信じる力
意識が大事と言っていますが、意識は目に見えません。思考も目には見えません。
意識は目に見えないけれど実感することができます。電気と同じですね。
妄想と意識は、似ているかもわかりませんが違います。
肉体と肉体外との距離が身体に関係があると書きましたが、目に見える距離と目に見えない距離があります。
部屋の中に居て、10キロ先というのは言葉では言えても実際にその場所をイメージすることは、ほぼ不可能でしょう。本人から見て5度角度が違えば場所も景色も全く違うものになるはずです。
長年住み続けている人であっても10キロ先にこんなところがあったのかと思う場所が沢山あるはずです。
そこが他人の家の中なら家族とその関係者しか見たことはないので、知っている人はもの凄く少なくなります。
しかし、10キロ先は確実に存在しています。これは妄想ではありません。
言葉をイメージすることは可能です。妄想ではなく10キロ先という単語です。
この単語は信じるに値する単語です。
これと同様に誰も見たことがないものでも単語は存在しているというものが世の中にはあります。
「神」や「神界」などです。知識はあって、詳しく解説されている本も沢山あるけど、存在を証明するものは何もない。
これは妄想でしょうか?
また銀河の果てもどうなっているか誰も知らないはずです。
しかし、存在するはずです。
これを想像するのは妄想か?
ある意味妄想であり想像ですが、物理学者は、計算式によって、どうなっている可能性があるといっています。もちろん仮説なので、その説も複数存在します。これ妄想?
それが本当かどうかは、実際に見た人はいないから誰もわかりません。
ハヤブサが帰って来てデータを分析したら、想像もつかない生命のはじまりがあったという答えがでるかもわかりませんよ。今までの常識や物理学の基礎を狂わせるデータが得られるかもわかりません。その時、今まで信じていた物理学はどうなるのか?
これは妄想と区別がつきにくいです。
科学も物理も究極的には、妄想や想像がつきまといます。そこを確実に区別できる人はいないでしょう。
そんな疑問を持たないで、一見科学的だから、物理学的だから信じ、神という言葉は信じられないというのは、どうなのかなと思ったりもします。
私は信じている信じていないではなく、神という単語がある以上ないとは思いません。
名詞がある以上、それを名付けた人は、何かを感じとった訳です。
同じように目に見えないものなのに宇宙の果ては信じられても、神は信じられないというのは逆に公平ではありませんし、そんな人を疑問にも思ってしまいます。
たぶん、宇宙の果てがどうなっているか以上に神という言葉は歴史も書物も体験した人も多いはずです。
目に見えないものを実感する方法をもっと確立しなくてはなりません。
そこで信じる力を利用することができます。
信じる力は妄想とは違います。実際に現象を引き起こせる力です。
神があると仮定するならば、それを利用して身体に変化を起こさせることがでたとしたら、ある意味真実だと思えるからです。
少なくとも当事者にとっては間違いなく真実になります。
しかし、これは、あくまでも存在するという仮定において起こる現象です。信じ切った時にだけ起こる現象ですので、仮定をできない人には起こらない現象とも言えます。
ここを間違えてはなりません。
人は、どれだけ努力してもできる人とできない人というのがあるというのを最近知りました。
自分にできることなら他の人にもできるはずだと私は考えていました。またその逆も疑うこともありませんでした。しかし、できないこともあるんだと最近ようやく気づきました。
できないから駄目なんじゃなく、できない中で何をすれば変化を起こせるのかを考えていくということが大事なことだと思っています。
信じる力を強めることができる人と、できない人が実際にいます。
このような説明を聞いて頭だけでわかろうと思っても、体感しなければ理解は無理でしょう。
もちろん最初から頭で否定する人もいるでしょう。
人それぞれです。それはそれで良いし、否定も肯定もしません。
神智学の内容はある意味妄想に近いと言うと語弊があるかもわかりませんが妄想と言われても仕方がない部分もあるのは事実です。神という単語と同じで不特定多数の人に見えるものではないからです。階層構造があると決めたから、階層構造ができたのです。
ここがとても大事です。決めたからできた訳です。
宇宙も認識したから出来たという話が物理の話にありますが、これと一緒だなと私は考えてます。
階層構造があると決めていない人には、階層構造はこの世に存在しません。
選択枝にない訳ですからね。
東洋医学の「気」や経絡や穴も、これと全く同じです。あると信じたから起こる現象です。
その違いに気づかないと意識による現象は起こせないか微弱な変化しか起こりません。
何となくあると思うでは駄目なのです。
確実にあると信じないと現象は起こりません。
言葉が悪いですね。『信じる』という言葉がね。
この考え方を受け入れられる人と、受け入れられない人がいるのは事実です。
しかし、言葉を純粋にすれば、その言葉の名詞を作った開発者と共鳴する意識を使えるようになります。言葉は、その開発者そのものです。
そして、その開発者になりきる唯一の方法です。つまり開発者の感じたことをそのまま感じようとすることです。
これは知識とは違いますし、妄想と区別がつきにくいギリギリのラインですね。
それを明確にする為には実感を伴わないと絶対に理解は無理です。
これは科学的に証明することは不可能でしょうね。
確かに妄想を信じても力になることがあります。イワシの頭でも信じることで変化させることができる(これには全ての物に神様が宿るという日本の考えから来るのかもわかりませんが・・・)
ある意味信じる力も利用しないと現実を変える程の力にはなりません。
それができる人とできない人がある訳です。
それは事実なのですが、現象を起こせないものは、単なる妄想と言います。 経絡や穴も現象を起こせなかったら、単なる妄想です。
これは修行したからわかる訳じゃないし、一生懸命勉強したからできる訳でもありません。
一生懸命経絡や穴を勉強しても、利用できない人、または、その能力を最大限引き出せていない人は沢山います。
意外にも、この事実を知らないのは鍼灸の有段者の人に多いかもわかりません。
なりきってしまわなければできないことです。これはある意味信じる力です。
その信じる力が様々なものを変えてきたのです。不可能と思えるものを可能にしたのは信じる力です。そういう人が常識を覆してきた訳です。
一見妄想に見えても現実的に身体を変える力があれば、それは妄想とは言いません。
妄想と現実の違いはそういうところにあると思います。
知識の怖いところは、知った気になるということでしょう。知識は学問という仮面をかぶった妄想の場合があります。
100年前の医療と現代の医療の違いを見れば、そんなことあきらかですよ。
今後ももっと短いサイクルで変化していくでしょう。
しかし、最初は妄想から科学も発展しているというのが皮肉なところなのではないかと思います。
そこが面白いし、人間の謎を解くカギなんじゃないかと思います。
だから妄想も否定できないのです。
妄想と意識は紙一重