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ダンス評.com

神村恵、平倉圭、津田道子「彫刻術としてのダンス」森美術館 展示室

2019.04.08 15:51

2019年4月8日(月)19:00~19:30

森美術館「六本木クロッシング2019展:つないでみる」で展示されている津田道子のアート作品「王様は他人を支配するが」(2019年)の関連パフォーマンス

企画・出演:神村 恵(ダンサー、振付家)、平倉 圭(芸術学)、津田道子(美術家)


アート作品「王様は他人を支配するが」は、インスタレーションと呼んでいいのだろうか。

イギリスのルイス・キャロルによる物語『鏡の国のアリス/Through the Looking-Glass (and What Alice Found There)』をモチーフに、チェス盤のような平面の上に、ビデオカメラとしての監視する王、その映像を映すスクリーンとしての王妃、のぞき込む人の姿を映す鏡としてのアリス、などが立っている。物語の構造をアーティストの視点で立体にしている感じだ。

頭上には、『鏡の国のアリス』に出てくるナンセンス詩「ジャバウォックの詩」の冒頭が、原文の英語や翻訳の日本語で映写されている。この詩は、2つの言葉を合わせた単語、「かばん語」など、キャロルの造語が多く含まれ、難解なので、翻訳するのもとても大変。日本語の翻訳は少なくとも数十のものが出版されている。それらのさまざまな翻訳が代わる代わる映し出される。

関連パフォーマンスの前に美術館のスタッフが配っていた1枚のA4の紙には、(映写されている)この詩の冒頭の英語と20種類の翻訳が両面に印刷されていた。

神村恵さんと平倉圭さんはそれぞれ、マイクとそこで拾った音声を流すスピーカーを体に装着している。アート作品の作者である津田道子さんは、パフォーマンス中に、詩の中からテーマとなっている英単語が書かれたスケッチブックを掲げたり、スマートフォンで写真を撮影したり、他の出演者2人の動きを一緒にやってみたりしていた。

パフォーマーたちはチェス盤の上で位置を変えながらパフォーマンスを行う。観客は、チェス盤の周囲のどこから見ても、またチェス盤に立ち入って見てもよい。

まずは、主に手、そして体全体も少し使った動き。神村さんが行う動きを、直接は神村さんを見ることができない位置にいる平倉さんが、神村さんの手の部分がリアルタイムで映っている映像を見ながら、まねをしている、ようだった。映像の手の動きから、左右を間違えないように気を付けてまねをし、時には上半身の動きを推測して、体全体でまねているようだった。

次は役割を交代して同じことをしていたようだが、ダンサーである神村さんの「まね」の仕方が非常に巧みなので、即興ではなく、あらかじめ決められた動きを2人が同時にしているようにも見える。もしかしたら実際に、即興ではなく、役割交代前の動きも含めて、ある程度決めておいた動きなのかもしれない。

どちらがリードしているのか、どちらが主でどちらが従なのか分からなくなる、のは、ダンスや演劇で「ミラー(鏡)」と呼ばれるワークをゆっくりとした動きで行うときに見られる現象だ。物語『鏡の国のアリス』から感じられる、「どっちがどっちを見ているのか?/見ているのか見られているのか?」「操っているのか操られているのか?」といったテーマとも通じる。おそらく、津田さんの作品にも通じるものとして、このパフォーマンスがあったのだろう。

次に、神村さんと平倉さんが会話をしながら、「ジャバウォックの詩」について簡単に説明した。作中(『鏡の国のアリス』)ではこのナンセンス詩をハンプティ・ダンプティがアリスに解説すること、「かばん語」という用語や、各単語が表していると思われる意味など。

そして、この詩を、日本語の翻訳ではなく、手の動きで表現しようと話し、2人が交互に1行ずつ、動きを作っていく。主要な英単語1つずつに動きをつけ、作った方が相手に動きを伝えるという具合。これはおそらくあらかじめ動きを決めておいたと思われる。まとめとして、詩の冒頭部分を通して手(と腕)の動きのみで、2人で一緒に表現した。

「ジェスチャー」「ダンス」「手話」はそれぞれ違います、ということがよく言われるように思う。でも、その境界が曖昧になることもあると思う。例えば私は、言葉で言い表せない感情や何かの「感じ」を手振りで伝えたくなるときがある。それはダンスとは言えないし、私は手話ができないのでもちろん手話でもない。かといって、同じ社会・文化圏にいる人になら伝わるはずのジェスチャーとも呼べない。とにかく、「動きによる表現」だ。

ルイス・キャロルが生み出したナンセンス詩は、英文学者や翻訳家が知恵を絞って創り出した日本語の翻訳、すなわち言葉よりも、言葉のない動きの方が、詩の「感じ」がよく伝わるかもしれない。出演者の2人の言葉による説明で補われた動きではあるけれど、その言葉から想起される「感じ」が、動きからまさに立ち上がっていた。

最後に、神村さんと平倉さんが、鑑賞者にも配られた紙に印刷されている詩の翻訳を朗読した。紙の両面に似た翻訳が載せてあり、その似た翻訳を2人が同時に読み上げる。最初は重なる部分が多かった音が、途中でどちらかが英語の原文を読み上げたりして、徐々にずれたようになっていく。でもまた寄り添ったりする。2人は1つの翻訳(または原文)を読むたびに移動し、ついにはチェス盤から外へ踏み出し、それぞれ別の隣にある展示室へ去っていく。そこでパフォーマンスが終了した。

たまたま、この「ジャバウォックの詩」には少し向き合う機会が以前にあったので、展示室に入って映写されている文字を見た途端にそれと分かった。もともとキャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が好きなので、津田さんの今回の作品は結構ツボ。しかも、英語や翻訳も興味がある分野であり、それとダンスが絡んでいるので、今回のパフォーマンスにはとても引き付けられた。

手の動きは、見ていると一緒にやりたくなってしまう(「一緒にやってもいいです」とパフォーマーたちは言っていた)。ちょっと動きで表したいんだけどな、というときは、相手に伝わることを考慮して言葉を発しながらも、今後はもっと、同時に動きでもやってみてしまおうかな、などと考えた。

津田さんの作品自体は、監視社会、ネットのSNS上などの人間関係、逆らえない雰囲気、同調圧力、人の目から逃れられない、人の目を気にしてしまう、といったことを思い起こさせて、なかなか怖いと思う。