今日の戯れ言
他者に寛容を求めるマイノリティが、他のマイノリティにも寛容かと言うと、そうでもない事象が多々見られている。
少数民族が他の少数民族を迫害し、ときには滅ぼす。
特定の権利を主張する団体が他の権利団体の主張を辛辣に批判し、人気のないアイドルグループが他のアイドルグループの足を引っ張ることをする。
そして、当事者が1人しかいないようなマイノリティは黙殺されるか、撲殺される。
確か小松左京の小説だったと思うが、こんな話があった。
ある日、遺伝子変異か何かで、今の人類よりも優秀な《ヒト》が誕生する。
《ヒト》は人類を悩ましたあらゆる病気から解放され、肉体的にも精神的にもたくましかった。
だが《ヒト》の外見はまさにオニであった。
オニの子を身籠った人の女は、必ずオニを生む。
それは人類存続の危機を意味した。
旧人類は結束し、オニを滅亡させる・・・
人が攻撃性を持つとき、その根底には不安が心に宿っている。
不安がなくなれば人はまた寛容さを取り戻す。
今日はそんな人の心や潜在意識の話を書こう、とは思っていない。
先日、芸術家の盗作がまた発覚し、世間を賑わせた。
意図した模倣は盗作でありもはや芸術家ではないが、尊敬のあまり、既出の作品に似てしまうことも、やはりある。
画家がキャンバスに黄色を塗ればゴッホの影からは避けて通れず、ウルトラマリンで青を表現したらフェルメールの影響を指摘される。
小説家が『顔に迷いはなかった』と表現したら、芥川の影がちらつくこととなり、『私という現象は』と表現したら宮沢賢二の模倣となる。
オリジナルの色、オリジナルの言葉といったものは、そう簡単にあるものではない。
そして究極的なことを言えば、人が真にオリジナルを生み出すことはできない。
集合知、ミーム、アカシック、呼び方は何でもいいが、企業でも人でも、人はそのようなものからインスピレーションを得て、何かを作っている。
だから、作品や製品はこの世にはまだないだけで、すでにあるのである。
話が脱線した。
マイノリティの話である。
芸術家が作品を作る動機はさまざまであるが、芸術家は宿命的にマイノリティにならざるをえない。
この世にすでにあるもの、この世にすでにある表現について人は理解できるが、この世にはじめて誕生したもの、人がまだ不足を知らない製品などについては、誰も理解できず共感もされないのである。
だから、もしマイノリティだったり理解されない人がいるとしたら、それは喜ばしいことである。
真の芸術家であれば、誰にも理解できない作品を目指すべきである。もちろんそれは、既存の芸術を越えるものでなければならない。
マイノリティに考えを巡らすとき、一つの物語が頭に浮かぶ。
旧約聖書(創世記32)にでてくる、神と相撲をとるヤコブ(後のイスラエル)の話である。
ヤコブはいろいろ問題を抱えた人物であり、不安に包まれたった1人山の頂きにいるとき、暗闇の中で神と対峙することになる。
明日下山したら、兄と数百の民衆の手によって、ヤコブは撲殺されるのでないかと思っている。
自分の罪が、すべての不幸を導いていると、そう思っている。
そんな不安の中で、ヤコブは神と相撲をとるのである。
芸術家も同様である。いや、人間誰しも、そのようなマイノリティさを内に潜めている。
どんな凶悪な犯罪者やサイコな人でも、10万に1人ぐらいの共感を得てしまうが、誰一人理解を示す人はいず、共感もされない瞬間というのは、たった1人暗闇の中で神と相撲をとったヤコブと同じである。
人は誰しも、その自覚はなくとも、『私』という借り物の時間の中で、人類を背負って生きている。
神を負かし、ヤコブの不安はなくなった。
現代人もまた、己の恐れる絶対的なものとの対峙を乗り込え、生きることができる。