Ride in Setouchi & San-in Day 23 (7/4/19) Iwakuni Castle Ruins 岩国城跡
(ログデータ取れず別途作成予定)
紅葉谷公園
吉川家墓所
Iwakuni Castle Ruins 岩国城跡
吉香公園
- 吉香神社
- 白山比咩神社 (こしらやまひめじんじゃ)
- 錦雲閣
- 岩国徴古館
- 旧目加田家住宅
- 香川家長屋門
錦帯橋
槍倒しの松
朝食を岩国のマクドナルドでとっていると、外人の多いのに驚く、昨夜泊まったインターネットカフェにも多くの外人がカラオケやビリヤードやダーツで遊んでいた。米軍基地のある岩国ならではの光景。
この岩国には吉川広家の居城の岩国城跡がある。標高250mの山城。ここに登る。麓には観光地で有名な錦帯橋がある。これはおまけで見る。
錦帯橋に近くなると、山の上に天守閣が見えてきた。岩国城だ。
紅葉谷公園
錦帯橋をは自転車は通れないので、普通の橋の方へ迂回して、岩国城への登り口に向かう。錦帯橋を渡りきった所に吉香公園がある。本藩主の屋敷があった所だ。この公園の端の紅葉谷公園が登り口になる。名前どうり紅葉の木がいっぱい植わっている。春なので緑の紅葉だが、緑の紅葉も捨てたものでない。苔と桜で一層映えて見える。
吉川家墓所
ここには岩国吉川家の歴代当主の墓がある。初代広家から12代経幹まで (6代経永を除く) の当主や一族の墓51基がある。それぞれの時代やその権威の大小で墓の形や大きさが違う。ただ何故一代だけ墓がないのだろう。別の寺に墓がある。正室や娘の墓はここにあるのだが。理由は分からずじまい。
城跡への登山道は管理自動車が通るらしく、幅広で完全舗装。少し急なところがあるが、難易度は初級。多くの地元の人たちが散歩している。距離も片道2.5km程なので、散歩コースとしては良いのだろう。幅広舗装道路では雰囲気が出ないまま、40分程で城に到着。
岩国城
この城は横山の山頂に築かれた山城で横山城とも呼ばれていた。吉川広家が関ヶ原の後、毛利家が長門、周防の2カ国に減封された時この周防の岩国地域の領主として任命され、その運営のために築かれた。これには同情すべき経緯がある。ここ岩国城の解説で詳しく知り、今まで思っていた吉川広家のイメージが変わった。
吉川広家は吉川元春の三男で家督を継いでいた兄の元長の死去で、吉川家を継ぐことになる。毛利輝元を補佐し、政治的に重要な立場であった。関ヶ原では総大将毛利輝元の西軍側についたが、徳川の勝利とふんで、毛利は派兵はするが、合戦には参加しないので毛利家の本領安堵を保証する確約を独断で得ていた。関ヶ原では毛利勢が南宮山に陣を敷いた時、広家は南宮山の麓に陣を敷き、毛利本隊と徳川勢の間で毛利勢が動けないようにした。石田三成の参戦の督促には、今から弁当を食べるといい参戦を拒否。(宰相殿の空弁当として有名) この事で、嫌な奴というイメージを持っていた。もし毛利軍が動いていたら西軍の勝利の可能性は議論になる事だ。
徳川家康の東軍勝利にはなったが、それは徳川家康の事、本領安堵の密約は反故となる。沙汰は毛利家改易、吉川広家に長門と周防の2カ国を与えるという物。広家は驚愕。毛利家の中で四面楚歌、徳川もとりつく島もない。結局、吉川広家に与えられる予定であった長門周防を毛利輝元に与え、毛利家は存続。広家は周防の一部の岩国を領土として与えられた。ここで広家のこの一連の行動は現代人への教訓になるのではと思う。推測すると
- 広家は父親の吉川元春に偉大なところをみて育っており、吉川家の中では大将であったろう。
- 横柄なところもあったと思う。(宰相殿の空弁当)
- 自分の意見が正しく、人はそれに従うべきと思っていた。
- 人の異なる意見を聞く協調性に欠けている。(密約を毛利本家と相談なく独断で進めた)
- 自分の思いが全てになってしまい、他のシナリオが考えられない。(冷静に考えれば、家康が本領安堵する筈が無い。密約などは勝つ為の方便である事が見抜け無かった。)
- とは言え、本当に毛利家を思っての行動であったことは確かだ。
広家はこの青天の霹靂で、プライドはズタズタ。長門周防を毛利家に譲った事は全く有り難く思われなかっただろう。合戦に参加していれば勝てた筈、参戦を阻止され、大幅減封。それも相談なし。広家は長門周防を譲らざるを得ない立場に追い込まれた。もし長門周防の藩主になっていれば、即暗殺されたであろう。身の危険も感じていた筈。
これは会社などでよくある事。自分だけで事を運び、一人得意になっている時に、思わぬ落とし穴に落ちて、失敗。人からは同情されず、バカにされる。
広家は輝元に相談し、色々なシナリオを議論して進めるべきであった。結果が同じであったとしても、孤立無援にはならない。この事が起きた以降、広家は表舞台から降ろされた。
岩国は3万石で与えられたが、広家はこの岩国の経営に集中尽力し、実質石高を17万石まで高めた。このことをみるとかなり有能な人物であった筈だ。
長州藩にはその中に長府藩と徳山藩の支藩があるが、岩国領は支藩とは認められず、格下の扱いを長期間受けることになる。特に関ヶ原に実質的な総大将として布陣していた毛利秀元の長府藩との確執は深く、その後、様々な嫌がらせが200年以上続くことになる。
全てが吉川広家の独り相撲に端を発している。家臣にまで苦渋を強いることになる。
これは現代人がその行動をどうすべきかを学べる一例だ。
さて、話を岩国城に戻そう。江戸時代に築城された珍しい山城。広家が築いた。この時代に山城を築く事は無かった。小早川隆景が山城の新高山城から平城の三原城へ、毛利輝元が山城の吉田郡山城から平城の広島城に移している。特に広島城は攻めやすい城だったが、毛利輝元はこれで毛利家は安泰と言ったと言われている。全く違う考えで築かれたのがこの岩国城。広家の性格が出ている。徳川政権はまだ磐石でなく、戦乱の再発を考えたのか、長州藩内部での内戦の可能性を考えていたのかもしれない。兎に角、珍しい。
もう一つ珍しいのが天守閣の形。4層6階建、屋根は4つだが6階ある。見た目は美しい。
天守閣は復興天守で元の位置に建てられておらず、天守台は数十メートル内側にある。下からの見栄えのためらしい。
石垣と大手門
城から見た岩国の街並み。下の写真に錦帯橋が見える。当時と同じ見え方の筈。
岩国城の寿命は僅か7年。一国一城令が出た。広家は周防には岩国城しか無いとし存続を願っていた。ここで横槍が入る。長府藩の毛利秀元。前述で長府藩と岩国領との確執を述べたが、まさにこれが7年後に起こった。長府藩は居城であった櫛崎城を破却した。この事で岩国城も破却に追い込まれた。
下りは別の山道を行く。ここの方が本来の山道らしい。
吉香公園
城を失った後は山の麓の吉川氏館を政務の中心とする。現在は吉香公園になっている。この公園内には、多くの施設がある。
佐々木小次郎の像があった。なぜ? ここで垂れ下がる柳の枝で小次郎の秘剣 つばめ返しが生まれたと伝わっている。
吉香神社
明治5年に吉川家の氏神社3社 (治功社、高秀社、鎮昭社)を統合した神社。
白山比咩神社 (こしらやまひめじんじゃ)
錦雲閣
明治18年に旧岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放された際、旧藩時代の矢倉に似せて造られた旧岩国藩主吉川家の歴代を祀る吉香神社内にある絵馬堂。
岩国徴古館
昭和20年)に完成した石造り風の建物。吉川氏の歴史の展示をしている。この日記の最後に吉川氏の歴史のパネルを添付しておく。
吉川史料館(昌明館)
旧岩国藩主吉川家に伝来した歴史資料や美術工芸品を収蔵。正門は昌明館付属屋長屋門で1793年 (寛政5年) に七代藩主吉川経倫の隠居所に使われていたもの。
旧目加田家住宅
岩国藩の家臣、目加田家の住居。中級武家屋敷の様式を残す。
香川家長屋門
岩国藩の家老に列せられた5家の一つ、香川家の長屋門。
錦帯橋
岩国城の麓は平地が狭く、吉川家のの家臣がある住めるだけの十分な土地が無く、多くは対岸に住んでいた。毎日の登城は渡し船で行き来をしていた。これではいざという時に不便なので橋をかけた。最初の橋は当時の一般的な橋をかけたが暫くすると流されてしまった。流されない橋が必要という事で、3代広嘉 が発起し10年の研究構想期間を経て、 この木造アーチ形式の橋が岩国城から70年後の1673年(延宝元年)に、 工事3ヶ月で建造された。翌年に流されてしまったが、その後、改良を重ねた建造。それ以降100回以上も架け替えが行われている。驚くほど技術水準が高く、強度は現代の歩道橋並みである。材料も木材は6種類を使い分けている。橋はけやき、土台はヒノキとか。
この橋は登城する武士のみに許され一般庶民が渡れるようになったのは明治に入ってからだ。江戸時代は相変わらず渡し船を使っていた。庶民は番人に袖の下を渡し、急いで渡ったという。
葛飾北斎の錦絵
安藤広重もある
ここは桜の名所で多くの人がお花見で宴会をしていた。
槍倒しの松
この錦帯橋の側に松がある。枝が道を覆うように伸びている。槍倒しの松と呼ばれている。ここは西国街道が走っており、参勤交代にはここを通る。他国の城下を通る時は敬意を表し、槍は倒して通るのだが、岩国は藩と認められていなかったので、格下と見なされ、槍はたてたままで通過した。これには吉川家家臣にとり屈辱であった。そこでこの松を植えた。この松の下を通る時に槍を倒さなければならなくしたわけだ。岩国領は関ヶ原以降、何度となく支藩としての認可を申し入れたが聞き入れられなかった。やっと支藩格になったのは明治の廃藩置県の3年前だった。岩国藩として吉川統治が終わった。これは幕末の動乱時に長州が一枚岩にならねばという事で、長州宗家と長府毛利が動いたことによる。何ともこの確執が250年も続いたとは.... 現在の岩国と長府の人々はお互いにどのような感情を持っているのか気になる。
ほぼ今日の日程を終えて宿に向かおうとした時にこの度の通過経路を記録しているアプリがスマートフォンから消えてしまった。今日までのデータも無くなってしまった。以前の旅はバックアップを取っていたのだが今回は怠った。どこかで再現することにする。