「自愛とは何ですか?自分を大切にするってどういうこと?」
1カ月ほど前、とある女性ヒーラーさんからレイキヒーリングを受けました。
レポートの中に「慈愛・・・自愛かな。そういうキーワードがありましたよ。」と報告を頂いたんですね。
でも、スピリチュアルな意味で言われる、慈愛も自愛も、わかってそうで大変わかりにくい言葉ですね。
スピリチュアルとは、知識量ではなくて体感が伴って、その<言葉の意味を生きること>だからです。
ところが後日、その意味がジワジワと理解できるようになった、その経緯を書いてみます。
随分昔に、また別な男性ヒーラーさんのセッションを受けた時にも
「どうして君はそんなに自分を大事に出来ないの?」
と言われたこともあったんですね。
反発ではなくて、
「自分では、大事にしていると思っているんですけど、足りないのでしょうか?」
と聞き返したことすらありました。
好きなモノを食べて、欲しいモノを買って、好きな芸能人に会いに行って、好きな仕事をしている。
もちろん欲しいモノの全てを手にしたワケではないけど、可愛い子供達がいて、しっかり働いてくれる主人もいる。
好きな事はそこそこしているつもりでした。
しかし、前出のヒーラーさんに言われた言葉が、折に触れ自分のどこかに残っていて、1カ月経過した間に、満を持してきたのを感じることになったのです・・・・
私自身がヒーリングを仕事をしている時、お客様にもよくお伝えすることですが、
「ヒーリングは日常の延長線上にありますよ」
と話します。
ヒーリングを受けている最中、
「こんなビジョンが見えました!すごかったです!!」
ということも確かに起こる人もいるのですが、そんなことは実はあんまり重要じゃないんです。
ヒーリングを受けるのは単なる一つの行為でしかなく、大切なのはその後の生活の中に埋もれています。
そして、いかにその生活に散りばめられたヒントを、自分に寄り合わせことが出来るか?だと思うんですね。
要はコネクティング・・・つなぎ合わせること。
それは無理矢理何かをくっつけて、癒しの形を作り上げるのではなくて、自然と合わさるパーツを自然の流れの中で見つけていくことです。
それらを前提にするなら、レイキヒーリングを受けた後、本当に小さなパーツが順番通りやってきて、私に
「自愛とはなんだ。自分を愛するってどういう意味か。
慈しむってなんだ。それを理解して日常に反映するってどういうことか。」
という問いかけが、どんどん近づいてくるようになりました。
先ほど、
<好きなモノを食べて、好きなことをして・・・自分を愛しているつもりだけど足りないの?>
という事を書きましたが、自分のことというのは本当に見えてなくて、結局外側の事象に振り回されていたんですね。
今更ながらそれに気付いて、もうびっくりでした。
なんだエラそうなこと言っときながら、自分が外側にこんなにも依存してたなんて・・・(笑)
自愛ってそういうことじゃないんだ。
大好きなモノとか、大好きなこととか、大好きな人達とか、大好きな仕事とか。
どうしても人間の目は、外側しか見られない作りになっているから、そこに何か答えがあるんだろう、と(かなり無意識に)思っていた自分がいたのです。
ところが、
仕事が思うようにいかなくても、
立派な料理を作れなくても、
最近体重がとみに増えてしまっても、
子供達が言うこと聞いてくれなくても、
願っていた人生とはずいぶん違う環境に生きていても・・・
それらは何にも関係なかった。
ええ、関係などなかったのです。
その時、ある本の1ページから【プレゼンス】という言葉が飛び込んできました。
プレゼンス(presence)=存在。
私は存在しているだけで良かったんだ。
アイアムプレゼンスって、どこかで聞いたことがあったけど、そうかそういう意味だったのか。ってね・・・
合点がいったのですよ。
私とはアイアムプレゼンスであったこと、その事実以上に大切なことなど(もしかしたら)ないのかもしれません。
仕事は私ではありません。
仕事がうまく行ってもいかなくても、存在の前では小さなことでした。
私は子供達や主人がいるから素敵な奥様なのではありません。
結婚や育児がどうであろうと、存在の前では小さなことでした。
料理に興味が無い自分はダメではありません。
料理が得意じゃなくても、素敵な手作りお菓子を作れないお母さんでも、存在の前では小さなことでした。
子供が言うことを聞いてくれないから、母親失格なのではありません。
ダメな母親だったとしても、存在の前では小さなことでした。
それは条件付きの愛ではありません。
条件がついていようがなかろうが、存在の前では小さなことでした。
その事がわかったら、逆に仕事をすることも、休むことも楽になりました。
子供と一緒にいる時間が今までより楽しめるようになりました。
焦りの気持ちが抜けました。
一度はこの理由なき自信に充ち溢れていた私がいたのに、子育てに明け暮れているうちに自尊心はボロボロになり、何度も心折れているうちに、すっかり見失っていたものでした。
それは全く新しい発見などではなく、単に思い出した、私はそれを知っていた。ということです♡
そして、それは特別な誰かにだけわかるものではなくて、誰の前にもあって、気付こうとするその思いだけあれば、いつでもそこにあるものなのです。