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ダンス評.com

柿崎麻莉子「個人と社会の境界としての身体2019」カフェ ムリウイ

2019.04.12 16:27

イスラエルのバットシェバ・アンサンブル舞踊団(BATSHEVA)に入団、現在はLEV舞踊団に所属し、世界中で踊っているダンサー、柿崎麻莉子さん。バットシェバ舞踊団のメソッド「GAGA(ガガ)」にも興味があったので、行ってみた。2019年4月12日(金)19:30~21:10ごろ(?)。

「performanceではなく、shared experience」だそうで、カフェの床にスペースを設け、その三方を20人ちょっとくらい(?)が座る客席が囲んでいるというアットホームな空間で、柿崎さんと観客が対話しながら進行。トーク&ダンスのイベントだ。

テーマは「時間」で、以下の4部に分かれていた。1部が終わるごとに短い休憩があった。1. 踊っているときの時間、2. どうして時間のことを考え始めたか、3. 主観的な時間と客観的な時間、4. 無音でダンス。4. 以外でも、時折ダンス(体の動き)が入る。

「話」を聞くのは、正直、少しつらかった。「時間」について話し出すのだが、まずその定義が曖昧なまま、ご本人の頭の中ではその時々で想定している定義があるようなのだが、それがうねうね動いていくので混乱する。「時間」という言葉には、計れる(ことになっている)「時刻」や、もっと広い意味での「時」が含まれると思うが、てっきり「時」について話しているのかと思って聞いていたら、最初は「時刻」の話だったらしい。私の脳の癖のようなもののせいで、なんだかよく分からない踊りや絵なら見ていられるが、意味付けが成されてしまう言葉でそれをやられるのは苦手だ。ナンセンス詩くらいのものになれば、それはそれで楽しめるのだが。論理的でない話を聞いたり読んだりしていると、いろいろなことが気になって、疲れてしまう。

話の矛盾点などが気になって、ダンスをあまり集中して見ることができなかった。また、先に話を聞くと、穏やかそうにしているけど勝気そうな人だなあなどと考えてしまい、そうすると人対人としてその人をどう思うかという方向に感情や思考が動いてしまう。そうなるとそれが邪魔をして、体と動きをそれそのものとして見ることが難しかったというか、ダンサーとの物理的な距離が近かったにもかかわらず、分厚い壁が立ちはだかっているような、遠くから眺めているような感じがして、入り込めなかった。話の持っていき方がちょっと無理やりなような印象があり、その影響で動きもどこかわざとらしく見えたりした。

しかし、時間は個人的な感情などによって感じ方が変化するという話があったので、まさに、思考や感情によって空間や動きの捉え方がゆがめられたということで、そう考えれば面白いかもしれない。

ダンスを見るときは、ダンサーの人柄や考え方や性格とは切り離して体と動きを見たい、と思う。もちろん、人柄やダンスに対する姿勢などは何も言わなくてもにじみ出るものであるし、ダンサーや振付家のダンスワークショップに参加すると、その人の人柄や自分との相性は重要だと思うのだが。ダンサーとしては、踊っているときは踊りだけ見てほしいと思うだろうか。それとも、例えばその踊りについて言葉で伝えた上で見てほしいと思うだろうか。人柄とは関係なくダンスを見たいなどと言うと、ダンサーはオブジェのように扱われているようで嫌な感じがするかもしれない。こちらの身勝手なのかもしれない。

時計で計る人工的な時間ではなく、体が感じる自然な時間がもっと大切になる(といいと思う)、という話だったのか。踊っているときは時間が消えて、体が未来にいて時間の方が追いかけてくるみたい、とか、子どもは落ちる花びらや走る自分の体に心を乗せているが、大人はそうしなくなってしまっている、という話などは興味深い。動きに心を乗せたいと思うが、現代社会でそれをずっと続けるのも難しいかなとおっしゃっていたのは多分その通りだ。時計の時間に支配され過ぎても人間は「壊れる」が、現代社会で大人が子どものころの感受性や想像力を常に全開にしていたら「つぶされる」だろう。今は、下手したら子どもも全開にしてはいられない環境かもしれない。

踊りはあまりちゃんと見られなかったが、体にばねがあるダンサーだと思った。笑顔の下に怖いものも住まわせているような野性味があった。この印象は、「話」がなくてもきっと持っただろうと思う。一緒に踊る人がいないときは、自分の重力や鼓動や記憶と一緒に踊れるかもしれないと言葉で言いながら体で実践してみているのは少し面白かった。

自分も矛盾がいっぱいだなと思う。だから終わりがなくて他者も自分も興味が尽きないのか。

今度は、柿崎さんのperformanceも見てみたい。