日本柔道と竹内流 三徳抄 Judo and Takenouchi ryu santokusho 31.4.7
世界の柔道として発展を続けている日本の柔道は、明治初年 起倒流柔術の達人であった嘉納治五郎先生により、全国諸流の長所を取り入れ講道館柔道が創始された。
Japan's judo, which continues to develop as the world's judo, was created by Kodokan Judo, incorporating the strengths of national 11 Jujitsu ryu, by Professor Jigoro Kano, who was a master of Kitou ryu jujutsu at the beginning of the Meiji era.
オリンピック競技であるスポーツとしての柔道であるため、当て身や蹴り技、危険な関節技は除かれ、勝敗の決しやすい立ち技が多く採用された。
Because it is judo as a sport in the Olympic Games, Punching, kicking and dangerous Kansetsu-waza have been eliminated, and a number of easy-to-use winning techniques have been adopted.
「日本柔道史」丸山三造氏著によれば、『日本武徳会柔道乱取制定委員会』が、明治三十八年(1905)嘉納治五郎委員長外委員二十二名で開催された、この委員会は早朝から夜遅くまで、しかも七日間連日を要し、全国に名高い柔術家が顔を揃え、自流の型の採用を主張し大議論となったと述べている。当時の顔ぶれは(下記参照、中略)
出展 竹内流の三徳抄
二十二名中、竹内流とその分流を合わせれば三分の一を越える八名になり、如何に竹内流が日本柔術における重要な地位にあったかが伺える。
八名とは
竹内流から竹野鹿太郎ほか3名
竹内三統流から矢野広次、
不遷流から田辺又右衛門、
双水執流から青柳喜平、
三浦流から稲津政光。
丸山氏は当時の模様を述べて重要な記述をされている。『この面々によって、各流派の長所、真髄を採り入れて制定された』と延べ、「柔道固技」「投技」「柔の形」が決定した。
竹内流の代表が、どんな主張をし、講道館柔道に提言されたかは不詳であるが、大きな影響を持っていたことだけは明らかである。