粗末なわたし(とあなた)
気づけば約半年(!)ブログを更新していませんでした。
前回のブログもこんな導入だったように思います。というか、そうでした(読みました)。
その半年間でわたしは9人の男性に告白されたり自分のユニットを旗揚げしたり大学に復学したり、したのですが、なんだか最近息切れのような感覚に襲われることが多いのでブログを書いてみようと思います。
台本が書けないとき、別のものに文字を書くとなんだか書けるようになる気します。
あとは、この息切れの原因が頭や心の動揺だと推測しているので、整えたい。ので、久しぶりに記事を書きます。
治療のための言語化で、やっぱりわたしのための文章です。
この言い訳も毎回書いている気がします。というか、書いていました(読みました)。そして、「そんなことより早く台本書けや」とお思いになるだろう一定数の関係者の皆さま、ごめんなさい。
いやじゃない方だけ、よければお付き合いください。
『粗末な人たち』
『粗末な人たち』というお芝居をやりました。
これはわたしのユニット「モミジノハナ」の旗揚げ公演で、2019年2月に上演したものです。舞台はガールズバーで、そこで働く5人の女の子たちと周りの3人の男の子の話です。
粗末
「粗末」という言葉に興味がありました。
「粗末」なものにも、ことにも、人にも、「粗末でない」それらにも興味がありました。
ただ、わたしにはこの言葉が指す状態も、状況も、この言葉自体も、よくわかりませんでした。正直、今でもよくわかりません。
理想的でないこと?一般的でないこと?効率的でないこと?生産的でないこと?推奨されないこと?許容されないもの?あなたが納得しないこと?あなたが傷つくこと?あなたが気持ちよくなれないこと?
色々考えて、word上でも稽古場でも舞台上でも「粗末」を状態にして、状況にしても、わたしには未だに「粗末」を自分のものにすることができていません。
人たち
このお芝居に出てくる人たちはみんな、水商売と何かしら関係のある人たちでした。
従業員、客、それで食べてる人、それで食べさせてもらってる人、仕事だと割り切れる人、割り切れない人、誇りを持ってる人、偏見のある人、それしかできない人、他にもやりたいことがある人、たち。
そして、つながりたい人たちでした。
お金でしか、お店でしか、血でしか、頭の中でしか、紙の上でしか、つながれない。
本当はもっと、理想的に、一般的に、……、気持ちよく。
誰かと、あなたと、つながりたいのに、つながれない。
そんな状態や状況や、感情や欲求が「粗末」なのだろうかと聞かれれば、わたしは答えに詰まってしまいます。わたしがまだ十分に解釈できていなかったとしても「粗末」という言葉には少なからずネガティブな意味があるだろうし、人によっては全否定と捉えられかねないし、わたしは否定したくないし、ユニットコンセプトは「否定しない」だし。
ただ、少なくとも作品にしたとき、わたしには彼らはとても「粗末な人たち」に見えたのです。
つながりたい
ブログタイトルは「粗末なわたし(とあなた)」ですが、この記事は振り返りのためでなくあくまで治療のためのものです(と言いつつかなり振り返ってしまった。どうしよう)。
わたしは、つながりたい人です。
だから演劇をやっています。手段としても、目的としても、わたしにとって現状最も適しているだろうと勝手に思い込んで、やっています。
でも、最近それすらわからなくなってしまいました。
ずっと息が苦しい。頭がクリアにならない。心が鮮やかでない。わからないことが多くて、わかりたいという気持ちを持つことも保つことも、なんだか難しく、たまらなく苦しい。
なんでだろうと考えたとき、わたしはつながりたい人たちを書いてしまったことによって、わたしといろんなことがつながらなくなってしまったからなのではないかと思いました。
つながらない
わたしとあなたの関係は、作品にしたとき、とても粗末になってしまったよ。
(正しく言えば「わたしから見たわたしとあなたの関係」なんだけど。そして、もちろんエピソードは盛っているし、舞台や場面や設定はそのままではないし、半年前気づいた通りあなたのことは全然わかれていないし書けていないと思うんだけど。)
でもわたしは紛れもなくわたしのことを書いていると思っているから、書き終わって、作り終わって、発表し終わったものを見て、「ああ やっぱり粗末だった(なのだ)なあ」と思うことには、苦しさみたいなものがあって。
上演して、幕が下がって、客電がついて、「終わることに救いがある」って1年前のわたしは言ってたけど、本当にそうなんだろうか。「それを共有することがわたしにとって救いである」って、本当にわたしは救われたんだろうか。
だって、終わってないじゃない。
そんなの、わかった気になって、処理できた気になって、救われた気になってるだけなんじゃないか。
だって、終わってないんだから。
あの子とアイツの関係が75分の間で終わったとしても、わたしとあなたの関係、終わってないんだもん。終わらないじゃない。
終われないじゃない。
つながらない。
わたしが昔考えていたことと今のわたしが、つながらない。
舞台上に乗ったはずのわたしと今のわたしが、つながらない。
つながれない
つながれなかった人たちは、わたしとあなたではない。少なくとも絶対にあなたではないから、それは絶対に「わたしとあなた」ではない。
そして「わたしそのもの」ではない。けど、絶対に「わたしの要素を持ったもの」ではあって。なぜならわたしが書いたからで、わたしはわたしのことしか書けないからで。
でも、それでも、わたし(から見たわたしとあなたの関係)は、作品にしたとき、とても粗末だったんだよ。
それを目の当たりにして、というか作り上げておいて、勝手に終わらせておいて、今更救われた気になって、「さて、次はわたし(から見たわたしとあなたの関係)を」って、なれないよ。だって一回終わってるんだから。つなげようとして、つなげられなくて、つながりたくて、つながれなくて、そして終わらせてしまったんだよ。
つながれないなあ。
つながれないよなあ。
今更、尚更、つながれない。
そして、つながれてない。
現に、わたしとあなたはつながれてない。
だって、全部わたしが勝手に一人でやってるんだから。
ここまでに、やっぱりあなたの気持ちも、言葉も、ひとつもない。それがなにより一番わたしとあなたがつながれていないことを実感させ、証明している。
つながりたいからやっているはずが、結局つながらないまま、つながれないまま、わたしとあなたは今もう4月になってしまった。
最後に
そしてこの記事も、こんなに不安定で、あやふやで、何の結論も出せないまま、勝手に終わらせます。
本当は「つながらない」以降の文章はもっともっと整理できたものにしたかったんですが、これが限界でした。
考察と呼べるほど大層な記事が今まで書けていたかというのは疑問ではあるけれど、それでもここまでとりとめのない文章は初めてな気がします。いくらわたしのための文章だといえ、心から公開することを躊躇う出来です。とりあえずわたしは今たまらなく謝りたいような気持です。ごめんなさい。
この記事も、結局はわたしのためで、わたしとあなたをつなげることはできないけど、終わらせなきゃいけないんだよなあ。そうだよなあ。