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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F・CHOPIN、ショパン、待ちに待ったピアニーノとプレリュード

2019.03.31 03:00

ヴァウデモーサの修道院の牢屋のような(ショパンが言った)独房でショパンは年越しでプレリュード集を完成させた。

1839年,年明け1月22日にショパンはフォンタナに報告した。

フォンタナとヴォルフとショパンの3人分のうち、手稿が一冊と、2冊分の手書きの写し、

全部で3部プレリュード集をすべて書き上げたショパンだった。ショパンの執念はまさにすさまじいもにであった。

ショパンの作品は極悪環境と最悪な病気状態の極限から射すわずかな光を求めたとこから生まれた。

約束通りの成果をみせたショパンは家族の身を守ることが出来た。

サンドはパルマに来る前に「ショパンが一番大切なものは両親であろう、そして、ショパンの心に住んでいる女は誰なのだ」をグシマーワから聞き出し、それをマルリアニ夫人に報告していた。ショパンが曲を独房で書き上げないとショパンが愛するワルシャワの人達がたいへんな目に遭わされるのである。

ショパンは必死に独房で、自分の持てる能力も魂も曲に注ぎ込んで書き上げた。

プレリュードが完成したショパンは安堵する暇もなく、直ぐにフォンタナにプレリュードの原稿をどうするかを指示した。

「出版社のプロブストに写しを渡すこと、プレイエルに手稿を渡すこと、

プロブストから原稿料を貰ったらレオに礼状を書く時間がないのでレオに借金を返しに行ってください。

プレイエルから原稿料1500フランを貰ったら、

家賃425フランを払って家主に丁寧な挨拶して契約続行する。」

これだけのことをフォンタナに頼んだ。

ショパンは、この時パリに帰るつもりでいて、パリの部屋をまた貸ししてお金を貰うようにしてほしいとフォンタナに頼んだ。

パルマでの過酷な環境で作曲を完成させたら、一刻も早く帰国して行うべきことをしようと考えていたショパンだった。

更に、原稿料のうち1000フランはノウグエという人物に送るようにフォンタナに指示し、ノウグエの住所をマッシンスキに聞いてほしいが、マッシンスキにはお金のことは話さないようにショパンは頼んだ。

マッシンスキは病気だとショパンは知っていたため、お金のことでマッシンスキに心労をかけたくない友達思いのショパンだった。

ロンドンの出版社のヴェッセルに手稿の計画書をフォンタナに送ったショパンだったが、

カミーユ・プレイエルからピアノを買うことになっていることや、カルクブレンナーとの事などを考えて、ショパンは≪プレリュード集≫のフランス版をプレイエルからの出版にすることに気持ちが傾いていたのであった。そのこともフォンタナに説明したショパンであった。

そして、ショパンは≪プレリュード集≫だけで一息つこうという考えは全くなく、ショパンの頭の中にはこれから書こうとする音楽の構想が既にたくさんあったのであった。

この後、1、2週間で≪バラード≫ ≪ポロネーズ≫ ≪スケルツォ≫も書き上げ、

プレリュード集のブロブストからの出版に関しては話をして決めたいと思っていたショパンであった。

計画どおりに事を進めたかったショパンだったが、パルマの郵便事情は最悪であり、

ヴァウデモーサの修道院の牢屋のような環境では、ショパンは自由に連絡を取ることが

不可能であることがショパンの思い通りの計画の進行を妨げていた。

ショパンは話し相手もいない独房で、自分の思いをフォンタナに懸命に書くしかなかった。

最初の手紙がどうなったのかわからなくなっていることも納得できなかったショパンだったが、ショパンはフォンタナに続けて書いた、

ショパンは暗闇の中にもどこかにユーモアーの精神を忘れたくなかった。

「僕は、島の独房でアラビアダンスをして、アフリカに近いこの島でその

黒い太陽を浴びているのさ。そこには地中海があるのだよ、フォンタナ、君からパリの大使

秘書官の僕の友人アルブレヒトにこの状況を話してなんとかパリに僕を返してくれるように

君からも頼んでくれないかな。

僕からも、アルブレヒトには手紙を書いて送るつもりだから。

パリの僕の部屋を又貸しして家具をグシマーワに預かってもらうことは、グシマーワだけが知っていればよいことなので誰にも話さないようしてくれ。(ショパンはねつ造のうわさ話にうんざりしていたからだ)

この状況を考えると僕は、1839年5月にパリに帰れると思うが、

パリに帰してもらえる許しが貰えるのは、もっと遅くになると思う。」

聡明なショパンはこの後の状況を予感した。

自分の手紙とプレリュード集は、くれぐれもフォンタナ自身のでプレイエルに手渡すように念押したショパンだった。

1839年1月15日ヴァルデモーサ修道院に到着した。

プレイエル社 ピアニーノ 製造番号6668 (1838年製造)

1838年11月ショパンはパリから送られてくるピアノを待っていた。

同年12月21日にマヨルカ島到着したピアノは、

高い関税を駈けられ税関で止められたためヴァルデモーサのショパンのもとに届いたのは、1839年1月中旬であった。

ショパンがマヨルカ島を出発したのは2月13日であった。

フランスへ帰る時このピアノは現地で売られた。

たった1ヵ月でこのピアノでプレリュードを完成させ、バラード2番やポロネーズ2曲、スケルツォ3番などの曲にも着手した。

ショパンは、1ヵ月で高度な作業をした。

ショパンの短い人生の1ヵ月の重要性がある。

独房での生活は、耐え難い生活を強いられショパンは病状悪化した。

マヴァルデモーサの自然環境は特殊な環境でショパンにとって、

プレイエルのピアニーノがどんなに重要であったかを物語っている。