Ride in Setouchi & San-in Day 27 (11/4/19) Komine Castle Ruins 高嶺城
朝田神社
障子ヶ岳城
朝倉八幡宮
湯田温泉
山口大神宮
高嶺城
山口城 (レポートは翌日に含める)
今日から山口市を見て回る。ここには大内氏に所縁の史跡が多くある。ここは西の京都と呼ばれておる大内の統治の時代に京都の文化を移植している。その点にも興味がある。
朝田神社
周防五の宮。15代義興が九州の少弐政資・高経と大友氏との戦勝祈願の五社詣で神馬と神楽を奉納。この時代は激動の時代で足利幕府での将軍の後継者争いで、戦国時代に突入。大友氏や尼子氏との戦争に明け暮れていた。(毛利元就は尼子側に寝返っていた頃)
障子ヶ岳城
16代大内義隆が家臣の陶隆房に謀反で自害し (寧寺の変)、陶隆房が厳島の戦いで毛利元就に敗北自害、陶隆房の傀儡であった17代義長 (大友宗麟の弟)も毛利勢に追い詰められ長府で自害し大内氏が滅亡となった。この後、弘治3年(1557年)11月10日、大内氏の遺臣らが大内義隆の子・問田亀鶴丸(大内義教)を擁立してこの城で挙兵した。しかし、毛利氏方についた叔父の内藤隆春の急襲を受け、翌11月11日の妙見崎の戦いで敗北。草場氏らは討死し、亀鶴丸は捕らえられて処刑された。私有地で中には入れなかった。
朝倉八幡宮
859年宇佐神宮を勧請。1502年義興は神霊を今八幡宮に迎え祭祀を行った。この神社は幕末期に京を追われた攘夷派公家(七卿落)が山口に落ちていた際に湯田に滞在しこの神社に度々攘夷祈願をしていた。奉納した和歌を見るとその想いのほどがわかる。
ここで出てくる宇佐神宮は九州の旅で訪れた。
湯田温泉
七卿が滞在した湯田は1200年から続く山口の温泉街。歴史は古いのだが、湯上りに浴衣をきて繁華街を散歩という様な温泉街ではなく、ほとんどの温泉宿が近代的な容姿になっている。
山口大神宮
永正17年(1520年)創建。以前に京都で足利幕府の管領代をつとめていた大内義興が、山口に帰国後、伊勢神宮と同じ形式の神明造りで造らせた。内宮と外宮があり、内宮は天照大神、外宮は豊受大神を祭っている。西のお伊勢さんと呼ばれ江戸時代は参拝客で賑わった。
高嶺城 (こうみね)
天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢が敗れて自害した後、毛利元就に備えるべく、高嶺城は弘治2年(1556年)より築城が開始された。毛利氏による攻勢は予想以上に早く、弘治3年(1557年)に毛利氏が山口に侵攻した際には、大内義長は未完成のままの高嶺城に拠らざるを得なくなる。結局、大内義長や重臣の内藤隆世はこの城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなる。
大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され、完成を見た。毛利氏による山口支配の拠点となった。
この城への登山口が山口大神宮の下宮脇にあり、そこから標高約300mまで登る。初めは階段が続き比較的整備されていると感心したのだが、途中で山道となった。ここからは山頂近くの休憩所までは表示もなく山道らしきものを登っていった。途中、石垣や門らしき構えのところがある。
城郭に到着。ここからは山口市内が一望できる。山口は四方を山で囲まれた盆地にある。
城郭は山の尾根沿いに主郭までいくつもの曲輪があった。主郭は崩れて入るが石垣に囲まれていた。この石垣は大内の時代ではなく毛利時代と考えられている。
下山は別のルートを通ることにした。ほとんど整備されておらず山道らしきものがいくつもあり、結局、道に迷ってしまった。急な斜面を滑りながら降りる羽目となった。途中転倒し、岩で手を擦りむき血だらけとなる。ようやく国道に出る事が出来た。毛利がここを攻めのぼったのかと感心してしまった。出た所には立ち入り禁止の表示板があった。
この後に山口城跡に行くが、レポートは明日に含める。登山で時間を使ったので、まだ見れていないところがある。