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今日の戯れ言

2019.04.11 03:22

他者に寛容を求めるマイノリティが、他のマイノリティにも寛容かと言うと、そうでもない事象が多々見られている。


少数民族が他の少数民族を迫害し、ときには滅ぼす。

特定の権利を主張する団体が他の権利団体の主張を辛辣に批判し、人気のないアイドルグループが他のアイドルグループの足を引っ張ることをする。


そして、当事者が1人しかいないようなマイノリティは黙殺されるか、撲殺される。


確か小松左京の小説だったと思うが、こんな話があった。

ある日、遺伝子変異か何かで、今の人類よりも優秀な《ヒト》が誕生する。

《ヒト》は人類を悩ましたあらゆる病気から解放され、肉体的にも精神的にもたくましかった。

だが《ヒト》の外見はまさにオニであった。

オニの子を身籠った人の女は、必ずオニを生む。

それは人類存続の危機を意味した。

旧人類は結束し、オニを滅亡させる・・・


人が攻撃性を持つとき、その根底には不安が心に宿っている。

不安がなくなれば人はまた寛容さを取り戻す。


今日はそんな人の心や潜在意識の話を書こう、とは思っていない。


先日、芸術家の盗作がまた発覚し、世間を賑わせた。

意図した模倣は盗作でありもはや芸術家ではないが、尊敬のあまり、既出の作品に似てしまうことも、やはりある。

画家がキャンバスに黄色を塗ればゴッホの影からは避けて通れず、ウルトラマリンで青を表現したらフェルメールの影響を指摘される。

小説家が『顔に迷いはなかった』と表現したら、芥川の影がちらつくこととなり、『私という現象は』と表現したら宮沢賢二の模倣となる。

オリジナルの色、オリジナルの言葉といったものは、そう簡単にあるものではない。

そして究極的なことを言えば、人が真にオリジナルを生み出すことはできない。

集合知、ミーム、アカシック、呼び方は何でもいいが、企業でも人でも、人はそのようなものからインスピレーションを得て、何かを作っている。


だから、作品や製品はこの世にはまだないだけで、すでにあるのである。


話が脱線した。

マイノリティの話である。

芸術家が作品を作る動機はさまざまであるが、芸術家は宿命的にマイノリティにならざるをえない。

この世にすでにあるもの、この世にすでにある表現について人は理解できるが、この世にはじめて誕生したもの、人がまだ不足を知らない製品などについては、誰も理解できず共感もされないのである。

だから、もしマイノリティだったり理解されない人がいるとしたら、それは喜ばしいことである。

真の芸術家であれば、誰にも理解できない作品を目指すべきである。もちろんそれは、既存の芸術を越えるものでなければならない。


マイノリティに考えを巡らすとき、一つの物語が頭に浮かぶ。

旧約聖書(創世記32)にでてくる、神と相撲をとるヤコブ(後のイスラエル)の話である。

ヤコブはいろいろ問題を抱えた人物であり、不安に包まれたった1人山の頂きにいるとき、暗闇の中で神と対峙することになる。

明日下山したら、兄と数百の民衆の手によって、ヤコブは撲殺されるのでないかと思っている。

自分の罪が、すべての不幸を導いていると、そう思っている。

そんな不安の中で、ヤコブは神と相撲をとるのである。


芸術家も同様である。いや、人間誰しも、そのようなマイノリティさを内に潜めている。

どんな凶悪な犯罪者やサイコな人でも、10万に1人ぐらいの共感を得てしまうが、誰一人理解を示す人はいず、共感もされない瞬間というのは、たった1人暗闇の中で神と相撲をとったヤコブと同じである。

人は誰しも、その自覚はなくとも、『私』という借り物の時間の中で、人類を背負って生きている。

神を負かし、ヤコブの不安はなくなった。

現代人もまた、己の恐れる絶対的なものとの対峙を乗り込え、生きることができる。