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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 29 (13/4/19) Ouchi Family Castle Ruins 大内氏城館跡

2019.04.15 01:52

幕末維新関連史跡

大内氏関連史跡

幕末維新関連史跡


赤禰武人の碑 (あかねたけと)

これは幕末期の第一次長州征討の出来事。この第一次長州征討で幕府との和議交渉で長州藩は藩論が真っ二つに割れていた。幕府への恭順を主張する俗論派と高杉晋作に代表される主戦派の正義派。赤禰武人は正義派に属し、高杉晋作が創設した奇兵隊の三代目総管を務めていた。俗論派と正義派の融合を目指し調停には紛争するが、主戦論の急先鋒の高杉晋作と激しく対立。赤禰武人は正義派から孤立したが、なおかつ説得活動をしていたが、結局捕縛され、この地で処刑された。正義派の中でも色々な考えのグループがいた。高杉晋作などは過激急進派でやはり孤立していた。ただ晋作の凄いところはその行動力だ。少人数しか決起に参加しない中、クーデターを敢行。少しずつ成功し、共感者を増やし大業を成した。彼は先頭に立ち、自ら実行する独裁者的リーダーと思う。ただ、彼が存命で維新まで活動していたとするとやはり孤立していたと思われる。

安部本陣跡/枕流亭跡

薩長同盟は、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都の小松帯刀邸で締結された。その後、慶応3年9月に長州藩と薩摩藩はこの安部家本陣の離れ「枕流亭」で同盟の密議を行った。長州藩からは、桂小五郎、伊藤博文、薩摩藩からは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、そして仲介役として坂本龍馬が参加。

その際、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らは、この安部家本陣を宿舎とした。

この枕流亭が公園に移設復元されている。(翌日訪れた)

山口の御茶屋跡

今は公園になっている。向かい側に今の茶屋がある。御茶屋とは江戸時代は陣屋の事。大内氏の重臣・陶晴賢の旧邸地とその西隣の一画とを敷地として使用。1863年3月に毛利敬親が藩庁を萩から山口に移す決定をして、1864年10月に山口城に移るまでここで執務を取り、長州藩を指揮。実際は山口に正式に藩庁を移した後も1866年半ば頃まではここに滞在した。理由は書かれていないが、藩庁より陣屋の方が人の出入りが身近に感じられ、世の中の動きがより早く入ってきたからかもしれない。


毛利敬親は「そうせい候」と呼ばれていた。家臣の進言に対しては「そうせい」としか答えず、執務は家臣に任せていたと言われている。一般的に彼の評価は決して高くなく、むしろ無能の様に言われている。本当にそうなのかには疑問がある。彼が藩主となって財政の再建や人材育成は成果があった。決して愚人ではない。幕末期に超過激な正義派と幕府への恭順を貫く俗論派を紆余曲折はあったにしろ上手く使ったのかも知れない。これは一つのリーダーの形かも知れない。自分の能力の限界を知り、その能力のある人材を活用する。そんなタイプの人ではなかったかと思う。

山口明倫館兵学寮跡

先に述べた敬親が推し進めた人材育成機関の明倫館の兵学部門の寮があった所。

錦の御旗製作所跡

案内板は内命とある。便利な言葉だ。内々にと言う意味だが、公に出来ない命令でもある。何故、京都でなく長州迄わざわざ材料を持ち込み作成したか? つまりこの命令はでっち上げであった。半分は京都の薩摩藩邸で残り半分は長州に持ち込まれた。この事を見ると、木戸孝允と西郷/大久保が深く関わっていたと思われる。

十朋亭 (じゅっぽうてい) / 高杉•山縣等寓居地

幕末維新の立役者として大商人の存在がある。この山口での協力者も一人が萬代家である。十朋亭は、代々醤油の商いを家業とする萬代家の離れとして建てられ、萩から山口へ藩庁を移した際、この十朋亭が藩の役人たちの宿泊所となり、当主・萬代利兵衛が志士達の活動を支援していた。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、周布政之助、井上馨、伊藤博文などがここを利用している。現在は山口市に寄贈され維新館として使われている。萬田代家の醤油業は数十年前に店じまいとなったそうだ。

館内は4つの建物で構成されている。

豪商・萬代家の離れ。幕末・明治維新期には、数多くの志士たちが密会を開いていた。

萬代家の建物の一つで、吉田松陰の兄・杉民治が、明治のはじめ頃に私塾を開いていた場所。

茶室として明治22年(1889)頃に建てられ、その後主屋に改修。

幕末・明治維新期の歴史資料の展示。館員さんたちが非常に親切で、館内の案内解説や、山口県の良い所などを丁寧に教えてくれた。帰りに少し事件があった。自転車がもと置いたところにない。自転車置場と違うところに停めたにで移動されたかと思い、そこに行ったが無い。面倒になるなと思う。盗難であれば厄介だ。館員さんに移動したかと聞いたが、移動していない。みんなで自転車を探す。何のことは無い、近くの駐車場に移動されていた。みんなでホッとした。多分この近所の口うるさいおばさんが、団体客が入った時に駐車場が足りないとかで館員さんが責められていた。駐車に自転車が邪魔なので移したのだろう。良く目にする光景だが、こういう施設は市が管理して職員が対応している。だいたい地元のうるさ方の対応に苦慮している。館員さん、頑張って!

この隣に、観光案内所の様なものがあった。ふらっと立ち寄った。女性が一人いた。NPO法人を作ってこの地域の町おこしをやっている。10年前に、この地に惚れ込み住み始めた。町おこしは大変だ。なかなか軌道に乗らなかった。やっと地域住民に同化し始めたかなという感じだそうだ。古い古民家を利用した店舗やアトリエとかの支援を行っている。試行錯誤の毎日が続いている。彼女が良い事を言っていた。町おこしは若者が必要、若者さえいれば何とか前に進む。問題は過疎化で若者が少なくなり老人ばかりになる事だ。山口も過疎化が大きな問題。やっていて楽しいのは、自分の場所に若者たちが遊びに集まって来て色々な話や企画を相談している時。

みんなでやったのが鯉のぼり。ここは京都と同じく鰻の寝床形式の家屋が並ぶ。鯉のぼりを大量に貰ったが上げる場所が無い。考えたのが古民家特有の軒先のひさしに引っ掛けるアイデア。これを続けるといつか、これが伝統と思われる様になれば良いですねと話をした。頑張っている女性生き生きしている。頑張って欲しい。

もう一つは番地表示を洒落た物に変えた。

京都と同じく碁盤の目の区画になっていて、街に名前も京風を保っている。ちょっとした事だが、これを見ると地域の人達は、この地域に誇りが持てるだろう。ちょっとした事でもやってみる事だ。

大内氏関連史跡


Ichinosaka River 一の坂川

周防・長門の守護となった第24代大内弘世は、京の都に模した街づくりをするため、京都盆地に酷似した山口に本拠を移したといわれている。中央に本拠を置き、街を縦横に区画、街路名を大路・小路と京風にしていた。

一の坂川は京の鴨川に見たてられた川で、京の都を懐かしみ宇治のゲンジボタルを取り寄せ一の坂川に放したのが土着したものと伝えられている。個人的には鴨川より好感が持てる。川幅も短く、ビルも立っておらず静かで、川のせせらぎが感じられる。

川に沿ってアーケード街がある。比較的シャッターが閉まっている店は少ないように思えた。地方都市としては山口は元気がある方か?

御連歌所 笠着堂

山口祇園会に際し連歌会が興行されていた。これも京文化の影響。京に対しての憧れが大内氏は非常に強い。その時代は足利幕府がどんどん公家化していた。大内氏も公家文化の移植に力を入れた。それが山口が西の京都と言われる始まり。

Ouchi Family Castle Ruins 大内氏城館跡

大内氏城館の遺構は残っていないが、跡地には龍福寺、築山神社、八坂神社がある。敷地は広大で、この城館を中心に京と同じく街並みを碁盤の目で区画割をしていた。現在もその区間が残り当時の地名が使われている。

毛利隆元がかつての主君31代義隆の菩提寺として、1557年に大内氏館跡に再興した寺。しかし、明治14年の火災で、禅堂と山門を残し焼失。そこで再建に際し、大内氏の氏寺であった興隆寺の本堂を移築。

かつて龍福寺は白石の地にあり、18代満盛が創建。1336年、23代弘直が再建して弘直の菩提寺となり、1551年の天文の乱(大内氏の重臣陶氏の反乱で義隆は自刃)で焼失、その後、毛利隆元が再興。

義隆の供養塔、辞世の和歌、銅像がある。

義隆は尼子攻めの失敗で、養子も失い、戦に対しては嫌気がさし、これ以降、文治政治に移行し、自らは京の公家文化に浸ることになる。この道楽費用のため領民の租税が増えて、民衆の生活を圧迫、財政難に陥ってしまった。これが武断派の陶晴賢の謀反に繋がって行く。陶に攻められ義隆は自害。この後、大友宗麟の弟が養子として最後の大内家当主義長となるのだが、大内氏は実質上、この義隆で終焉を迎えたと言って良い。

境内に資料館がある。お寺なのだが、ザビエルの展示もあった。確かにザビエルは大内氏城館に幾度となく訪れただろうし、この城の周りの街で布教をしていた。大内義隆と毛利元就の会見の様子が人形で展示されている。輝元は大内氏の人質でこの山口に暮らしていた。義隆は元就を可愛がっていたと言われている。もし陶晴賢が大内義隆に謀反を起こさなかったら毛利元就はどうしただろう。元就主導で謀反を起こし、やはり陶晴賢とは対立し陶を始末したと思う。

発掘復元された遺構。庭園跡と土塁

築山館は、山口に居館を移した大内弘世の子義弘によって別館として築かれる。弘世の代には周防一国の守護であったが、義弘の代になると周防・長門・豊前・筑前の守護となり、大内氏館(大殿大路)が手狭になったため、これに対応するために築かれ、単に別邸と云うわけではなかった。

  • 八坂神社

大内弘世が応安2年(1369年)に京都から勧請したもの。永正16年(1519年)に大内義興が大神宮を高峯山麓に建立したとき、本社もその地に移し、社殿を新築した。現在の本殿は江戸時代の末期毛利氏が永正16年に建立したもの。

大内氏とは全く関係ないのだがここにレトロな写真館があった。

山口ふるさと伝承総合センター

ここは江戸時代以降の古民家を利用したカルチャーセンターと言ったものだ。ここでは大内文化の民芸品などの講習が行われている。

面白いのは酒樽茶室というものがあった。造り酒屋の庭に大きな酒樽を茶室として利用したものだ。それと、蔵を利用して蛍の飼育をしている。時期になると一の坂川に蛍を一斉に放つ。これも大内文化の継承。