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4月4日 「水俣市立水俣病資料館」〜水俣病について学ぶ〜

2019.04.11 23:07


今日は、水俣病について学ぶため、道の駅と同じ「エコパーク水俣」内にある「水俣市立水俣病資料館」を見学することに。





道の駅を出て、公園内の道を北上すると、正面に工場の煙突が見えてくる。



「JNC開発株式会社」と書かれているが、ここは現在も現役、水俣病の発生源となった汚染水を流したチッソの子会社の工場である。


ここを左折し、海側に向かって進むと、小さな丘の上に立派な建物が見えてきた。



玄関は丘を登ったところにあるという。


階段をいくつか登ると、目の前には入り口が3つ。


この丘の上には、「水俣市立水俣病資料館」以外にも、国が運営する「水俣病情報センター」、県が運営する「熊本県環境センター」が並んでいた。




下から見えていたのは「熊本県環境センター」の建物であった。



我々は、当初の目的どおり、まずは「水俣市立水俣病資料館」から見学。




会館に入ると、こんな展示が。




「水俣病の国と県の責任は確定したが、裁判は続いており、未だに解決していない」






館内は「魚湧く海と大企業」「水俣病の発生・拡大」「水俣病の被害と補償」「水俣からあなたへ」の、四つのゾーンに分けられている。




熊本の南端に位置する水俣は、海と山に囲まれた自然の宝庫。


天草諸島との間に広がる不知火海は、山々から栄養豊富な水が注き込む穏やかな内海である。


そんな海辺の中央部・水俣湾周辺は、天然の漁礁(魚が好む岩場など)に恵まれた魚類の産卵場。 


魚をどれだけ獲っても獲りつくせない「魚湧く海」といわれたほどの豊かな漁場であった。



水俣湾周辺には小さな漁村が点在し、多くの漁業者は半農半漁の自足生活を送っていた。


潮が引けば干潟の潮だまりに、巻き貝やトリガイ、 ナマコなどがいて、村の誰もが好きなだけ獲れ、部屋の窓から釣り糸を垂らせば魚が釣れる、といった環境。


漁業に携わっていない人でも、日常的に海で貝や魚を獲って食べていた。


人間の暮らしの中に自然があり、また自然のなかに人間の暮らしがある、そういう関係が保たれていたという。





次のコーナーでは、チッソの企業城下町となっていった水俣の町の様子がよくわかる。



チッソは、化学工業の分野において戦後の復興、高度経済成長期の日本を支え、 発展させる原動力の役目を担ってきた企業。


高い技術開発力を誇り、次々と生産設備を更新し、製品を増産。


そんなチッソの成長と共に、水俣の町も急速に発展を遂げてきたという。


全盛期のチッソ工場と従業員の納める税額は、水俣市の税収の50%を超えており、チッソは地域の経済や行政に大きな力を持ち始め、水俣はチッソの企業城下町へと変貌を遂げてゆくのである。






そして、水俣では異変が起こり始める。



①水俣病 発症まで


1932年   チッソ、アセトアルデヒドの製造開始。


1946年   チッソ、アセトアルデヒド酢酸工場の排水を無処理で水俣湾で排出


1953年   熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。


               当時5歳11か月だった女児が発症。水俣病患者で最古の症例。


1954年   熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道


               水俣病(後に認定される)12人発症。5人死亡。



②水俣病発覚と行政の対応


1956年   「原因不明の神経疾患」として、5例の患者を水俣保健所に報告。    

                   

                水俣湾周辺地域で、子どもの脳性麻痺の発症率が急上昇中。


1957年    水俣保健所の実験で、水俣湾の魚介類を与えたネコに奇病発生


1958年    熊本県が水俣湾海内での漁獲を禁止


1961年    胎児性水俣病患者が確認。




③チッソと、チッソを守る側の対応


1958年    チッソ、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から不知火海に面し    

                た水俣川河口の八幡プールへと変更。


1959年    水俣川河口付近、不知火海沿岸全体へと水俣病患者が拡大。

               (チッソの排水が、水俣病の原因であることを証明される結果に。)


                通産省、工場排水の「水俣川河口への放出」のみを禁止し、アセトアルデヒド製造は禁止

                せず。


                チッソ、排水経路を水俣川河口から水俣湾百間港に戻し、製造を継続。

               (1968年まで排水を流し続ける。)


                チッソ附属病院の細川一院長、ネコ実験により工場排水が原因と確認。

               (ネコに工場排水を投与「猫400号実験」)

    

                 報告を受けた工場の責任者、実験結果の公表を禁ずる。


                 熊本大学医学部水俣病研究班、「水俣病の原因物質は有機水銀」と公表。


                 厚生省食品衛生調査会、「水俣病の原因は有機水銀化合物」と厚生大臣に答申。

                 「発生源は、チッソ工場が疑われる」との談話を残すに留まる。


                 答申者である調査会の「水俣食中毒特別部会」は翌13日に解散。


                 チッソ、日本化学工業協会、「水俣病の有機水銀原因説」に対し反論。


                 厚生省食品衛生調査会、「水俣病の原因を有機水銀化合物」と結論。


                 チッソ、水俣病患者・遺族らの団体と見舞金契約を結び、少額の見舞金を支払う。

                 「将来水俣病の原因が工場排水と判明しても、新たな要求を行わない」旨を条件とする。 

                  汚染や被害についての責任は認めず。


                 チッソ工場、汚水処理装置「サイクレーター」を設置し、工場排水による汚染の問題はな 

                 くなったと宣伝。

                 (のちに「サイクレーター」は水の汚濁を低下させるだけで、排水に溶けたメチル水銀の

                    除去には効果がないことが証明される。)


                  チッソ、排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結。

                 (水俣病は終結したとの印象が生まれる。)


1960年       政府は経済企画庁、通商産業省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協

                   議会」を発足。原因究明に乗り出すが、何の成果も得られず。協議会は翌年には消滅。

                  (2004年の最高裁判決では、「国や熊本県は1959年の終わりまでには水俣病の原因物質     

                    およびその発生源について認識できた」とし、「1960年以降の患者の発生について、

                    国および熊本県に不作為違法責任がある」ことを認定される。)


こうして、水俣病の発生と原因究明、企業による隠蔽、行政の不適切な対応や対処の遅滞などにより、水俣病の被害は拡大してゆくことになるのである。





④国が正式に、汚染源をチッソと認める


1963年     入鹿山且朗熊大教授が「チッソ工場アセトアルデヒド酢酸設備内から有機水銀塩を検出

                 た」と発表。


1964年     白木博次東大医学部教授が「水俣病の原因がメチル水銀である」とする論文を発表。


1968年     厚生省「水俣病はチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化

                 合物が原因である」と発表。

                (この発表前に、チッソはアセトアルデヒドの製造を終了。)



国が正式に「水俣病発症の原因をチッソの水質汚染」と認めるまで、12年が経過していた。




水俣病発覚から12年もの間、チッソは工場排水を水俣湾周辺に流し続けた結果、水俣病の被害者数と水俣湾の汚染は拡大の一途を辿っていった。



被害が認められた後、認定と補償に対する問題が噴出。

未だ、解決に至ってはいないという。



患者認定が受けられなければ治療費や薬品にかかる費用も自己負担。





※水俣病を取り巻く差別と偏見


水俣病は身体的な被害のみならず、社会的被害も多くもたらされ、今尚、多くの水俣市民を苦しめ続けている。


被害状況については、


伝染病と間違われ、患者さんの家を消毒したり、病院でも患者さんを隔離したりした。


病気の原因として魚が疑われるようになってからは、捕った魚が売れなくなった。 


チッソの城下町水俣では、患者さんを疎ましく思う雰囲気があり、市民間でも患者さんと健常者との対話は途絶え、地域社会の繋がりも壊れていった。


水俣病が空気や食べ物で感染したり遺伝したりする、水俣地方特有の病気(風土病)と間違われ、水俣市民がよその地域の人から差別されることもあった。


水俣出身だということで就職や結婚を断られたり、水俣を通るときは汽車やバスの窓を閉めたりするなどの差別を受けた。


補償金や一時金をもらったことを非難されるなど、理不尽な仕打ちが繰り返された。



など、他にも多くの差別や偏見、中傷に悩まされてきたという。





ここでは、壊された自然環境や、地域の人間関係を回復しようとする様々な努力などについて紹介されている。






昨年2018年5月、水俣病犠牲者慰霊式後の取材で、チッソの後藤舜吉(前)社長が「(水俣病患者の)救済は終わっている」と発言し、物議を醸している。

今尚、患者認定を求め、訴訟も続いている状況下でのこの発言に、批判の声が上がった。


チッソは、水俣の子会社JNC株の売却を進めている真っ最中。


水俣病の「最終解決」を掲げる特措法では「救済の終了」を条件に、環境相了承の上でJNC株を売却できることになっているが、チッソの株を売却後は会社の清算が可能になる為、補償の主体が消えると懸念されているという。



1953年の最初の水俣病患者発症から64年。


チッソという会社を負債を背負い続けることは、この会社の責務。


水俣病患者の闘いの日々は、まだまだ終わってはいない。

 




同じ敷地内にある「水俣病情報センター」(環境省)、「熊本県環境センター」(熊本県)と続けて見学。


「水俣病情報センター」では、主に科学的な見地から、水俣病が発生した原因、調査、改善に向けての取り組みや、日本が水俣病の知見を生かし海外で実施している「体内の有機水銀検出」等に関する技術協力などを紹介している。


また、「熊本県環境センター」では、ゴミ分別などの環境保護活動と地球温暖化への理解促進などを主眼に置いており、国、県、市が、それぞれ住み分けをして、トータルで水俣を捉えるという流れになっている。



最後に、「水俣メモリアル」で水俣湾をのぞみ、この地に流れた60数年の時の流れを思い、この地の人々が守ろうとしたものとは、一体何だったのかを考えた。




仕事、当たり前の日常、自然、土地、家族、仲間。


国を守り、会社を守り、家族を守り、ただ一心に突き進み……。