Kiranahの由来について
「Kiranahとは、なんとお読みすればいいんですか?キラナ、ですか?」
鑑定の際に、クライアント様に、そう尋ねられることが増えました。
Kiranahはサンスクリットで किरणः と、表記します。
梵語と言うと、お分かりいただけるかもしれません。
Kiranah(किरणः )と書いて、「キラナ」と読みます。
Kiranahは【光線】【光】、それも【太陽や月から降りてくる光の筋】という意味になります。
2017年の春、Kiranahは生まれました。
それまでは、クチコミのみで、一切、看板を掲げずに、リピーター様からのご紹介のみで鑑定のご依頼や腕輪念珠をお仕立てしていました。
しかし、鑑定にお出で下さる皆さまから、様々なご要望もあり、SNSなどを利用し、より、皆様にご利用頂きやすいようにと考え、まず、屋号を考えました。
私が鑑定の際に、向き合うこととなるクライアント様に対して、いつも思っていることがあります。
それは、少しでも、私でお役に立てることがあるならば、何なりとお申しつけ頂きたいということ。
そして、何より、様々な悩みや問題を抱えながら、勇気を出してお出で下さったクライアント様のこころに、鑑定を通して、希望の光が差し込みますように、と言う思いです。
そんな私の願いを込めて「Kiranah キラナ」と名付けたのです
Kiranahと言う言葉は、アドヴァイタ・マカランダという書物の中の冒頭に登場する言葉でもあり、その中で表現される意味も、ピッタリではないか、と考えたからです。
詳しいサイトからの一部引用となりますが、書物の冒頭で下記のように記されています。
kaṭākṣakiraṇācāntanamanmohābdhaye]には、6つの単語が含まれています。
[kaṭākṣa] (クリシュナの)目の片隅
[kiraṇa] 光線
[ācānta] 干上がった
[namat] (クリシュナを)認識している人達
[moha] 混乱
[abdhi] 海
これらの言葉が互いにどのように関わっているのかは、敢えてここで、深くは論じませんがが少しだけ、読み進めてみてくださいね。
「(クリシュナの)目の片隅の光線」”によって”「干上がった」
そんな、片隅からのわずかな光線でも、何かを完全に干上がらせることが出来るのですね。
何が干上がるのでしょうか。
それは「混乱」”の”「海」が干上がるということ。
混乱とは、無知とか、間違った認識のことです。
「(クリシュナを)認識している人達」”の”「混乱の海」
クリシュナを認識している、とはどういう意味でしょうか。
世界にある、無数の対象物について、見たり感じたり出来る部分だけを理解しているのではなく、それらの存在が可能になっている原因、それらを支えている原因に対しても、その存在を認識し、理解に努めている人達を、「クリシュナを認識している人達」と呼びます。
「混乱の海」は、全ての人間に例外なくあるものです。
その中でも、「クリシュナを認識している人達」の「混乱の海」は、どのようになるのでしょうか?
「(クリシュナを)認識している人達の混乱の海」”は”「(クリシュナの)”目の片隅の光線によって干上がった」
混乱の海が干上がるとは、どういうことでしょうか。
毎日のアップアップな世界が丸ごと無くなるのでしょうか。
そんなことはありません。世界は存在し続けます。
しかし、その人の世界の理解、現実の理解が、混乱から正しい理解へと正された時、世界に対する混乱の海が干上がった、という表現になるのです。
なぜそこに、クリシュナが登場する必要があるのでしょうか?
他の神様ではだめなのでしょうか?
世界を正しく理解する為だけなら、ある程度の認識能力さえあればいいのではないのでしょうか?
目の前の出来事に完全に捕らわれている、近視眼的な見方では、全てについての正しい理解をすることなど出来ません。
「あそこに良いお医者さんがいる」と認識して、そこに行き
「治してください」と頼んで、初めて、そのお医者さんの恩恵が受けられるのです。
それゆえに、「クリシュナを認識している人達」のみの「混乱の海」が、「(クリシュナの)”目の片隅の光線によって干上る」のです。
そして、「干上がる」とは「もともと、海なんて無かった」ということが、解かるのです。
このように、今、自分が置かれている状況を正しく認識し、理解するということが意外に難しかったり、出来ていないということは、ままあることですね。
むしろ、それにすら気づけていない、ということが殆どなのかもしれません。
Kiranahでは、鑑定やセッションを通し、クライアント様が、自身の認識や理解がどこにあるのかを、根本のところから「知り、理解し、認識して行く」ことを含め、鑑定後も全力でサポートをして参ります。
皆様のこころに、希望の光が差し込むよう、そんな存在であれるように、と、願いを込めて