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Kozue Tsukayama Homepage

恩師、浜村昌子先生

2019.04.11 08:26


沖縄を離れ19歳になる頃の私は、神戸の小さな音楽学校で素晴らしい音楽家に出会った。それは2004年の春だった。

唯一無二なる音楽家、浜村昌子先生。

そのころのセンセはドレッドヘアー!(ファンキー)

いつも穏やかだが時折少し神経質な印象で、声色や話し方に特徴のある方だった。

音楽の現場では泣く子も黙るほど、どこかピリッとさせられるようなそんな空気をビンビンに出していた。在りし日々の先生の芸術家たる趣を思い出す。


甲陽学生時代の毎週のレッスンでの浜村先生は、いつも厳しい聴感覚で対峙してくれた。

発せられた音に対しミクロに考察をし、アドバイスをくれた。

あの頃の私はがむしゃらで、理解できない事が多かった。私自身、音楽的どころか人間的にも稚拙だった。文字通りの青二才で、テクニックばかり追い求めていた。時にはレッスンが嫌になることもあった。先生が遠すぎて理解できなかったし、できないもどかしさも募り苦しかった。

憧れが強すぎて、近寄り難かった。


とあるレッスンを思い出す。


センセ『梢さん…、もうすこしシンプルに。ちょっと弾きすぎてんと違う?やりたいことを押さえて…よく自分を聴いて。一人で弾いてても、そうでなくても、もっと環境を聴くねん。それから…、…あなたはチャーリーパーカーをコピーしてみるといいかも。次までになんかのソロをコピーを暗譜してきてね。歌いかたを真似るねんで』


抽象的なアドバイスと具体的なアドバイスのそのバランスは、私の助けになった。自分の弱さを知るのが怖くて逃げ出しそうになったこともあったけど精神的にもとても良いレッスンの連続だった。

先生の『イェー…』を引き出すために必死になっていたレッスンの日々を思い出す…。


甲陽音楽学院を卒業後…、3年近く経った2009年に私は東京へ引っ越すのだが、卒業後2006年~2008年の三年間ほど、センセーは私に色々なお仕事を紹介してくださった。

垂水JB-5での定期的な演奏の紹介、そこから派生してレギュラーとなった名谷エムズキッチンでの演奏。三ノ宮グリーンドルフィンでの演奏アルバイトのお仕事…、本当に本当にお世話になった。


卒業後しばらくして、アッコルド神戸で行った山本昌広さん(サックス奏者)とのデュオライブに遊びに来てくださったことがあった。

『センセー!ありがとうございます。でもセンセーいらっしゃると余計に緊張しますわー(汗)』

と言う私に、

『ちょっと、もうセンセーはやめてよ~。もう同じ音楽仲間やで~!』とニコニコしてくださった。

そんな私は『じゃあ先輩!いや、なんか違いますね、、やっぱり先生としか呼べないないです…!』と、慌てた。

いろんな気付きをくれた浜村先生は、ずっとずっと、私にとってかけがえのない恩師なのだ。


東京へ引っ越して暫く経ち、先生からライブのお知らせが届いた。阿佐ヶ谷のとある小さなクラシカルなお店でサックス&ピアノのデュオライブだった。

ええ、勿論行きますとも。

その日はスタンダード一本勝負。

勿論、すべて暗譜。

やっぱり、凄い。なんなんだろうこの人。の連続。

この人の音楽はどこから来ているのだろうか?オリジナルをやってもスタンダードジャズをやっても関係なく、ハマムラマサコの音楽。

地底から抉るようなピアノの音。

紡ぐ旋律は呼吸のよう。嘘が無い。その衝撃は、以前からもその後もずっと変わらずにいた。

この人の音楽をずっと信じよう。目標にしよう。その時も改めて感じた強い憧れ。アーティスト浜村昌子の演奏を生で聴くことは私の一番の学びだった。

なんなんだろうね、本当に。

今でも解らないんだよね。なんなんだろうね、あの人の音楽。どうやってもたどり着けない境地。

未だに解明できないまま、センセー、虹の橋渡っちゃったー。


大病されている…という知らせを、旅立たれる一週間ほど前に聞いた。約一年も闘病されている事実は後になって分かったが、居てもたってもいられなかった。すぐに神戸へ出向いた。

気づけば、ご子息ミアキくんが生誕されて数ヶ月した後、後れ馳せながらのお祝いを持参しご自宅を訪れた時以来だった。


緩和ケア病棟だった。辛い闘病生活をうかがわせるご様相に、一瞬戸惑った。

『センセー、ご無沙汰です。わたし…藝大もなんとか無事卒業しましたよー…それから、今年のうちに実家の沖縄へ戻り、のんびり、音楽やりながら暮らすつもりです、なんとかやってますよ』と話しかけた。

先生『そうかー、ほんまー、そうかー、よかった…』とニコーっとされた。

同行していた甲陽音楽院同期のヴォーカリスト、さなえさんは、行きしなに桜枝の切れ端を花屋で身繕った。

さなえさんが手渡しした桜の花束を見てニコっとされた。

『センセー、桜、たくさん咲いてましたよー』そう声をかけると、嬉しそうに桜を見つめた。

ナースコールを押す力も、自分で起き上がる力も、

あまり残っていなかったけど、笑顔で

『ありがとう、ありがとうねー、』って声を振り絞って言ってはった。

『おいわい(見舞い金)…、ありがとう、でも気遣わんでよー、…』

そこでさなえさん、

『センセー、おいわいじゃなくてお見舞いですよ、早く元気になってそれ返してくださいねー(笑)!こんど奢ってください!』


センセ『ほんまや…!せやな…!』と目を閉じながら笑った。

こうして、私たちは別れた。

もう少し暖かくなった頃にまた会いに行こう、そう信じ東京へ戻った。

その一週間後、先生が旅立たれた、と…知らせが届いた。


もっと前に、元気な先生といろいろな話がしたかった。ピアノ、聴きたかった。

『またね、』『今度ね、』という言葉に案じてはならない。

会いたいとき、会えるときに会いたい人に会おう。

伝えたいことは思ったときに言おう。

『また今度、』なんて、絶対じゃないからね。

人と人との繋がりほど大切なものは無いよ。

センセーにまた、教えられてしまった。


センセ―、ピアノ、また聴かせてくださいね。


(2019年4月11日ー神戸から東京へ向かう新幹線にて回想)