身体が嘘を言うとき
身体が嘘を言うときは、大抵守りたいものがある時です。
例えば足を怪我したら、足に体重をかけると痛むから体重をかけないようにしよう。
とする訳ですよね。
だから既往歴で怪我はよく聞きます。
数日たって体重をかけても痛みは、さほど酷くないところまで治っているのに一向に体重をかけようとしません。
感情が体重をかけることをこばんでいる。
そこで私のような人があらわれて、体重をかけてみてください。
と言います。
「いや~。それは~」
と言いますよね。
本当に痛みがあるかどうか確かめるだけでいいんです。
どこまでいったら痛みが出るのかを確認してみましょう。
体重をかけます。
「あれ~。最初より深く曲がるやん!!」
そうですよね。
深く曲がりますね。
そこで二つにわかれます。
深く曲げれても痛いのは痛いから、体重をかけないようにするという人。
ああ~ここまで曲げられるから、ここまでは曲げてみよう。
と思う人の差が起こります。
嘘をつくというのは、守りたいものがあるからです。
痛いのから逃れたいからです。
それは人情ですよね。誰しも痛いのは嫌ですからね。
でも、よく観察すると、大抵は我慢できる痛みだったりします。
そうなんです。
痛みは、情動と深く関係します。
しかし、よく考えてみてください。
痛いからと言って、曲げられるところまで曲げなかったらどうでしょう?
それがずっと続いたらどうでしょう?
身体は当然かたまりますよね。だから動かなくなってしまう。
それが「癖」という厄介な代物です。
実はこれを急激に治すと、急激に異常を起こすことがあります。
治療の反作用ですね。
グイグイ揉んだら次の日、身体が痛くて・・・。
反作用を利用した治療もあるので、それはそれでOKなのですが、できるなら反作用を起こさない方が効果的かもわかりません。
無理やり言うことを聞け~と言っているようなものですからね。
真実が大事と言いますが、意外に本当のことって効果がないことが多いみたいです。
これはホントに不思議だなぁ~って思っているんですが、これは事実みたいですね。
嘘は誰しも暴かれたくない訳です。それが人情ですからね。
嘘のない世界はないと身体を観ていて思います。
その嘘と共に人って死んでいくんだなぁ~。ってよく思いますが、80歳を過ぎた人にそれを無理やりわからせて意味があるのかなぁ~って思ったりもします。
身体を観察すると世の中の現象が見えてくるし、人間ってどういうものかがわかるようになってくるのが不思議です。
だから全てわかっていると言っている訳でもありませんし、それが真実だとも思ってません。
でも、やっぱり「遊び」と「余裕」が必要なんだろうと思います。
真実ばかりじゃつまらないので嘘を混ぜる遊び心を持つことが心を豊かにするんじゃないかなとも思ったりします。
だから「なくて七癖」
癖があってこそ個性ですからね。
それより、嘘をついていることを認める。
それが大事かなと最近よく思います。
認識ですね。
聖人になる必要はないし、それを人に強要してもはじまりません。自分が納得できる嘘なら、嘘と知って認める余裕が必要だと思っています。そしてそれと共に生きるということなんじゃないかなと思ったりもします。
できるだけ正直に生きていきたいとは思っています。
しかし、その思いの裏を返せば、できるだけ正直に生きるという嘘をついている。
ということなんだろうと思います。
この考えが厄介なのは、嘘だと気づきにくいことです。
できるだけ、それを認識して死にたいなぁ~とは思います。
裏の裏を読まないと全体は把握できませんからね。それは狭義の真実ではなく、全体そのものです。