集活のススメ 宣言
「終活」に関心をもったら、ぜひ「集活」も意識してほしい。
人と集い、語らい、交流し、縁を紡ぐ。それが集活です。
終活に足りないもの
いま流行りの終活は、葬儀やお墓の準備などサービスやモノを購入することが中心になってはいないでしょうか。それはそれで大切なことです。しかし、それだけで十分なのでしょうか。
死に際しては、どうしたって誰かの世話にならなければなりません。死後に自分で墓に入ったり、様々な死後事務をしたりすることは不可能です。終活で語られる「周囲に迷惑をかけないように」という言葉は美しい。もちろん、ある程度の準備は必要です。否定しません。でも、「だから自分ですべて決め、準備する」は、真面目な人ほど陥りがちなワナのように思います。
「迷惑をかけあえる関係性」こそ
家族や友人、縁ある大切な人が亡くなったとき、悲しみや悔恨、感謝、許しといった強い感情が湧き上がる、吹き荒れる。そんな感情をおそらく多くの方は経験したことがあるはずです。自分の死後にそんな感情を抱いてくれる人がいてくれる。その存在こそが、自身が生きてきた喜びの源泉であり、生きた証だといえるのではないでしょうか。逆に、自分のために泣いてくれる人が万一だれもいない場合を想像していただくと、うなずいていただけると思います。だからこそ、少し考え方を変えてみてはどうでしょう? 「迷惑をかけあえる関係」をつくることに意識を向けてほしいのです。
長い老後は苦しみ?
いま、「人生100年時代」の到来がいわれています。100歳以上人口は約7万人。2050年には53万人になると予測されています。一人暮らしの増加といった家族関係の変化もあり、私たちは一昔前の高齢者とはまったく異なる「長い」老後を生きます。状況が変わっているのですから、変化に応じた対応が必要です。怠れば、長い老後は長い苦しみになりかねません。
なかでも大敵は「孤独」。孤独は心身の健康を損なう重大な社会課題です。英国では2018年1月、「孤独担当大臣」を新設したほどです。もちろん、孤独は高齢者だけの問題ではありません。しかし、高齢になると多くの人は仕事がなく、社会から特に孤立しがちです。
たとえば内閣府によると、1人暮らしの男性高齢者の15%(女性は5%)は会話の回数が2週間に1回以下です。また、「日ごろの簡単な手助けを頼れる人がいない」と回答した人も男性で30%、女性で9%。特に男性の高齢者が社会的に孤立した姿が浮かび上がっています。いったい誰が最期を看取り、弔ってくれるのでしょう? というか、死ぬまでその状態が続くことで、生きる喜びを感じることができるのでしょうか。
関係性の中にしか「自分」は存在しない
孤立しても孤独ではないとか、孤独がかっこいいかのようにいう人たちもいます。でも、本当にそうなのでしょうか。少なくとも私は誰かとつながっていたい。人との関係性の中でしか、「自分」というものは存在しないのです。家族といるときの自分、学生時代の友人と会うときの自分、仕事相手と向き合うときの自分…。多面的な関係の中で形づくられる自分という存在。豊かな縁、関係性があった方が人生は彩を増します。
だからこそ集活なのです。
たとえ歳をとってもつながれる
たとえ歳をとっても、その気になれば様々な形で社会と「つながる」ことができます。人との関係性を構築することは可能です。
たとえば、いろいろな「居場所」づくりが各地で試みられています。そんな場で役割を見い出し、生きがいを感じることは、元気で健康な生活を長く続けることにもつながるでしょう。亡くなった後に同じ合祀墓や永代供養墓に入る人たちが、生前から交流して関係性を紡ぐ「墓友(はかとも)」などは、まさに「最期」を起点に生まれる縁です。
厚労省は2018年11月30日、この日を「いいみとりの日」とし、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」にすると発表しました。ざっくりいえば人生最晩年の医療をどうするかを考えることです。家族や友人、医療者や介護職など、晩年を支えてくれる人たちと何度も話をする。周囲の人たちと日常の会話をする中で医療のことも話題にしていくイメージでしょうか。最後まで自分らしく生きていくために周囲の人たちの助けを得る。そのためにも意思疎通を図ること、と言い換えていいかもしれません。これだって集活です。次世代に「思い」をつなげる遺贈寄付だって集活のひとつといえます。
終活の目的は本来、よりよく生きること
終活は本来、最後まで人生をよりよく生きていくための手段だったはずです。死ぬためのものではなく、いわんや終活することが目的などではありません。死ぬまで豊かな人生を過ごしましょう。
集活してみませんか。