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粋なカエサル

「大江戸の誕生」3「鎧の渡し」

2019.04.08 01:29

 日本橋を主題として描かれた浮世絵のほとんどは、西向きの風景。一石橋、江戸城、富士山をセットで描けるから。まさに絵になる風景だ。東向きの風景を描いている代表作は広重の『名所江戸百景 日本橋江戸ばし』。いかにも広重らしく、近景(日本橋の欄干と桶に入った鰹)を極端にクローズアップし、遠景に日本橋川、江戸橋を描いている。江戸橋の向こうにあるのは小網町の倉庫群。広重は『名所江戸百景 鎧の渡し小網町』でも白壁が美しいこの倉庫街を描いた。『絵本江戸土産 江戸橋小網町』でも描いた。その説明書きにこうある。

「この河岸通り、新堀口に同じく商賈(しょうこ)の土倉軒(のき)をつらねたり。これを遠方(おちかた)に望(ながむれ)ば、あたかも万里の長城に等し」

 「万里の長城に等し」とはなんともスケールが大きいが、壮麗な眺めだったことはよく伝わってくる。この辺り一帯が、江戸中期以降、このような倉庫街として発展したのは、この日本橋川が、江戸開府以降、下総方面から物資を江戸の中心地へと供給するための運河として活用されたからだ。

 ところで、日本橋川を挟んで茅場町と小網町とを結ぶ渡し舟が、なぜ「鎧の渡し」の名付けられたのか?諸説あるが、『江戸名所図会』はこう記している。

「源義家が奥州征伐でここより下総国へ渡ろうとした所、暴風が起こった。そこで鎧一領を海中に投げ竜神に奉じた。その結果、つつがなく渡ることができたというので、鎧が淵と呼ぶようになった」

 この「鎧が淵」の渡しなので「鎧の渡し」となったというのだ。要するに、家康が江戸入りする以前はここは海だったのであり、徳川の天下普請で運河とされたのだ。運河というとどうも、陸地を掘り割って水を通したものだけをイメージしがちだが、水面を埋め残して水路とした運河も多いのだ。江戸の場合は小名木川をはじめ、市中に網の目のようにはりめぐらされた運河の大部分は、埋め立て地を造成する過程で、かつての水面(海面)を埋め残したものである。

 倉庫群、運河というと浮かぶのが新川酒問屋。そのようすは『江戸名所図会 新川酒問屋』がよく伝えている。この新川は、現在の新川一町目三番から四番の間で亀島川から分岐し隅田川に合流する運河で延長約600メートル、川幅は約15メートルで、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていた。豪商川村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられている。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、樽廻船が上方から運んでくる灘や伏見の下り酒を、廻船宿の艀船(はしけ)が各蔵の荷揚げ場まで届けた。享保11年(1726)に江戸に入荷した酒の量は約79万6000樽という記録が残っているが、当時、下り酒問屋30軒のうち70%が新川すじにあったと言われる。

 (広重『絵本江戸土産』「江戸橋小網町」)

(広重「名所江戸百景 鎧の渡し小網町」)

(広重「名所江戸百景 日本橋江戸ばし」)

(『江戸名所図会』「鎧之渡』)

(『江戸名所図会』「新川酒問屋」)