるのである。


 年が明けた。
 元永二(一一一九)年一月二八日、それまで左近衛大将を兼任していた右大臣源雅実が、左近衛大将を辞任して右大臣専任となった。
 それから一〇日を経ていない二月六日、内大臣藤原忠通が左近衛大将を兼任することが決まった。左近衛大将という武官の最高位を内大臣が兼任することは珍しくなく、二三歳という若さでの内大臣兼左近衛大将というのも珍しい話では無い。
 ここまでを見て、藤原忠実は、自分の後継者である藤原忠通が順調に後継者としてのキャリアを積み重ねていると考えたであろう。そして、このキャリアの積み重ねには白河法皇の下支えもあり、白河法皇との協力関係も継続できると考えた。
 しかし、元永二(一一一九)年三月二五日の一つの知らせが藤原忠実を不安にさせる。この日、藤原忠実へと寄進された上野国の荘園が、五〇〇〇町歩という大きさと、荘園の抱える人口の多さに課役が滞ることを理由に停止させられたのだ。荘園整理を司るのは、理論上は記録荘園券契所であるが、実際には白河法皇である。
 白河法皇は何も法にないことを強要したのではない。それどころか、白河法皇は法に基づいて処分を下したのである。ゆえに、藤原忠実は思うところがあったが、白河法皇の指令に従うしか選択肢が残されていなかった。
 それに、上野国司からの訴えも悲痛なものであった。この時点での上野国の全耕地面積は三万〇九三七町歩。五〇〇〇町歩と言えば、実に六分の一が一つの荘園として寄進されたこととなる。おまけに、上野国の主産業の一つである紅花栽培は全てこの荘園内での栽培であり、ここで荘園として藤原摂関家の所領とされてしまうと、紅花栽培だけでなく、周囲の繊維業、織物業まで大打撃を受けることとなる。それまでは上野国司の管轄にあることで紅花の供給が保証されていたのに、それらがまるまる藤原摂関家に移されてしまうのだ。
 もっとも、荘園の住民にとってはせっかくの紅花が税として持って行かれてしまっている上に、残った分についても上野国司の監視が効いてしまっているために公定価格で買い叩かれているという思いになる。国司の支配を脱して自由に紅花を売買できるようになれれば得られる収入は激増だ。紅花を用いた染色は上野国の重要な産業であるが、上野国だけの重要な産業なのではない。近隣の国々でも紅花への需要はあったし、国司の支配の及んでいない国では上野国よりも高値で取引されているとあれば、黙って現在の境遇を受け入れるつもりになどなれない。藤原忠実はその思いに応えたのである。
 とは言え、法は法である。
 関白藤原忠実は記録荘園券契所に出頭を命じられた。その上で、「知信が寄進したいと申し出たので家領にしたまでで、まさか五千町もあるとは知りませんでした。早々停止の手続きを取ります」と返答せざるを得ず、さらに「今後も何か院(=白河法皇)の御気に召さぬことが御座いましたら、何でも仰せ下さいますよう」と申し出るだけであった。

 白河法皇が突き放すようになったのは関白藤原忠実だけではない。清和源氏も突き放す対象となった。
 犯罪の容疑者が、文字通り容疑を掛けられているのみであって実際の犯罪者ではない段階であっても検非違使は平気で処罰する。こんな事態において清和源氏だけが、まだ容疑者の段階であって犯罪者であると確定していない人の人権を守っていた。しかし、それは既に記した通り、犯罪者を犯罪者として処罰することを求める声に逆らうことであった。清和源氏のこの、人権を考えれば正しい、しかし、国民感情を考えると許されない行動は、抱え込むよりも敵と断じるほうが得策になってしまうことであった。
 元からして伊勢平氏をあおって清和源氏と対抗させることが白河法皇の常套手段であったが、清和源氏が敵と断じられるようになるとその動きはさらに加速する。
 検非違使の権限が強まった反面、検非違使の捜査能力が上がってはいなかった。検非違使はキャリアの一時期であって人生を掛ける職務ではない。犯罪が起きたので犯罪者を逮捕しろと求める声があり、真犯人かどうかわからない人を逮捕してノルマをこなしたと称するだけの検非違使が治安を担当する状況で、本当に治安が良くなるとすればそのほうがおかしい。この現状を受け、元永二(一一一九)年五月六日、京中に多発している強盗を平正盛に追捕させることが決まった。このときの平正盛は従五位上である。貴族の一員ではあるが特筆して高い地位というわけではない。さらに言えば、貴族に上り詰めたのは息子の平忠盛のほうが早かったほどである。
 この任命について、当時の人はかなりの疑問符を抱いた。平正盛は優れた武人であるとは考えられておらず、武人としての功績である源義親追討についても疑問視する人が多かったのである。実際、源義親はまだ死んでいないと考える者、そして、源義親を名乗って暴れる海賊や山賊が複数名いたことが確認されている。その平正盛に、京中の強盗の退治ができるのかという疑問はつきまとったのである。
 この疑問符に対する回答は五月二六日にある。この日、強盗捕縛の功績として平正盛が正五位下に昇格したのだ。もっとも、それは功績ではなく、祝賀に際しての大盤振る舞いである可能性もあるし、間もなく起こるその祝賀を祈願してのものである可能性もある。
 その祝賀とは、出産。元永二(一一一九)年五月二八日、藤原璋子が鳥羽天皇の第一皇子である顕仁親王を出産したのである。それは、今なお残る後三条天皇派に対する最後通告も兼ねていた。

 それでも後三条天皇派にはわずかながら希望が残っていた。鳥羽天皇の次が顕仁親王でも、その次は輔仁親王であるという希望が。幼児死亡率の高いこの時代、男児が産まれても三歳になる前に命を落とすことは珍しくなかった。
 その希望は元永二(一一一九)年八月一四日に絶たれた。この日、輔仁親王の子である一七歳の有仁王が臣籍降下したのである。通常、親王の臣籍降下は源姓、王の臣籍降下は平姓であるが、白河法皇は特例として、親王宣下を受けていない有仁王に源姓を賜うこととしたのである。
 これだけでも充分に特別扱いであるが、白河法皇はさらに特別扱いを追加した。従三位の位階と権中納言兼右近衛中将の役職を用意したのだ。臣籍降下した直後の源氏は多少なりも特別扱いを受けるものだが、この特別扱いはかなりの異例であった。異例であったが、臣籍降下した源氏が皇族に復帰した例はある。皇族に復帰しただけでなく帝位に就いた宇多天皇という例や、父である宇多天皇の皇族復帰に列して源氏として生まれながら皇族になり天皇へと上り詰めた醍醐天皇という例もある。ゆえに、有仁王、臣籍降下した後の名でいうと源有仁が天皇になる可能性も残されている。ただし、その可能性は低い。それに、貴族社会に身を投じれば後三条天皇派の考える理想が実現不可能な妄想であることにはすぐに気づく。後三条天皇派の期待が実現して皇族に復帰したとしても、後三条天皇派の期待に応える天皇になる可能性はもっと低くなる。
 後三条天皇派にとっての失望は元永二(一一一九)年一一月二八日にさらに深まった。この日、輔仁親王逝去。享年四七。これで完全に後三条天皇派の擁立しうる親王はいなくなった。


 時間の針は少し遡って、元永二(一一一九)年一一月初頭、伊勢平氏の親子に、イメージとは真逆の指令が出された。
 武人としての評判のない父の平正盛に瀬戸内海の海賊追討が命じられ、武人としての評判が確立されている息子の平忠盛に賀茂臨時祭の新舞人を命じられたのである。
 海賊追討については後述するとして、賀茂臨時祭について記すと、臨時と名乗っておきながら寛平八(八八九)年から毎年一一月に開催されていた定例の祭である。まず、祭の一カ月前に祭使を決定され、祭使は一カ月間、調楽に専念する。調楽というのは賀茂神社において披露する舞楽、すなわちダンスと音楽を、楽所、すなわちダンスと音楽の練習場で練習することで、平忠盛は祭使のうちのダンスの担当に任命されたということになる。
 祭使は賀茂臨時祭において、先に下鴨神社こと賀茂御祖神社で、次に上賀茂神社こと賀茂別雷神社で音楽とダンスを披露するのであるが、神様に披露する前にどのような音楽とダンスを披露するのかを天皇の前で発表しなければならない。元永二(一一一九)年の場合はそれが一一月一四日のことで、鳥羽天皇の臨席のもと、貴族達が見守る中で平忠盛はダンスを披露した。

 天皇が拝謁するのは音楽とダンスだけではない。祭祀に出向く馬もまた天皇の拝謁の対象となる。その後、天皇の命令という体裁で下鴨神社に向かって使節が派遣されることが決まる。
 実際に下鴨神社に派遣されるのは一一月一九日のこと。ずいぶんと期間が空いていると思うかもしれないが、内裏で披露するのは陰陽道によって選ばれた吉日、一方、賀茂臨時祭は一一月の最後の酉の日と決まっている。さらに、内裏で披露する吉日と最後の酉の日との間には三日以上の空白を空けなければならないと決まっているので、どんなに都合の良い吉日であっても二日以下しか空白を設けられないとなると、内裏で披露する吉日のほうを前倒しにするしかない。そのため、五日というのは賀茂臨時祭での空白期間として普通である。
 賀茂臨時祭当日、京都は賑やかになる。内裏から下鴨神社、下鴨神社から上賀茂神社、上賀茂神社から内裏、この三つの道の周囲に人だかりができ、下鴨神社にも上賀茂神社にも多くの参詣者が詰めかける。
 まずは下鴨神社にできた人だかりの前で奉納の舞楽を披露する。
 下鴨神社での奉納が終われば上賀茂神社に向かって同様に舞楽を披露する。
 両社での披露が終わると内裏に戻って天皇へ儀式の終了を報告する。
 これが賀茂臨時祭である。
 賀茂臨時祭の流れを振り返ると、賀茂臨時祭の担当者として平忠盛を任命する必要は無い。海賊退治を考えるなら瀬戸内海に派遣するのは父より息子であるべきである。ある一点を除いては。
 その一点とは、内裏から下鴨神社、上賀茂神社へと向かう祭列そのもの。平忠盛は祭列の一人ということになっているが、祭列を構成するのは検非違使や近衛府の武官といった、朝廷が認める武力である。そして、平忠盛がその中の一人にいるとアピールすることは、朝廷が自由に操ることのできる武力として平忠盛がいるのだとアピールすることにもつながったのである。
 なお、このときはもう一つのアピールも披露されている。下鴨神社と上賀茂神社で披露された平忠盛のダンスについて、当時の史料は「道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事なり」と伝えている。


 息子の平忠盛がダンスで京都を騒がせていた頃、父の平正盛は九州に向かっていた。肥前国藤津荘を中心に暴れている海賊を討伐するためである。
 この海賊を指揮していたのは平直澄。ただ、どうして平直澄が海賊になったのかを振り返ると、無罪と言えないにせよ、同情は感じる。
 肥前国藤津荘は以前から仁和寺の荘園であり、平直澄の父親である平清澄は荘園の荘司、つまり、仁和寺に仕えて肥前国藤津荘を管理する立場にあった。その平清澄が元永元(一一一八)年の冬に何らかの理由で罷免されて京都に呼び出された。このような荘園の管理者に指名されるのは現地採用であることが多く、平清澄の京都召還は単身赴任となる。それだけであれば赴任を終えれば現地に戻ることもできるという話になるのだが、京都に呼び出された後で仁和寺に監禁されたとなると話は変わる。
 父が監禁されたという話を耳にした息子の平直澄は、父の解放を仁和寺に訴えると同時に、監禁されている父への差し入れとして食料を京都に送ろうとしたのだが、その食料が四回に渡って仁和寺の僧侶に盗まれるとさすがに怒りを隠せなくなる。その上、平清澄と交替する形で肥前国藤津荘の荘司として赴任してきた仁和寺の僧侶である範誉は、その内容はわからないが平直澄に対してかなりひどいことをしたらしい。
 我慢の限界が超えたところで起きたのが、平直澄の蜂起だった。範誉とその家族、そして従者らを捕らえて孤島へと閉じ込めて食料を与えず、確認できるだけでも五名以上の従者の首を切り落としたのである。範誉は僧侶であり、この時代の僧侶は妻帯が許されていなかったはずであるが、そのあたりはどうなっていたのかわからない。僧籍にある者が結婚することは許されていないが、結婚していた者が出家したというなら妻がいたとしてもおかしなことではないので、このあたりは特に厳しく言われなかったのであろう。
 この報せを受け取った仁和寺はただちに白河法皇に訴えた。記録荘園券契所の裁定の範囲内であるとし、荘園の所有権を確認するという名目で叛旗を翻した平直澄を訴え、白河法皇は平正盛の派遣を決めたのである。
 どのような戦闘が繰り広げられたか、あるいは戦闘そのものがあったのかどうかはわからない。わかっているのは、平正盛が平直澄を討ちとって、元永二(一一一九)年一二月二七日に平正盛が平直澄の首を携え入京したことである。この功績が認められ、翌元永三(一一二〇)年一月四日、平正盛は従四位下へと出世した。


 元永三(一一二〇)年四月一〇日、保安へ改元すると発表された。
 なぜこのタイミングで改元をしたのか? 史料には疫病流行と天変による改元したとあるが、この年に限っての改元に値するほどの出来事というのは記録に残っていない。ただし、元永元(一一一八)年に諸国で飢饉が起こり、京中の道路に餓死者の死体が数多く横たわっていたという記録ならば、宋の使者の箇所で既に述べてきた通り存在する。そして、凶作は一年で収まるわけではなく、元永三(一一二〇)年時点でも解決したわけではなかった。
 それにしても、鳥羽天皇は即位一三年目にして四度目の改元である。この時代は現在のように一世一元と決まっている時代ではなく、一人の天皇が複数回の改元をすることはよくあることであったとは言え、現代人の感覚からするとこの改元回数は多い。
 ただし、同時の人はそうは思わなかった。一つの元号が一〇年を数えたのは、後一条天皇と後朱雀天皇の二代に渡って使用された長元(長元元年=一〇二八年)が最後で、それから六代、八三年間で二四番目の元号である。平均四年八カ月、最も長い寛治(寛治元年=一〇八七年)でも七年九カ月、もっとも短かった永長(永長元年=一〇九七年)だと、元号のスタートが遅かったおかげで永長二年を迎えることに成功したが、元号そのものの期間は一年間に届いていない。
 こうなると、元号は頻繁に変わるものと割り切ることが必要な時代であったとするしかない。するしかないのだが、元号を定めるときはそう頻繁に元号が変わるなど全く想定していない。新しい元号でにすることで時代がリセットされ、現在起こっている問題は全て解決すると考えるのみである。
 無論、以前より続く凶作がそんな簡単に収束するわけはない。特に、院政が生みだした社会構造が生みだした人災による凶作が続いていて社会構造の誤りを認めないままという状況ならばなおさらである。
 無論、格差は対処しなければならない問題であるし、格差の固定化は絶対に防がねばならない。最低でも、格差の敗者であった人が格差の勝ち組になる道は用意しなければならない。ただし、それと餓死者を続出させることとは取引していい条件にはならない。餓死者を続出させるぐらいなら格差がある方がまだマシだ。
 荘園が限られた存在である間は、荘園の正式な一員になることが成功の証だった。荘園の正式な一員になれない人は、荘園で臨時に働かせてもらうか、あるいは、荘園の周囲で生活するかしかなかった。荘園の正式な一員になることができれば、そうでない土地に生きる人よりも恵まれた暮らしが待っているのだが、その道はあまりにも狭く、限られた人にしか起こらない話だった。しかし、その限られた話は絶対に無理だという話ではなく、稀に目にできる成功体験であり、荘園の一員となれぬ者にとっての夢の実現であった。
 その成功の証を白河法皇は無制限に配りまくった。その結果、荘園の一員になりたい者が誰もが荘園の一員になることができた。しかも、荘園領主は白河法皇その人であるという、他の荘園が羨む荘園の一員になることができた。

 一見すれば夢の実現であると褒め称えることができよう。しかし、その結果が荘園の激増、既存の荘園の生産性低下、税収の悪化を招き、それらが積み重なって貧弱な生産性の荘園だらけとなり、それまでであれば耐えることのできていた天候不順にも耐えられない荘園と堕してしまったことは、褒めるに値することではない。格差の解消は人の命と引き換えにしていい話ではない。
 では、どうすべきだったのか?
 格差解消を目論むとき、方法は三種類ある。
 白河法皇が実施したように、格差の負け組に格差の勝ち組と同じ待遇を与える方法。
 社会主義のように格差の勝ち組に負担を命じて格差の負け組と同じ待遇とする方法。
 そして三番目が、格差の勝ち組の手にしている地位と待遇はそのままとしておき、格差も存在していると認めた上で、全く新しい存在を作りだす素地を用意し、格差の負け組に逆転する機会を用意する方法。
 最後のはわかりづらいが、資本主義における起業というのはまさにそれだ。現時点で存在する大企業、つまり格差の勝ち組はそのままとしておきながら、そのライバルとなりうる存在を作り出す素地を社会で用意しておくのである。現代の大企業、マイクロソフトにしろ、アップルにしろ、フェイスブックにしろ、そのスタートは非常に小さな会社だ。小さなガレージでしかない最初の社屋の写真を見たら、誰だって現在の企業規模にまで成長するなど信じられないであろう。その小さな会社が成長して時価総額で世界のベストテンに入るという信じられないことが実際に起こる。それも頻繁に起こる。それは珍しい話ではなく、資本主義が正しく機能しているときに起こる格差を乗り越えるための社会基盤である。重要なのは、格差を無くすことではなく、格差を乗り越えることのできる環境を用意し続けることなのだ。
 白河法皇はこれを用意すべきだった。荘園の正式な一員になりたい者を無条件で荘園の一員とさせるのではなく、新しい荘園を作るための初期投資費用と、荘園経営が軌道に乗るまでの運転資金を提供すれば良かったのである。その方法を選んでも白河法皇が荘園領主であることは同じであるだけでなく、荘園の激増とはならず、荘園の生産性低下など起こらない。それどころか、荘園の生産性はむしろ上がる。そして、飢餓を未然に防ぐことができるのだから。


 日本国内で飢餓が起こっているために軍事同盟の締結はできないというニュースを手にした使者が帰国し、遼を宋は三方向から挟み込むという戦略をとれなくなった。
 ただし、一一二〇年に金との同盟は成功した。この同盟を「海上の盟」という。宋から金に行くには、陸路だとどうしても遼の領土を通過しなければならない。そのため、宋から海路で黄海を横断し、金に使者を派遣することで同盟を締結させた。その後、金と宋との間の使者のやりとりが海を横断することで行なわれたことから海上の盟と呼ばれる。
 海上の盟で決まったのは金と宋とで遼を南北から挟み撃ちにすることである。本来であればここで日本も交えた三カ国での一斉攻撃とするところであったのだが、日本が同盟に参加しなかったために二カ国での攻撃となった。なお、攻撃の中心はあくまでも宋で、金はその補佐役という位置付けである。特に、遼の領土のうち首都燕京(現在の北京市)の攻略は宋軍が担当すると決まっていた。
 ところが、まさに遼に向けて軍勢を向けようとしたその矢先、江南地方で大規模な反乱が起こったのである。戦争は無料ではできない。どうしても予算がいるし人手もいる。そのために当時の宋の皇帝である徽宗は税率を大幅に引き上げていた。この増税に対する反発が宋の南部で勃発したのである。
 宋は、遼へ向けて北上させるはずであった軍勢を南下させざるを得なくなった。反乱の鎮圧のためである。反乱の鎮圧は成功したが、ここで時間を要したことが遼に時間を稼がせることとなった。反乱鎮圧を経て再び北上し、国境を超えて遼に向かった軍勢が目の当たりにしたのは、完全に抵抗する準備が整っていた遼の防衛軍であった。
 遼の軍勢を率いる耶律大石と耶律淳は、まずは首都の燕京を防御し、次いで燕京への攻撃準備を整えている宋軍に対して兵を送り込んだ。
 結果は宋軍の大敗。燕京攻略どころか退却を余儀なくされたのである。ただし、宋はここで諦めることはなかった。


 大陸で遼が滅亡する寸前であるが、ギリギリ持ちこたえている状況であるというニュースは日本にも届いていた。特に、日本海沿岸の地域では日本海を渡って大陸と交易をしている者が多くいる。彼らは大陸で何が起こっているのか充分理解していた。その上で一つの要請をした。沿岸警備である。
 朝廷は要請に応えた。越前国司に平忠盛を任命したのである。国司のポストの中でも越前国司は五本の指に入る競争倍率のポストであり、多くの貴族が越前国司になることを望みながらなれずにいるというのが通例になっていた。というところで平忠盛を越前国司に任命したのだが、それに対する不平不満の声は挙がらなかった。
 越前国は日本海側における沿岸警備の拠点と位置付けられていたからである。大陸から侵略してくる勢力があった場合、まずは地元の軍事力で応対するが、その次に出てくるのは越前国から派遣した軍勢なのだ。さらに、日本海側から京都に行くには越前国の敦賀に船をつけて、歩いて琵琶湖に行き、琵琶湖を縦断して大津に行き、大津から京都に行くというルートが一般的だ。越前国司という職務はその入り口の警備を務める職務でもある。国司として得られる報酬の高さゆえに人気のある職務となっていたが、報酬の高さの裏には責任の重さもある。そして、国境の外で起こっていることを考えると、その職務の遂行に必要なのは統治者としての能力よりも軍事指揮力ということなる。貴族であり、かつ、武士団を指揮する能力を考慮すると、平忠盛というのは妥当な選択であったのだ。
 ただし、平忠盛は白河法皇の側近でもある。すなわち、白河法皇と対立する勢力がある場合は容赦なく対立する。また、越前国司の職務は通常の国司としての職務、すなわち、越前国内の治安維持も含まれる。つまり、越前国内で犯罪が起こったときに逮捕するのは越前国司の権限なのだが、これまでの越前国司は寺社勢力や有力貴族を領主とする荘園について手出しをしてこなかった。それが平忠盛には通用しなかった。のちの保安四(一一二三)年の話になるが、越前国敦賀郡で発生した殺人事件で、犯人が日吉社の神人であったとき、平忠盛は遠慮せず犯人を逮捕した。今までの国司であれば寺社勢力や上級貴族の荘園の者であれば逮捕するなどあり得なかったのだが、平忠盛は平然と逮捕し、犯人を京都の検非違使に引き渡したのである。
 これだけでも今までの国司と違っていたのだが、検非違使に引き渡すために護送中の犯人が比叡山延暦寺の僧侶によって奪取されるという事件が起こった。寺社勢力の犯罪を取り締まるということは、最初にこの襲撃を受けるということを意味する。仮にここで怯まないままでいると、今度は武装したデモ集団の本隊が自分のもとに押し寄せることとなる。それがわかっているから今までの国司は手をつけずにいたのだが、平忠盛は怯まないどころか、国外からの侵攻に備えて配備するはずの武力を平然と比叡山延暦寺に向けたのだ。その上で、護送中の犯人を奪取した僧侶を逮捕し、殺人事件の犯人と一緒に京都へと護送したのである。
 比叡山延暦寺は不当逮捕であるとしてデモを組織し京都に乗り込んだが、証拠も証人も存在し、当時の法律のみならず現在の法律でも有罪間違いなしの殺人犯について、逮捕に協力するならまだしも逃そうとしたというのは世論の支持を集めるはずなどなく、デモ集団に対して大きな非難の声が集まり、自然と散会となった。
 ただ、このときだけはどうにかなったが、それ以外のデモ集団相手に白河法皇は相変わらず弱腰であった。デモ集団が単体で暴れているときはその要求を受け入れ、敵対する二つのデモ集団がぶつかるときは、暴れないよう要請するのみでデモの沈静化のための実力行使を図ってすらいない。

 保安元(一一二〇)年一一月、白河法皇はこの頃毎年恒例となっていた熊野詣に出かけていた。この白河法皇不在のタイミングを狙って鳥羽天皇が一つの発表をした。
 関白藤原忠実の娘である藤原勲子の入内である。藤原勲子の入内は以前から話にのぼっていたのだが、その見返りである藤原璋子と藤原忠通の婚姻については受け入れられず、藤原勲子の入内が白紙に戻っていたのである。そして、藤原璋子は鳥羽天皇の中宮となった。それが、白河法皇不在のタイミングを狙って本来の姿に戻されたのである。いや、藤原璋子は中宮であり続けたのだから本来の姿に戻ったのは藤原勲子の立場だけか。
 慌てて熊野から戻ってきた白河法皇の第一声は、関白藤原忠実の内覧停止命令である。関白は天皇の相談役であるが、その地位は律令に規定されているものではない。そして、関白任命は天皇の先決事項であるから、いかに天皇の祖父であろうと関白罷免は許されない。関白罷免の命令が許されるのは天皇だけである。
 それは白河法皇もわかっている。だからこそ内覧停止を白河法皇は命じたのである。内覧は天皇宛の情報に誰よりも早く接することが許されるという特権であり、内覧の権利を持たない関白はその職務がまともに機能しなくなる。ただ単に情報に接するタイミングが遅れるだけではないかと考えるかもしれないが、情報にいかに早く接するかというのは、古今東西ありとあらゆる執政者が懸命になって築き上げてきたことである。情報により早く接すれば接するほど有利に立てるだけでなく、いざという時に救われる命も増えるのだ。この時代において、その優越性で群を抜いていたのが内覧という権利である。内覧の権利を持ちながら関白ではないという例はあっても、関白でありながら内乱の権利を持たないなどというのはあり得ないのである。ゆえに、関白が内覧停止を命じられたなら、あの手この手で内覧停止を取りやめるよう働きかけるか、あるいは関白を辞職するかしか選択肢はない。
 白河法皇の命令を受けた藤原忠実は、ただ一言「運が尽きたのだ」と言って内覧停止命令に従った。ただし、白河法皇の最終目標である関白辞任は断固として拒否した。
 関白辞任拒否の知らせを耳にした白河法皇は、法勝寺の僧侶である律師経賢ら四人の僧侶を解職すると命じた。誰もが、この四人の僧侶達が藤原忠実のところに出入りしていたからだという隠された理由を理解し、そして、戦々兢々となった。白河法皇に逆らうと人事権が遠慮なく発動されるとあっては黙り込むしかなくなる。
 白河法皇は次いで、内覧の権利を内大臣藤原忠通に与えるとした。白河法皇の意図はもう誰の目にも明らかだった。関白を藤原忠実から藤原忠通に入れ替えるのである。それは何も藤原忠通の才能を買ったからではない。藤原摂関家の勢力を弱めるための手段として父子の対立を生み出そうとしたのだ。
 ただ、肝心の藤原忠通がこの誘いに乗らなかった。内覧の権利は前任者から直接受け継ぐものであり、任命による内覧の権利の獲得は前任者の死去に限られるとしたのである。内大臣の言葉に白河法皇は怒りを抱いたというが、藤原忠通は父への処分が解かれない限り内覧の権利を受けるつもりも、ましてや関白に就任するつもりもないと宣言したのである。
 この結果、内覧の権利を持つ者が誰もいなくなり、関白藤原忠実は内裏から遠のいて自邸に籠るようになった。国政の停滞の始まりである。


 ここで、白河法皇と藤原璋子、そして、藤原璋子の産んだ子の関係について記しておかなければならないことがある。
 藤原璋子の生んだ子である顕仁親王、のちに崇徳天皇と呼ばれることになるこの幼児の父親は、鳥羽天皇ではなく白河法皇であり、鳥羽天皇は我が子のことを、自分の妻の子であると同時に、自分の祖父の子、鳥羽天皇から見れば叔父にあたる血縁の子であるとして「叔父子」と呼んで忌み嫌ったという逸話である。
 実は、当時の記録のどこを見てもそのような話はない。
 この逸話が最初に登場するのは、この時代から一〇〇年以上後になって記された書物である「古事談」である。と言うより、古事談以外にその逸話を記した資料はない。それ以外に逸話について記した本がある場合、それは全て古事談を原点とする孫引きの記載である。言うなれば、現在に生きる者が、取材も裏付けの確認もしないで第一次世界大戦についての本を記したのを、あたかも第一次世界大戦の同時代記録として扱うようなものであり、信憑性を疑うしかない。
 今のところ有力な説となっているのは、保元の乱において崇徳天皇(保元の乱当時の呼び名で言うと崇徳上皇)と対立することとなった後白河天皇のサイドが、敵への誹謗中傷の一つとして考え出して広めさせた説ではないかとする説である。後白河天皇にとって実の兄なのにもかかわらず、よくもまあそのようなことを考え出して広めさせたものだと言いたくなるが、後白河天皇という人を調べると、この人だったらやりかねないという感情しか抱けないのものまた事実である。
 ただし、藤原璋子が多くの男性と密会を重ねていたことは当時の記録にも残っている。現在ならばともかく身分差別が露骨であったこの時代、白河法皇の元で育てられた女性が身分の低い者と逢瀬を重ねていたというのは、それが純愛であったとしても、当時の概念では充分にスキャンダルである。ただし、当時の記録に残されているのは身分の低い男と、それも複数の男との密会を繰り返していたという記録であって、藤原璋子と白河法皇との関係を指し示したものはない。
 鳥羽天皇が藤原璋子を疎んじていたのは想像できる。鳥羽天皇にとって白河法皇はかなり疎ましい存在であったろうし、藤原璋子も自分の代父は白河法皇であるとして強く出ていたであろう。その状況を脱するために藤原勲子を入内させたとも考えられる。何しろ関白の実の娘だ。藤原璋子を排除して藤原勲子を選ぶことができれば、白河法皇の影響を排除することも可能と考えたのだろう。


 白河法皇の命じた内覧停止の余波は、年が変わっても続いていた。
 決着をみたのは保安二(一一二一)年一月一七日のことである。まずはこの日、白河法皇が内覧停止命令を白紙撤回する。これで藤原忠実は関白としての政務を正常に遂行できるようになった。
 それからわずか五日後の保安二(一一二一)年一月二二日、藤原忠実、関白を辞任。その際、後任の関白として内大臣藤原忠通を推薦し、鳥羽天皇は藤原忠実の推薦を受け入れるとして内大臣藤原忠通に内覧の宣旨を下した。ただし、ここで藤原忠通は一つの意地を見せた。関白就任を固辞したのである。そのため、関白不在という事態がここで誕生した。
 一方、藤原勲子の入内は白紙撤回となった。入内の話そのものがなかったこととなり、藤原璋子が鳥羽天皇の正式な妃であると宣言された。
 藤原忠通の関白就任固辞を除いた結果は白河法皇の意思が通ったことになるが、白河法皇の意思が通ることと、杞憂が消えることとは一致する話ではない。それどころか杞憂はむしろ増えたのである。
 何の杞憂か?
 鳥羽天皇が自分に逆らう存在になったという杞憂である。あるいは、杞憂というレベルを超えた現実としてもいい。
 白河法皇の影響力は無視できるものではない。人事権は白河法皇が握っており、議政官から上がってくる法案はその全てが白河法皇の意思に基づく、あるいは、白河法皇が反対しなかった法案である。ただし、天皇は議政官から上がってくる法案を否決しないというのは慣例であって、鳥羽天皇は理論上、議政官から上がってきた法案を、すなわち、白河法皇が推した法案を、否決する権利を有している。その権利を使用しないというのは慣例であって、使用したところで法に逆らうことにはならないのである。
 鳥羽天皇の手には白河法皇に逆らう権利がある。
 伝家の宝刀は抜かなくても脅威であり続ける。鳥羽天皇の手にしている伝家の宝刀に恐れを抱いたのは白河法皇のほうであった。


 金との軍事同盟に基づく遼への攻撃が思わしくないことから、宋は再び日本も同盟に加えることを画策した。格下が格上に使節を派遣するものではないかと、さらに言えば、一度はソデにされた相手に使者を派遣することになるのは屈辱ではないかと不満よりも、日本を同盟に加えることを宋は優先した。
 宋から再度提示されたこの同盟について朝廷内では賛否両論噴出した。
 ただ一つだけ意見の一致を見たのは、このまま関白不在という事態は避けなければならないという意見のみである。
 この時点の国政は、まず、二〇年に渡って摂関家のトップを務めてきた藤原忠実が隠居しており、次いで、保安二(一一二一)年二月二六日には源俊房が出家のため左大臣を辞任していたのである。もっとも、左大臣源俊房はただでさえ八七歳という高齢である上に、永久元(一一一三)年からはそもそも自宅に籠もっていたのだから左大臣は存在していても不在に等しかったのだが、ここに来て、左大臣がいない上に関白もいないという体制では、軍事同盟を求められている局面ではあまりにも弱すぎるというのに気付かされたのである。
 この現状を目の当たりにして、関白就任を固辞し続けていた内大臣藤原忠通は、保安二(一一二一)年三月五日に鳥羽天皇の要請を受け入れるとして正式に関白に就任した。
 とは言え、宋との軍事同盟についての賛否両論は変わらない。宋と同盟を結ぶことのメリットとデメリット、結ばないことのメリットとデメリットを掲げた両方の意見がせめぎあっていたのである。
 まさにこの議論のさなか、伊勢平氏のトップである平正盛が亡くなったというニュースも届いた。四月二日にはもう亡くなったという説と、四月八日に亡くなったという説とが混在するほどの混乱であり、伊勢平氏のトップが平忠盛になったことは日本国の防衛力の見直しを迫られることでもあった。
 遼の命運はもう見えていた。あとはいつ滅ぶかである。ただし、国家として滅んでも民族として滅ぶとは夢にも思えない。民族全体が内陸に移ることになるが、勢力を盛り返して再び宋に向かい合うことは充分に考えられた。
 おまけに、宋が遼に攻め込んでいると言っても苦戦している。そして、不気味なことに金は軍事同盟を結んでいると言ってもほとんど動きを見せていない。ゆえに、宋が遼に勝ったあとも、金がそのまま軍事同盟を継続するとは思えなかった。兵力を使い果たした宋に対して金が軍を進めたら、かなりの可能性で金が勝つ。それこそ、宋という国家を滅亡に追い込むレベルでの圧勝をおさめる。

 そのとき、宋と同盟を結んでいたという事実を突きつけられたらどうなるか? 金を構成する女真族は海賊として日本に侵略してきた過去がある。その過去を持つ民族の手元に「敵国の同盟国」という絶好の口実が残ったら、「あの同盟は宋と金と日本との三国同盟だったではないか」などという言い訳など通用することなく、艦隊が日本に向けて送り出されることとなる。
 ただし、宋の人口は金を遙かに上回る。無傷の金と疲労困憊の宋とが全面戦争に突入したとしたら、短期的には金が勝つであろうが、泥沼の長期戦に突入したら最終的には宋が勝つであろう。そのときには同盟に乗らなかったことが、宋が日本に攻撃する口実になる。
 同盟に乗っても、同盟に乗らなくても、戦争に巻き込まれる可能性のあることに違いは無い。このときの朝廷に残されていたのは、どうすればより実害の少ない形で済ませられるかを探ることだけであった。
 朝廷の出した結論は、同盟要請の拒否である。
 同盟要請が二度に渡って日本に拒否されたことは、宋にとって痛手であった。遼に対して戦闘を挑むも失敗を繰り返していたところに加えて、同盟参加拒否の知らせが届いたのである。
 宋にとってさらに問題であったのは金の動きであった。何もしないのだ。遼を南北から挟み撃ちにするというのが海上の盟の骨子であったのに、戦闘に打って出ているのは宋軍だけで金の阿骨打は何もせずに見守っているだけだったのである。
 宋の攻撃は苛烈なものがあったが、遼の抵抗もまた苛烈であった。
 武力と武力とのぶつかり合いのさなか、遼にとって痛手となる出来事が起こる。お家騒動だ。次期皇帝の地位を巡る争いから、遼の武将の一人で、遼の王族の一員でもある耶律余睹が金に亡命する事態に至ったのである。遼で抵抗を見せている者も、王族の一員が亡命する事態となったのを目の当たりにして、国家滅亡のときは近いと覚悟するようになった。
 遼の滅亡を覚悟した者の多くが金に逃れたが、一部の者は高麗にも逃れた。韓国の史料によるとこのとき遼から逃れてきた人、この人達のことを韓国の史料では契丹人と記しているが、高麗に逃れてきた契丹人が数万人に達するという。残念なことに、もっとも古い記録でもこの時代からおよそ三〇〇年後に記された史料ということになるため信憑性に乏しいが、高麗王朝の中でこのときに逃れてきた遼帝国の官僚や武将が重要な役割を担ったであろうことは推測されている。


 決して有能とは評されてこなかったが、二〇年に渡って藤原摂関家のトップであり続け、摂政や関白として政務をこなしてきた藤原忠実が隠居生活に入った。とは言え、まだ四四歳である。その息子であることから想像つくと思うが、関白内大臣藤原忠通はまだ二五歳。藤原忠実もいきなり藤原摂関家のトップに立たされる人生を歩んだが、親が歩まされた道を息子も歩まされることになるとは、誰も想像してはいなかったろう。この藤原忠通が貴族のトップとなったのだ。白河法皇にしてみれば、自分にとって御しやすい議政官が成立したことを意味する。
 年齢だけを見れば議政官の他の面々はベテラン揃いである。関白内大臣藤原忠通より若い貴族は一九歳の権大納言源有仁だけであり、源有仁は臣籍降下したばかりの元皇族であるから例外とすべきで、その他の議政官で藤原忠通より若い貴族はいない。ただし、ベテランであると言っても政治家としてのキャリアで白河法皇を上回る者はいない。議政官を見渡しても白河法皇の送り込んだ派閥の面々が過半数を占めている。白河法皇に対立することもあった藤原忠実はもういない。つまり、この国の立法と行政が白河法皇の意のままに動くようになったということである。
 ただし、白河法皇に逆らう存在として鳥羽天皇がいる。鳥羽天皇が伝家の宝刀を抜く可能性が極めて低いとは言え、鳥羽天皇には議政官の決議を白紙に戻す権限が存在する。その杞憂をゼロにする方法を白河法皇は画策した。ただし、それはあまりにも乱暴な方法であり、また、危険な方法でもあった。
 それは何か?
 帝位を、数え年三歳の顕仁親王に移すことである。ただし、これはあまりにも無責任で危険な話であった。若すぎるというレベルでは済まない幼児だ。ただし、顕仁親王が帝位に就くと、白河法皇にとってのメリットが一つだけ登場する。
 摂政は、天皇が幼い、またはケガや病気のために政務を執れないときに、天皇の親族が就く職務である。藤原摂関政治は藤原摂関家の者が天皇の母方の祖父として摂政に就くことで権力を掴むシステムである。そして、顕仁親王の母の代父は、白河法皇。つまり、白河法皇が摂政として政務を握るのである。代父では問題ありというなら天皇の曾祖父として政務を握るという考えは無茶ではない。その際、鳥羽天皇は上皇となるが、白河法皇と違って無権力の上皇に留まる。