Ride in Setouchi & San-in Day 18 (2/4/19) Koriyama Castle Ruins 吉田郡山城跡
Koriyama Castle Ruins 吉田郡山城跡
今までこの広島に入ってから、小早川隆景の宮原城、高山城、新高山城、毛利輝元の広島城を見てきた。毛利/小早川/吉川の所縁の地を見ておきたくて、今日は少し長距離にはなるが、毛利元就の居城の吉田郡山城に行ってみる。
Koriyama Castle Ruins 吉田郡山城跡
ここで登場する毛利氏は鎌倉時代には越後国刈羽郡を領しており、承久の乱の恩賞として貰い受けた安芸吉田荘を一族の分家に与える。当初は吉田荘を遠隔で管理していたが、南北朝時代には吉田荘に直接赴き、吉田郡山城を居城にする。ここに安芸の毛利氏が誕生する。毛利元就が吉田郡山城を拡張するまでは比較的小さな城であった。現地では旧本城として紹介されている。
毛利氏はこの吉田荘の小さな一豪族で大内氏の家臣であった。それが元就一代で、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く戦国大名に成長した。相当に出来る武将であった。簡単な毛利氏と郡山城の略歴がパンフレットにあった。
略歴にあるように元就は元々は嫡男では無かったので、この郡山城ではなく、近くの猿掛城を居城にしていたが、兄の第10代興元の嫡男の幸松丸が9才で死去したため、家督を継ぐため郡山城に移る。元就26才の時、若くして城主となった。
吉田は現在の安芸高田市にあり広島からは46キロに所にある。広島からは太田川を登り、山間部に入り標高268mの峠を越えて安芸高田に入る。
中間地点で休憩していた時に若い男性が声をかけてきた。今日はどこまでの質問から会話に入った。この一年の自転車旅で感じた事や受けた感動などを話す。真剣に聞いてくれた。山登りをしていると言って、彼も山登りの感動を話してくれた。別れる時にいい話が聞けてありがとう。誰でも出来る事ではないから応援させてくださいと言って、エナジードリンクを頂いた。一期一会だが、気持ちが通じた気がした。これで今日は幸せいっぱいになれる。
郡山城の登山口に歴史民俗博物館があり登山ルートを訪ねる。1時間半のコース。城跡見学の後に博物館を見る予定。
歴史館の近くの館跡に元就の銅像 (あまりセンスがいいと思えない)と三矢の碑があった。
この三矢の教えは後からの創作ではあるが、その元となった元就から毛利隆元、小早川隆景、吉川元春の三人の息子に宛てた書簡は一読の価値がある。戦国時代真っ只中、尼子氏との抗争、大内氏の衰退や、裏切り、謀反、小早川/吉川との対立で、毛利家の将来を託す息子達に心得を説いている。毛利家の指針とも言える。現代語訳があるが、指針だけではなく、その中に父として息子達への愛情、期待、心配などが読み取れる。三人の息子達はこれを守り抜いた。だからこそ、関ヶ原での敗戦後減封されたが、毛利家が続き、明治維新の原動力になって行く。この巻末に現代語訳を載せておく。
大河ドラマで使われた甲冑もある。郡山公園に大河ドラマの説明があった。やはり選ばれる様に運動をしたと書いてある。今まで訪れた史跡で大河ドラマへの運動しているポスターなど多く見たが、やはり運動が必要なのか? ただ、大河ドラマの放映直後は多くに人で賑わっているのだが、しばらくすると閑古鳥になっている。大河ドラマ毛利元就は大分前に放映されたから、もう賑わいはない。今日も多分城跡に登ったのは自分一人かも知れない。
この山が郡山で頂上に本丸がある。博物館が標高200mで本丸が368m、168mを登る事になる。コースに沿って (ところどころ、道を外れるながら) 一周して下山した時は3時間かかっていた。いつものことなのだが、普通に人の2倍時間をかけていた。コースでは誰にも会わなかった。11寺半から登山開始したので多分、登山者は午後は自分一人でだろう。
細い山道を登る。
土塁、竪堀の跡らしきものも...
城跡から麓を眺める。
この郡山城では一度だけ大きな合戦が行われた。元就が43才の1540年に尼子勢が攻め入ってきた。大内氏の援軍を得て、尼子勢を敗走させた。ふたつの山の間のひらけた場所に尼子の3万の大群が陣を張り、5ヶ月に及ぶ合戦だった。
毛利元就は78才で亡くなるまでここに住んでいた。孫の輝元が広島城に居城を移した後、廃城となった。450年ぐらい前なので、遺構も石垣、土塁、空堀らしきものしか無いのだが、曲輪跡などには丁寧な説明板が立っている。整備はしっかりしている印象。西日本では最大級の山城と書いてあった。
近くにある猿掛城や16km先の北広島町にある吉川元春所縁の地にも行ってみたく、安芸高田での宿を探したがここには宿泊所がなく、更に北東30kmの三次(みよし)に見つかった。広島の北までは40kmなので1時間も変わらない、宿の値段は半分以下なので、広島に戻ることにした。走行距離は90kmを超えた。坂道も多かったので、本当に疲れた。宿で右太腿がつる。痛みが暫く続く。明日は更に遠い北広島に行こうと思っていたので、どうなるか不安。最近時々足がつることがしばしばある。疲労が溜まっているのか?
案内板のある遺構は以下に載せておく。後で見た時にこの訪問を思い出すだろうから。写真で撮るとどれも同じにしか見えないのだが.... 肉眼で見るとそれぞれはそれなりに特徴もあるのだが.... (カメラは人の目には敵わないのだ)
三子教訓状
第一条
何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。
第二条
元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。
第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。
第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。
第五条
この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。
第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。
第七条
亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。
第八条
五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。
第九条
今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。
第十条
私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。
第十一条
私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。
第十二条
十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。
第十三条
私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。折敷畑の合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。
第十四条
これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたいめでたい。