「生きるとは」11 ヘルマン・ヘッセ『デミアン』⑤
シンクレールは音楽家ピストーリウスと出会い神でも悪魔でもある神「アプラクサス」について聞かされる。その重要性は、シンクレールに自分自身への道を一歩進めたことにある。「アプラクサス」は明るい世界と暗い世界を内蔵しているので、ひとが恐れたり、禁じられていると思う内なる魂が欲することを安易に抑圧たりし、抹殺したりしない。ピストーリウスは言う。
「きみの魂の中の声が語りはじめたら、それにまかせるがいい。それが先生やおとうさんや、いずれかの神の心にかなうか、お気に召すかなんてことは問わないことだ。そんなことをしても、自分を害するだけだ。」
もちろん、思いついたことをなんでも好き勝手にやっていいと言っているわけではない。
「きみの心に浮かんだことをなんでもむぞうさにやれと言ったわけではない。そうじゃないが、それぞれによい意味のある思いつきを追い払ったり、道徳的にああだこうだと難癖をつけることによって、だいなしにしてはならない。」
しかし、やがてシンクレールはピストーリウスからも離れる。ピストーリウスは「これまでに地球が見たことのある形に束縛されていた」からだ。シンクレールは「新しい神々を欲するのは誤りだった。世界になんらかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。」ということを悟る。
「目ざめた人間にとっては、自分自身を探し、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介さず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。・・・各人にとって本当の転職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。・・・肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見出し、それを完全にくじけずに生き抜くことだった。」
それは単に喜びをもたらすだけではなかった。「不確実なものへ向かって、おそらくは新しいものへ向かって、おそらくは無へ向かって投げだされたもの」であり、孤独を生きなければならないことも突きつけた。
「私はすでにさんざん孤独を味わってきた。いま、私はもっと深い孤独のあることを、そしてそれはのがれられないものであることを、ほのかに感じた。」
しかし、このような孤独の道を突き進む先には新たな世界が開ける。
「私は周囲の世界が変化し、深い関係をもっておごそかに待機しているのを見、かつ感じた。かすかに流れる秋雨も美しく静かで、厳粛に朗らかな音楽に満ちて祝日のようだった。初めて外部の世界が私の内部の世界と清く諧音を発した。—――こうして魂の祝日は来た。生きがいができた。どの家も、どの飾り窓も、路地のどの顔も私を乱さなかった。すべてはあらねばならぬとおりであって、日常ありふれたものの空虚な顔をしておらず、すべては待機している自然で、運命にたいしうやうやしく用意を終えていた。小さい少年のころクリスマスとか復活祭とかの大祭日の朝、私には世界がそんなふうに見えたのだった。この世界がこんなに美しくありうるとは知らなかった。」
そして長い間孤独だったシンクレールは、「完全な孤立を味わった人々の間にだけ可能な仲間」を知る。そこには多種多様な探究者がいた。しかし「たがいにほかの秘めた生の夢に尊敬を払い合う以外に、なんら精神的に共通なものを持っていなかった。・・・私たちがただ一つ義務として運命として感じていることは、私たちのめいめいがまったく自分自身になり、自分の中に働いている自然の芽生えを完全に正しく遇し、その心にかなうように生き、不確実な未来がもたらすいっさいのものにたいして準備しておくようにすることだった。」
ヘッセが『デミアン』で提示した子どもから大人への生き方モデルは、西欧的、プロテスタント的、ドイツ人的要素が色濃いように感じる。そこから学ぶものは多いが、日本人、現代人にあったモデルを考える必要があるだろう。
(ヘルマン・ヘッセ)
(『デミアン』の中の言葉とイメージ)
「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。」