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3月23日 〜日向備長炭の炭焼き小屋(奥井製炭所)を見学するの巻〜

2019.03.30 09:19


今日は、奥井夫妻が営む「奥井製炭所」の作業場を見学させてもらうことに。


ここ美郷町は、宮崎県北部の山あいにある、人口約5000人の緑豊かな山村である。


国道沿いに流れる耳川は、水量が豊かで水面は碧く光り、思わず見とれてしまう。


この町は林業が盛んで、国道を走っていると、大きな丸太を山のように積んだトラックと何度もすれ違う。


もともと宮崎は炭焼きが盛んで、中でも地元で生産される備長炭は「日向備長炭」と呼ばれ、紀州備長炭、土佐備長炭と並ぶブランドとなっている。


奥井製炭店の炭焼き窯は、自宅から車で10分ほどの山道を少し登ったところにあった。


炭焼き窯の実物は初めて見たが、一見するとまるで古代の遺跡のようだ。



体を横向きにして、なんとか入れる窯の内部に入ってみる。


炭を取り出してからだいぶ時間が経っているとのことだが、中はまだジンワリと暖かい。


炭焼きでは2m前後の原木を立てて並べるが、一回に焼く量は、この炭窯の場合約7tとのこと。


懐中電灯で内壁を照らすと、ところどころで壁面が剥がれかけている。


これから、収縮しないよう熱処理した土を捏ねて貼り付け、壁面の補修をするらしい。


窯のメンテナンスも重要な炭焼き作業の一つである。


汗をかいてしまう前に窯を出て、今度はコンテナに整然と詰められている備長炭を見せてもらう。




備長炭とは樫の木を原料とする「白炭」のことで、見慣れている普通の「黒炭」と違い、表面が灰で覆われ白くなっている。


これは、黒炭の製造過程をさらに進め、窯から取り出し灰をかけ、強制的に燃焼を止めるためであり、こうして不純物が少ない白炭が作られる。


備長炭の断面はまるで黒曜石のように黒光りし、硬くて重く、叩くと金属のような音がする。


手にした感じは、木というよりも金属か書道の墨を思わせる。


一定の温度で長時間燃焼し、煙やススが出にくいため、鰻屋や料亭などで用いられる高級品である。


ただ、着火しにくいため、黒炭を用いて時間をかけて着火しなければならない。



ご夫婦の作業分担は、旦那さんの博貴君が山仕事、つまり立木の買い付けから切り出し、運搬を一人で行う。


炭焼き作業は二人で行い、規格に合わせた備長炭の調整は、奥さんの朝子さんの仕事だ。


山仕事に危険はつきものである。


チェーンソーで立木を倒す作業や足場の悪い斜面での運搬作業では、骨折や滑落事故はつきもの。


命を失う事故だって決して珍しいものではない。



「怪我は一通りしました」と、博貴君は笑う。



美郷町には、彼らのように他県から移住して炭焼き業を営む人が何人かいる。


彼らは比較的若い層になるが、ほとんどの同業者は地元の高齢者であるが、80歳ぐらいのお年寄りのほうが、身体の動きに無理な力が入らず、自分たちよりもずっと仕事ができたりするという。


この地域では、他所よりも機械を使わない、伝統的な方法で炭焼きが行われてきた。


次の世代へと一つ一つ継承されてきた、身体に染み込んだ熟練の技。


そんな山仕事の匠であるお年寄り達も、あと10年もすると皆いなくなってしまう、という現実がある。



「奥井製炭所」で彼らのブログを検索すると、毎日の仕事の様子を見ることができる。

(『日向の国の備長炭  奥井製炭所』 https://binchosan.exblog.jp)


例えば原木の切り出しについて書くと、急斜面にワイヤーを張り、原木が引っかからないよう注意しながら、集材機で延々と引き寄せて下ろすという、体力を要する地道で作業である。


この作業を博貴君は、必要最小限の機械を使って一人でやっている。


彼は40〜50年前の林業雑誌を入手して参考にすることが多いらしい。


チェーンソーがやっと出始めた時代だ。


現在では、大型トラックで現場に入り、大面積を一気に伐採して大型機械で運搬するというやり方が主流だが、彼らは家族経営で人力に頼る作業が多くなるため、かえって昔の技術の方が参考になるとのことだ。



朝子さんは、ブログの「炭焼き職人になるということ」において、「自分たちは備長炭の素晴らしさや炭焼きの楽しさを毎日感じて仕事をしているが、体力的にきつく、危険を伴い、また収入も多くはないため、たまに炭焼き職人になりたいという相談を受けることがあるが、素直に勧める気持ちにはなれない」という意味の文章を載せている。


そして、それでも炭焼きの後継者が一人でも多く現れてくれることを強く望んでいる。



彼らは、日本で文字通り「絶滅危惧種」となりつつある炭焼き業の伝統を守っていると同時に、失われつつある林業技術をまさに継承している、とも言えるだろう。



「奥井製炭所」で、ご夫婦の話をひと通り伺ったあと、我々と智子さん夫婦は高千穂方面に観光。



夜は智子さん親子が泊まる民宿に集合し、朝子さんが準備してくれたキムチ鍋で焼酎を傾ける。


ここで初めて知ったのだが、博貴君は大学時代、「日高山脈積雪期ノンデポ単独全山縦走」を最初に成し遂げた人だった。


日高山脈は、日勝峠から北海道の中央部を襟裳岬に向け、延々南北150kmにわたり縦断する山脈である。


急峻な尾根のアップダウンを繰り返し、しかも中央部はナイフリッジ(切れ落ちた稜線)が続く。


積雪期は風雪にさらされるなか、一人で黙々とラッセル(雪を踏みしめること)しなければ先に進めず、常に雪崩や滑落の危険と隣り合わせだ。


通常の冬山装備に加え、1ヶ月近くの食料を一人で全て背負うことになるが、食料は限界まで軽量化されるため、常に飢餓状態に置かれることになる。


私はこの壮挙を達成した本人を前にして興奮してしまい、思わず質問責めにしてしまったが、彼は「もう昔の話だから」と、何ということもないという様子で多くを語らなかった。



こんな経験を経た博貴君と、同じくワンゲルで自然の厳しさを知っている朝子さんにとって、炭焼きの仕事は重労働ではあっても、自然の中に身を置き、山の経験を存分に生かせる生き方なのだろう。



二人がこの地に移住してからの10年余りになる。


「ここの人たちは、何も出来ない赤ん坊が少しずつ物事を覚えるのを見るように、私たちのことを優しく見守ってきたのだと思う」と朝子さんは述懐する。


そして、「村の人は、とにかく優しい」という言葉を、何度も繰り返していた。


楽しく飲んで、昨日と同じ広場に宿泊する。(Y)