愛は風景
静かなに本を読んでは舐めるようにコーヒーを啜る人
おしゃべりに華を咲かせては毎度二杯目のコーヒーに口をつける人
席についたかと思えばコーヒーを一杯
喉を鳴らすように飲み干してはそそくさと立ち去る人
いろんな人のいろんなコーヒーがあるものです
僕が初めて行った喫茶店は
大曲の商店街にあるミルクハウスと言う喫茶店で
僕が通っていた中学では
好きな女の子とデートでミルクハウスに行く事が
ある種のステータスのようなものでした
その話については長くなるのでまた今度にしますが
ミルクハウスにはいつもカウンター席に常連風のおじさんが座っていて
おじさんはいつも黙って新聞を読みながらコーヒーを飲んでいました
この「いつも」って言うのは結構重要で
例えば朝一番で行っても
ランチどきに行っても
はたまた夕方に行っても
どうしたものかいつ行っても何曜日に行っても
おじさんはいつもそこでコーヒーを飲んでいたのでした
もう何年も、もしかしたら何十年も通っている常連さんなのでしょうか
切り盛りしている名物ママとペチャクチャとおしゃべりをする訳でもなく
いつも静かにコーヒーを飲んでいて
それが僕にはあの店の「風景」に思えて仕方ありませんでした
「人生の数だけコーヒーがある、貴方にもきっとある」
そんな言葉を信じているからなのでしょうか?
話題の店が出来ても、評判の良い店の話をいくら聞いても
僕はどうしてか「自分の店」にしか興味が持てず
いろいろ勉強しすぎては頭でっかちになっては
自分の大切にしているところがブレる気もして
自分で店を始めてからの僕は
あんなに好きだったはずの喫茶店巡りもカフェ巡りも
ピタリと辞めてしまっていました
僕は「君と僕の喫茶店の風景」だけを見ていたかったからです
何年か前に急にノスタルジックに浸りたくて
僕はミルクハウスのドアを開けました
二十数年前と変わらず「その席」には
少し年老いた「あの常連さん」が座っていて
あの日と同じように静かにコーヒーを飲んでいました
好きって感覚はいつも残酷で
フッとした瞬間に変わったり少しづつ薄れていってしまうものだけど
いつもの店のいつものコーヒー
ずっと変わらず来てくれる人を眺めていると
それこそ本当に「喫茶店らしいな」と
「愛は風景」って良い言葉ですね
そんな風景を僕らも変わらず眺めていられたらなと
何を「喫茶店らしさ」と呼ぶのか
何が「カフェ」とそんなに違うのか
僕があの頃好きで通っていた「かたつむり」って喫茶店の入り口に
こんな言葉が書かれていたことを僕は今でも覚えています
「どんなに時代は変わってもコーヒーだけは変わりません」