バリ② Love. 自分を愛すること
ある日、地元の人達にしか知られていない寺院へ行こうと誘われる。 バイクの後ろに乗り、ウブドの町を出てジェットコースターさながらの急勾配急カーブの山と谷を幾度も越え、 小川を越え、山の中に密かに佇む寺院へ辿り着く。 寺院の入口でお供え物とサロン(布)を購入し、小屋の影に隠れてサロン一枚を体にまとう姿に着替える。
滝で打たれながら深く瞑想している人がいる。
その滝を指さされ、あそこに行くのだよと言われ、一瞬、まさか…と思う。
いくら南国バリと言えど、太陽も隠れる鬱蒼とした山の中は涼しい。体温35度代の低体温になりやすい自分に、
冷たい水の中へ体を沈めるのはかなり身体的に厳しい。
腹を括っていざ水の中に身を浸すと、からだは凍るかと思いきやそうではなく、恐怖が徐々に消え。自ら叩き付ける滝に頭を潜らせる。
気づけば祈っていた。
あなたと一体にならせてください。
あなたの無限の愛をどうぞ私に降り注いでください。
何万年もの歴史を持つ岩と、激しく叩き付ける水と同化する。外からは激しく打ちつけるように見えるのに、いざ頭を浸すと大きな音の中に冷たさは一切ない。宇宙の音楽を聴く。
神様と一体となるとはこういうこと。 轟々と体に叩き付ける音、水、そして神の慈愛。肩に背中に打ち付けるリズムが響く。
何かを思考する余地はない。恍惚感。
無限の愛が注がれる。私に。
無限に私は清められていく。
そして私はあなたと一体である。
安心しなさい。
その声が、上から、私の内から、響く。
いつまでも瞑想していたくなる。
外から見るだけでは恐怖の存在だった滝が、その中に入ると神の無限の愛の象徴のように感じられた。
それは無限の愛、無限に、太古の昔から遠い未来に至るまで、変わらず自分に注がれているのだった。
ここは今まで訪れた中で一番地球のエネルギーが集約する場所かもしれない。清い清い深いところから湧き出る清水が溢れる。
わたしはこの場所を知っている。
知っている。
バリ…神々の島と呼ばれる所以。
地球上で、最も天に近く爆発的なエネルギーが集約する場所の一つなのかもしれない。
旅に出た初めの頃に、この旅を応援してくれた人がメッセージをくれた。
「愛ちゃん 自分を愛してください
全身全霊で、自分を愛してください
弱い自分を愛してください 駄目な自分を愛してください 意地悪な自分を愛してください
愛ちゃんが、人を愛するように、自分を愛してください」
自分を愛するとは一体どのようなことなのか、私には掴みきれていなかった。それは自分を甘やかすことでもなさそうだった。
「自分 を 愛する」 この単純な言葉の羅列の中に含まれる深い意味は何なのか。ナルシシズムでもなく、自己探求に陥りすぎるでもなく、中庸を具えたその智慧とは。
その問いを、頭の後方に浮かべ続けながら旅をしていた。
まだ答えが靄に包まれていた。
この点に関して、何か自分が気づいていない、そして私によって気づかれるであろう何かの層があると、私は認識していた。
私の敏感な身体が意味していた、貧血、無月経、副腎疲労、低血糖症、免疫力の低下等の不調。
20代初めから10年以上、身体上に表現、表出し続けた未病。
長年自分が体から追われ続け、自分の道を諦めてきたと思ったがゆえに、今度は追われるのではなく、私が体を追うのだ、と
一気に意識の方向転換をしたのが一年前。その間、自分なりに取り組んできたが、それでもまだ掴みきれなかった何かが。
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あなたに起きたどんな病気も、人生の不幸も、
すべてはあなたが自分自身を十分に愛さなかった結果である。
自分がしたいこと望むことをさせなかった、直接の結果なのだ。
あらゆる病気はあなたへの直接のメッセージであり、あなたが本当の自分を愛してこなかったこと、
真に自分らしくあるための努力を怠ったということを教えているのだ。
これがすべてのヒーリングの基本である。 ~ あなたの選択すべきことは、恐れと向き合いあえてそれを感じ、
人生を通してそれに働きかけることである。恐れがあるときはいつも、そこに愛がなかったからである。恐れは愛の反対に位置する。だから恐れがあるのは、あなたが真実の中にいないためである。あなたが恐れているものは実体がなく、幻想であることが多い。恐れを抱いているときは、実在の中心にはいないからだ。恐れに踏み込む勇気を持てば、新しいレベルのヒーリングが始まる。
(『光の手』バーバラ・アン・ブレナン)
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この滝に打たれていた時に、ふと頭ではなく身体で理解した。 「愛」は(水は)、実はいつも無限に注がれ続けている。
滝に打たれている時、時間間隔は失われる。それは一瞬でもあり、永遠でもある。
虚空の、宇宙の中心でもあり、宇宙全体が、わたしとなる。
それに、ただ気づくことだった。
特に、自分を愛そう、と意図をもってなす必要はなかった。それは既にあるのだから。注がれているのだから。
愛されていることに気づくだけ、思い出すだけだった。
寺院の滝の場は、天国のようだった。共にいた人々は天国にいた時の仲間のよう、邂逅したかのよう。
生まれてくる前、死んだ後にいる場所、その裸のまま、素のままの自分たちでいた。
日本を出てからこの2か月半は、セルフヒーリングの旅になった。
普段活動している意識の層では気づかない、奥の奥の奥深く、一人の人間のたましい、こころ、からだは、
それだけで完全な小宇宙といえる。
もう、いいだろう。もう、十二分に振り返り、癒してきただろう。
そう思っても尚、統合すべき自身の影や痛みは、また海の底からふつふつと浮上する。
人として生まれた以上、自分が取り組むべきこの世での課題がある。 自分が設定した課題がある。生きる中でまた新たに何かの影は、傷は、終わったと思った瞬間からまた生まれ続ける。 無意識の海は果てしない。一枚一枚、自分が気づかなかった恐れの皮をめくっていくということなのだろう、きっと。
バリにいた間に、さらに自分自身の徹底的な大掃除をしようと、伝統医療の治療師の元へも行った。 「喉元に黒い血の塊のようなものがある、7年前に生まれたもの」とその女性治療師は言った。 喉元… 私は、この数年甲状腺機能の低下に悩んでいた。 治療家は数名のチームでベッドに横になった私を取り押さえ、「喉にしがみついた悪霊を取り除く」、ということをやってのけてくれた(らしい)。7年前に何があったかと思い返してみると、そういえば絶望的な恋愛をしていた。 その傷はもう十分癒してきたと思っていたが、当時のショックは骨の髄、細胞の奥にまで刻印づけられていたのかもしれない。意識の上では問題がないかのように見えても、身体が神経レベルで恐怖と憎しみ、絶望、悲しみを記憶しているということがある。 果たして実際に悪霊が取り除かれたのかそうではないか、真偽のほどは定かではないが、7年来自分に染みついていた毒素がデトックスされたかと思うと、気持ちは晴れ晴れした。帰り道は身体が軽やかで、その日の夜はおめでたい気持ちになり、自然食の店でココナッツのケーキを買って帰った。バリで甘いものが食べられるようになった私は、おいしくいただいた。それまで甘いものが食べられなかった(糖の代謝がうまくいかなかった)のは、人生における甘美さをも享受するのを恐れていた現れだったのかもしれない。
自然豊かな場での瞑想、ヒーリングの学習、慈愛ある食事や神々の力を感じる場所で、私の身体は一週間ごとに元気になっていった。
毎日、毎週、願いごとをした。夜明けに起きて瞑想する際に。
最初は、至極自分の体のためだった。
自分のたましい、からだ、こころが必要としていることを一つひとつ願い、そのために行動した。
次から次に自分にとって必要なものに出会った。
目の前に必要なものが、ひとが、事象が現れた。
タイの修行者が集うアシュラムで静養、
エネルギーワークの勉強、
バイオスペクト(メタトロン)での全身のボディチェックと分析、
治療家達の治療、
ボディチェックで得られた必要な鉱石の取得、
食、自然、祈り、愛。
私が、健やかになれますように…
自然豊かな場所にゆけますように…
私が、人を愛することへの恐れを癒せますように…
願いは日ごと、よりシンプルになり、それは願うほどにより聞き入れられるようになり、
一つの願いが叶った翌朝、ベッドの中で目が覚めると、次の願いが自然と生まれ咲いた。その繰り返しだった。
気づいたのは、自分が人を愛することへの恐れを抱いているということだった。愛することによって傷つくこと、自分が思うように期待した愛が得られないこと、そうしたことに対する恐れが、よくよくこころの奥を眺め渡してみると、水が引いた波の間から現れる貝殻のように、確かにそこにいくつかあった。
タイとバリにいた2か月ほどの間に、日毎に面白いほど身体が回復した。
回復し始めると同時に、この身体をもって、自分を誰かのために役立たせて下さい、と祈るようになった。
それは、人間のこころの自然な在り方なのかもしれない。自らが満たされれば、それをより自身の周囲に広げたくなる。
「この身を誰かのために役立たせて下さい」と願った直後に、 私のヒーリングタッチを受けたいと言うアルコール中毒の若い男性や、施術をさせてもらえる日本人コミュニティの方々と繋がった。
生まれ変わる、とはこのこと。
大好きなEat,Pray,Love(「食べて、祈って、恋をして」)の作者、エリザベスギルバートが本の中で語っていた。
一年間の旅の最後、バリで愛する人に出会い、見事離婚のどん底から再生した彼女の言葉。
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Yet what keeps me from dissolving right now into a complete fairy-tale shimmer is this solid truth,
a truth which has veritably built my bones over the last few years--
I was not rescued by a prince; I was the administrator of my own rescue.
でも、このお伽噺の蜃気楼に呑みこまれてしまわないようにわたしを踏みとどまらせているものは、この揺るぎない真実、
この数年間、自分自身で自分の骨組みをかたちづくってきたという真実だ。
わたしはけっして王子様に救われたわけではなく、この自分を救い出す作戦の司令官はわたし自身だった。
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そう、わたしも、わたし自身を救い出す作戦の司令官だった。
そして大切なことは、ただ思い出す、ということだった。
私たちは既に知っているから。
私は、つくづく「旅の神様」に愛されていると思う。
旅を楽しむ才能だけは、誰にも負けない。
それはとりもなおさず、恐らく、人生を楽しむ才能である。
旅は、人生の凝縮だから。
願いがシンプルになるのは、小さなスーツケースを一つもっただけの裸の自分が、なすべきことをしたいと思うから。
こころ許せる、安心できる愛する家族や友人たちと離れ、既存の場所で培った自分の力も社会的資産も捨て、
大切だと思っていたそれらをなくしても大丈夫と知り、裸の自分で、生きるから。
常に、自分がその時その場にいれる時間が限られている、と知っているから。
願いが即座に叶えられていくのは、顔の見えるコミュニティで、自分の必要なことだけを意図し、その意図が通じ合う人々と出会えるから。
携帯やタブレット、電子機器から離れ、不要な人間関係も仕事も雑事も思考も全てそぎ落とし、地球のリズムで生きることをはじめ、
いのちを感じ、自身のこころが露わになっていくから。
新しい土地に馴染み始め、友人たちの繋がりもでき始めた頃にお別れをし、次の場所へ移動する。それは人生そのもの。
一つの土地に根差さない、それは様々なしがらみや人間関係のもつれも、執着、果たすべき責任や役割から逃れているとも言えるが。
それも、旅が、人生全体を凝縮した学びのプロセスとして、免罪してもらう。 光の速さで出会いと別れを繰り返し、ひとつの学びを終えたら次へ進む、進むごとに自分を捨て、捨て、捨て続け、
大切なものだけ携えることを知る。
それは、裸のじぶん。
いつも、自分とは何かを問いながら、自分という存在を忘れながら、その土地で生きる自分を演じているかのよう。
人生という演劇を。
いつも旅は、自分を生き返らせてくれる。
新しい命を授かる。
予想だにしなかった結末を。
バリで、エネルギーワークの教えを乞うたカナダ人の先生が、二日間の個人トレーニングの後、上を指さしながらこう言った。
「私を、あなたの先生とさせてくれてありがとう。 これからは、私たちはもう同等の、共に学ぶ生徒。共に『上』に教えを乞う生徒だから」
自分という存在、唯一無二のわたしに生まれたことの、誇らしさ、悦び、そして責任感。
より、大きく「氣」を巡らせられるようになった。