『コリオレイナス』への強い思い入れ
今日の神戸新聞文化センターの講座では、プルータルコスおよび彼の『英雄伝』の簡単な紹介をした。この半期は、『英雄伝』のなかのローマ神話を取り上げるので、今回はその前提となる知識を提供する時間にしたわけだ。プルータルコスにかんして「とっつきにくい」というイメージを与えないようにしようと思い、今日は、作家として知名度の高いシェイクスピアと結びつけながら話す、という工夫をしてみた。テーマが「ローマ神話」であることもふまえ、シェイクスピアの「ローマもの」の悲劇、すなわち『ジュリアス・シーザー』・『アントニーとクレオパトラ』・『コリオレイナス』は、『英雄伝』の記述(具体的には、『カエサル伝』・『アントーニウス伝』・『コリオラーヌス伝』のそれ)が下地になっている、という説明をした。
この三つの悲劇作品のなかで、僕がとくに力を入れて解説したのが、『コリオレイナス』だ。これは、のちの回(8月を予定)でプルータルコスの『コリオラーヌス伝』を詳しく紹介するため、ということもあるが、そもそも僕にはこの作品にたいする強い思い入れがあるのだ。理由はシンプルで、英文学科に属していた学部の4年間で、僕が一番面白いと思ったのが、3年生のときに受けた『コリオレイナス』の分析をする授業だったからだ。とにかく印象に残っているのは、担当の先生の「本気度」である。他の授業は、「教科書的」(=英文学科の学生として最低限知っておくべき「常識」を学ばせる、というスタイル)で、どこか刺激が感じられなかった(もちろん勉強にはなった)のに対し、この『コリオレイナス』の授業は、シェイクスピアの専門家としての先生の研究ノートを直に見せてもらっているような、たいそう熱のこもった講義だったのだ。研究者というのは、このように分析対象と向き合うものなのか、ということを強く感じたのを今でもはっきり覚えている(あとから知ったのだが、この先生は、『コリオレイナス』にかんする本格的な論文を発表していて、それゆえ、たいへん質の高い―その道のプロらしい―解説が授業中になされたのだった)。
あの「衝撃の授業」を受けてからもう何年も経っているが、今回このように『コリオレイナス』に戻ってきたことについては、なにか運命的なものを感じている。講座のなかで、唐沢寿明がコリオレイナス役をつとめた、蜷川幸雄演出の《コリオレイナス》の公演(2007年)についても触れてみたが、じつはこれを知るきっかけになったのも、その同じ授業だった(ライブ収録のDVDを見せてもらった)。シェイクスピアの「プルータルコスもの」といえば、日本では『ジュリアス・シーザー』か『アントニーとクレオパトラ』かもしれないが、僕にとっては、これは絶対に『コリオレイナス』なのだ。(おまけで付けた下の絵は、二コラ・プッサンによる《家族に嘆願をされるコリオラーヌス》である。)