report /// vol.3 湊川編:4.新長田〜湊川河口
二つの神戸の壁
電車の走る音が聞こえてきたので、ようやくJR神戸線 新長田駅の近くまでやってきたのだろう。
震災によって、駅周辺のエリアは家屋の倒壊や火災が起こり、広範囲にわたって瓦礫の山となった。その後、区画整理がなされ街の姿は大きく変わった。今歩いている道も、ゆとりのある道幅や人口の小川などから防火対策の一環で作られたものだということが分かる。ふと視線を上げると、地震に耐えたのだろう古い低層階ビルにいくつかの看板が出ている。ケミカルシューズの下請け工場やコリアン系のお店が入っているようだ。
JRの高架下に差し掛かった時、やたらと味のある壁が目に留まる。壁に、おびただしい数の貼紙の跡があるのだ。貼紙には、例えば二週間前に訪れた際のものには、こんな文言が書かれていた。
「急募 製品仕上げ 2名 貼り工さん 2名 090-####-#### 須磨区◯◯町### シューズ◯◯」
ケミカルシューズ関連の求人募集の壁。この日は、破れてしまった貼紙だけだったが、来る度に変化があるということは、この壁がまだプラットホームとしてちゃんと生きているのだろう。今では、求人情報はほとんどがネット検索か情報誌になるけれど、この求人募集の壁には、ここに足を運ぶことでアクセスできる情報があるのだ。逆に言えば、ここでしか情報を得れない人たちもいるだろう。薄暗い高架下の壁の上には、防犯用の照明が昼も夜も光っていた。
高架を抜けるてJR線の南側エリアに入った。神戸市は震災以前から新長田を神戸の副都心にしようとする計画を立てていた。戦争の被災を免れた木造家屋や商店、工場がひしめき合っていたところを、クリアランスしようとするものだ。復興計画は、そうした元々の都市計画をなぞるようにして行われた。「アスタ」と名の付いた建物が新長田にはたくさんあるが、それらは震災後の復興都市計画で作られたマンションや商業施設だ。
ちなみに、震災前から神戸市が計画していた都市計画は、新長田駅南地区の他に灘区の六甲道駅南地区周辺もその対象だった。六甲道駅南地区も震災を契機として復興計画が遂行されたところで、現在はマンションなどの住居エリアや商業施設などが建ち並んでいる。(奇しくも「おもいしワークショップvol.1」では灘のこの周辺を歩いた。)
さて、そうこうしながら歩いていると、神戸コリア教育文化センターに併設しているカフェナドゥリの前までやってきた。ナドゥリには在日コリアンと長田の歴史にまつわる資料があるので、暫し立ち寄らせていただいた。時間がなかったのでゆっくりできないかったのが残念だが、このカフェでは韓国のお茶やお菓子、ご飯を味わうことができる。ナドゥリのあるビルも震災復興の一環で建った建物だ。通りに面した部分は商用スペースとしていくつかの店が入っている。ここの2階には神戸奄美会館が入っている。
商用スペースの奥が住居スペース(マンション)になっている。マンションへ方へ通じる細い道の片側に「神戸の壁」のモニュメントが建っている。昭和初期、このあたりに公設市場があったのだが、その時に作られた市場の防火壁が、神戸大空襲そして阪神・淡路大震災に耐えて残った。この防火壁を、復興の象徴として「神戸の壁」の一部がモニュメントが設置されている。ちなみに、「神戸の壁」は淡路島の北淡震災記念公園内に移設され、現在はそこに建っている。ここにあるのは、壁というより正確には崩落した壁の一部だ。新長田のアスタの地下道には、横たわった状態の神戸の壁の一部がある。
ここで、震災当時の長田の街を描いた小田実さんの小説『深い音』から、「瓦礫の墓」という箇所を皆で順番に朗読した。あと数日で24年目の1月17日を迎えるんだね、と誰かがぽつりと言った。
その後も、どんどん歩きます。
見えないけれども繋がっている
さて、再び湊川に沿って歩く。神戸の街を東西に走り抜ける国道2号線を渡る。頭上では阪神高速3号線と31号線が交叉している。湊川ジャンクションだ。
対岸の真野地区へ行こうと、湊川に架かる小さな橋を渡った。歩行者用のとても細い橋だ。川がエリアとエリアの境界線になるならば、橋が架かるポイントは人の必然から定められたものなのだろう。渡った先には二つの学校があるので、この細い橋は通学路から逸れた近道のような気配がどことなくする。
真野地区は、以前は産業ゴムや合成樹脂の工場、靴工場が密集していた地域だが、現在はほとんどが住宅地になっている。そこに真野小学校と西神戸朝鮮初等学校という二つの小学校が斜交いに立っている。稲津さんは、以前、西神戸朝鮮初等学校にフィールドワークで訪れた際、ここの土地の地盤沈下により、校舎の地下には常に地下水が漏れ続けていることをたまたま知る。校長先生曰く、地下水は湊川の水位と連動しているらしい。番町地区で私たちは、地形の高低差ゆえにそこがそこが水害の危機に晒されることを、湊川を通して目の当たりにした。ここでは、地下水という見えない水脈によって危機に晒されている。その危機を回避したり、自由に動くこともできない。今回の街歩きを通して、見えるものと見えないものを繋ぐ感覚や想像力にアクセスしたいと思っていた。会下山で、私たちは街に向かって声になるかならないかの息を吐いた。その場を動かずにただ立ち尽くしたまま吐いたあの息のように、声にならなくともどこかに繋がっている。
湊川河口の石のたまり場
今度は六間道商店街の方へ行くために、また橋を渡る。橋の欄干越しに、川の水面に視線をやると、流れは殆どなく静止しているかのように見えた。もう海はすぐそこだ。川の水と海の水はどのように混じり合っているのだろう。
17時30分、陽が落ちて急に辺りが暗くなってきた頃、ついに湊川河口に着いた。堤防の先に灯台が見える。先ほどまで下町感があったが、気づけば工業地帯に入っていた。
河口の西側に長田港があって、そこには駒ケ林という古くからある漁村集落がある。昔は左義長の祭りなどが盛んに行われていたそうだ。そこに、大小数多のお地蔵さんたちがひっそりと佇む小屋がある。どのお地蔵さんにも、赤い前掛けが丁寧に掛けられ、湯呑みにはお茶が淹れられている。こうしてお地蔵さんを見守る誰かがいるのだから、ここは特別な場所なのだろう。「おいしさま」と呼びたくなる。(ちなみに、お地蔵さんの数が増え続けているとかいう話も…)
由来が書かれた札は劣化して読めなくなっていたので、このお地蔵さんたちがどこからやってきて、なぜここに辿り着いたのかは謎だ。海流にのって流れ着いた漂流物のように、お地蔵さんたちはそれから先はどこにも行けずに留まりつづけているのかもしれない。この小屋の中の好きなところに、今日の道行を共にした自分の石を、置いてみた。
最終地点の「おいしさま」で、最後に詩の朗読をして、長い道行き締めくくることにした。安水稔和さんの詩集『地名抄』に掲載されていた「神戸 三篇」を朗読した。三つの短編詩は、それぞれ「三宮」は阪神大水害(1938年7月5日)、「須磨」は神戸大空襲(1945年6月5日)、「長田」は阪神・淡路大震災(1995年1月17日)を扱っている。この詩人はおそらく雪見御所で出会ったおじさんと同世代であろう。三つの惨禍を平易な言葉で結晶化させた詩は、この長い道行きの最後にふさわしいもののように感じた。
解散、そして
「おいしさま」に置いた自分の石を、再び手にとって、今回のワークショップは終了した。最後に、今回のルートを手書きした地図を皆に配布した。改めて今日歩いた道のりを地図で追う。初めて歩く土地では、近視的に様々なものを見ていて、自分が今どこにいるのか分からなくなることがある。ナビゲートのもとで歩いたならば、なおさらそうだったかと思う。地図をみて鳥瞰すると、街と身体がリンクしはじめることもあるかと思う。まじまじと地図を眺めた。そして、解散。
駅に向かって皆で歩くうち、ぽつぽつと人がいなくなる。最終的に残った人たちと一緒にアスタの地下道に横たえられた「神戸の壁」に行った。お酒の空き缶が放置されていて、どこか取り残されたような空気が漂っている気がする。ここもまたある種のたまり場ではあるが、「おいしさま」とは趣が異なるようだった。地下道を通り過ぎる人たち(移動する人たち)の「流れ」の端、街の洞穴のようなこの場所にある神戸の壁に腰を下ろし、皆でしばし体を休めた。(現在、この場所は「リニューアル」され、街の歴史や震災の展示空間になった。神戸の壁もベンチではなく展示物になっている。)
その後は、カフェ ナドゥリへ戻り、各々食べたり飲んだりしながら休憩した。8時間も歩き続けていた。腰を据えてみたところで、今日一日を「振り返る」にも、途方もない感じがあった。感想をぽつぽつと言い合った。
text : yuki furukawa
photo : yasuhiko ishii, daisuke tomita
おもいしワークショップvol.3 湊川編
2019年1月12日(土)
企画・ナビゲート:古川友紀
リサーチ協力:稲津秀樹・富田大介・山﨑達哉