タイタン ロックフェラー帝国を創った男(上・下)
皆さんは「ロックフェラー」という名前、御存じだと思います。(ロックフェラー家はアメリカの名だたる資産家一族の中でもひときわ輝く存在です。)日本だと、バブル期に三菱地所が購入して話題になったニューヨークの「ロックフェラーセンター」でなんとなく知っている、という方も多いと思います。(冬になると大きなクリスマスツリーをビルの前に設置してその前の特設リンクでニューヨーカーや観光客がスケートをするのがNYの風物詩になっていますね。)
この有名なロックフェラー家のいわゆる「祖」となる人物、ジョン・D・ロックフェラー氏(John Davison Rockefeller, Sr、以下、単に”ジョン・D”と表記。)の自伝が今回紹介する「タイタン」(著者、ロン・チャーナウ)です。
ジョン・D は、1839年7月、ニューヨーク州リッチフォードで生まれました。ジョン・D の家庭は父、ウィリアムが行商で不在が多く、彼はバプチスト派の母、イライザのもとで心身深く敬虔なクリスチャンに成長します。一家の長男であったジョン・D は家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして子供の頃から家計を助けました。父の不在なども乗り越え、真面目で行儀のよい青年に育ちます。議論もうまく、自分の考えを相手に伝えることも上手だった、と伝えられています。算術と経理方面に興味を持ち始めたジョン・D は「早く社会へ出て職を探し、家の家計を助けたい、」と考えるようになります。
1850年代後半、ペンシルバニア州で石油が大量に採掘されます。当時、照明には鯨油が使われていたのですが、社会で照明需要が増しクジラの捕獲量が追いつかなくなり、鯨油の価格が急騰していました。ペンシルバニアで採掘された石油の成分を分析した人々は、鯨油の代わりにこの石油を精製すれば照明用として申し分なく使用できることを知ります。この頃、ジョン・D は18歳の時に友人と創業した農作物取引会社「クラーク・アンド・ロックフェラー」をクリーブランドで経営していましたが、ある友人から石油精製のビジネスを持ちかけられ、運転資金として4千ドルをこの石油精製会社「アンドルーズ・クラーク・アンド・カンパニー」に投資します。これがジョン・Dと石油事業の最初の結びつきになります。そして1866年には弟、ウィリアム・ロックフェラーがクリーブランドに別の製油所を建て、ジョン・D とパートナーシップを結びます。(これが後年、アメリカの石油精製と販売を独占する「スタンダード・オイル」となるのです。)当時、クリーブランドは原油の大部分を産出していたペンシルバニア州の近隣の都市という地理的な利点もあり、アメリカの石油精製拠点の一つになっていました。1870年にジョン・D は「スタンダード・オイル・オブ・オハイオ」を結成し、オハイオ州で最も高収益な製油所にします。そして、このスタンダード・オイルは、アメリカでも指折りのガソリン、ケロシン(灯油)の生産量を誇るまでに成長します。(この辺から、ジョン・D は 後年、マスコミから「非情」「冷酷」と批判されるような強気の経営を行うようになります。)
たとえば、当時の成長事業だった鉄道事業における事業者(ペンシルバニア鉄道他)は鉄道運賃を安定的に保つためカルテル結成を進め、スタンダード・オイルなどと共謀して「サウス・インプルーブメント・カンパニー」を設立するのですが、これは、当時大量の石油輸送で大口の取引先であったスタンダード・オイルが、精製した石油をニューヨークなどの大都市へ運ぶのに強気で格安な鉄道料金体系を要求してきたので、(鉄道会社は)一般には公表されない独自の格安な運賃体系で契約を結んだことが背景にありました。この他、ジョン・D は、「競合する製油所の買収」「効率的経営の推進」「石油輸送の運賃値引き要求」「ライバルの切り崩し・買収」「秘密取引」等。。いろいろな経営画策を行い、やがて、同業のライバルたちともパートナー協定を取り結び「スタンダード・オイル・トラスト」を結成するに至るのです。
一方、19世紀後半のアメリカにおいては、スタンダード・オイルのような独占資本の形成が進むと、自由競争で発展した大企業放任が、むしろ逆に自由競争を阻害していると見なされるようになりました。そのため、連邦議会は反トラスト法を制定し、独占資本の活動を規制することに乗り出します。そして、1890年には反トラスト法である「シャーマン法」が成立します。また、1901年に大統領に就任したセオドラ・ルーズベルトも、スタンダード・オイルを社会の自由競争を阻害しているとして、敵視するようになります。そして、1911年、ついに、アメリカ合衆国最高裁判所は「スタンダード・オイルはシャーマン法に違反している。」との判決し、スタンダード・オイルの解体命令を下すのです。そして、その結果、スタンダード・オイルは37の新会社に分割されます。会社が解体された時点でジョン・D は石油産業界での影響力を失いましたが、スタンダード・オイルの25%以上の株式を所有していたので、(株主は分離後の各社の株式を元々の株式の割合の分だけ得ることになり、)ジョン・D は、その後10年間で各社の株式から多大な利益を得ることになったのです。
そのため(当然ですが)、ジョン・D の蓄えた資産の大きさも尋常ではありませんでした。「ジョン・Dが亡くなった時のニューヨークタイムズの死亡記事には『ロックフェラー氏が引退した時点で、スタンダード・オイルや他の投資から蓄積した資産は15億ドルと推定されていた。これは個人が自身の努力で蓄積したものとしては史上最大の富であった。』とある。1937年に亡くなった時点で、当時のアメリカのGDPが、920億ドルだったのに対し、ロックフェラーが家族への信託基金として残した遺産は14億ドルと見積もられた。計算方法によっては、ロックフェラーは近代史上最も裕福な人物とされる。アメリカのGDPへの割合で見た場合、ビル・ゲイツもサム・ウォルトンも遠く及ばない。」(Wikipediaより)(このようなジョン・D ですが、製油所設立当時は、(ペンシルバニアの地下にどれくらいの石油の埋蔵量があるか全くわからず)「いつ石油が枯渇するのか??」心配したり、また、石油の産出量が安定せず、従って石油の相場もまったく安定しなかったこともたびたにあり、眠れない日々も随分があったようです。)
。。。とここまでは、ジョン・D の事業家としての成功を記述しましたが、ジョン・D が真に素晴らしいのは「慈善活動」においても自らの事業と同様に尽力し、人類の進歩に貢献したことです。
例えば、教育関連では、ジョン・D は奴隷制度廃止論者でもあったことから1884年、アトランタにアメリカ初のアフリカ系アメリカ人女性を対象とする大学(スペルマン大学)創設の資金を提供し、また、いったんは閉鎖されたシカゴ大学に約8,000万ドルの寄付金を提供し、学長、ウィリアム・レイニー・ハーパーの下で1890年に再出発させたのです。また、医学研究においても多大な貢献をしました。1901年にロックフェラー医学研究所を創設し、同研究所は1965年にロックフェラー大学となり、医学以外も扱うようになりました。(ちなみに、2018年時点、ロックフェラー大学の関係者からは26人のノーベル賞受賞者が輩出されています。Wikipediaより)また、1909年には、ロックフェラー衛生委員会を創設、当時アメリカ南部の農村地帯で問題となっていた鉤虫症(こうちゅうしょう)の根絶にも貢献しました。さらに、1913年には2億5,000万ドルを拠出し、「ロックフェラー財団」を創設。公衆衛生、医学教育、芸術の分野を寄付対象としました。同財団は、ジョンズ・ホプキンス大学にアメリカ初の公衆衛生大学院を創設する資金も提供したのでした。「(ジョン・Dが)慈善事業の分野で成し遂げた革新は、ビジネスの世界で打ち出した数々の新機軸に劣らぬほど大きなものだった。ロックフェラーがこの分野に足を踏み入れるまでは、富裕な後援者は、お気入りの機関(交響楽団、美術館、学校など)を助成したり、自分の名前をつけて度量の大きいところを示した建物(病院、孤児院など)を寄贈したりすることが多かった。だが、ロックフェラーの慈善事業は、知識の創造に向けられた。それは、ロックフェラーの影をあまり感じさせなかったが、影響力ははるかに大きかった。」(下巻 P329より)
うーん。。非情なまでの冷徹な事業家であった反面、敬虔なバプチスト信者で、人類の進歩に貢献した稀に見る慈善家という、一見相反する精神が一体となっているところが正にアメリカの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(M・ウェーバー著)を象徴している人物なのかもしれませんね。(実際、ジョン・D はプロテスタント派で、ロン・チャーナウ氏も同書を引き合いにだしてる箇所があります。)
最後になりますが、当時の石油産業の成り立ちも含め、ジョン・D の生まれ、生い立ち、(結婚前の)家族、就職、事業立ち上げ、家庭、慈善事業、悪評、反トラスト法敗訴、晩年の生活、、どの章も手を抜かず、細部まで当時の資料に当たり調査し、丁寧に描き切った本書著者、ロン・チャーナウ氏の自伝作家としての力量は圧倒的です。上巻、下巻二段組で合計約1,200ページありますが、読みやすく久しぶりに素晴らしい物語を読み終わったような充実感を感じました。(実はここでは紹介しきれなかった実父のエピソード等、興味深いエピソードがたくさんあります。興味ある方は是非ご一読下さい。)尚、本書は残念ながら絶版で、現在リアル書店にはありませんが、アマゾンなどで中古本として入手可能です。(出版当時はベストセラーになりました。)