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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

~ショパンの手となり足となり、フォンタナ~

2019.04.14 02:53

ショパンの演奏活動や出版の売り込みはフォンタナとの二人三脚だった。

フォンタナの先祖はイタリアの出身で建築家だった。フォンタナは11月蜂起後はロンドンに住んでいたこともあった。ショパンはフォンタナのこうしたイタリア的なセンスと当時最先端なロンドンで得て来たセンスを高く買っていた。

ショパンがサロンで演奏するときの衣装や部屋の内装の飾付けなどフォンタナにすべて任せたショパンだった。そのうえ、フォンタナはショパンと共にヨーゼフ・エルスナーに学んだワルシャワ時代の同級生であり、フォンタナの生真面目で決められたことを完璧にこなす性格をショパンは見込んでいたのである。そのうえ、フォンタナはショパンの作品も易々と演奏が出来、ショパンの作品の経緯いも古くから知り尽くしていた。フォンタナ自身も作曲家であった。ショパンにとって頼もしい友人であり、これ以上のビジネスパートナーは他にはいなかった。

フォンタナ自身もショパンの才能に惚れ込み、ショパンの手となり足となり仲間としてショパンを支えることに自分の存在価値をを見出すと同時に、ショパンの作品を通してショパンの才能の謎を解きたかったのかもしれない。そうしているうちに、フォンタナは自分にはショパンのような才能はないことを自身で知ったのであろう、ショパンの影でショパンを支える一方で、初めはショパンの指示を受けてからフォンタナ自身もショパンに提案を出し、ショパンの承諾を得て出版の交渉をしていたフォンタナだったが、次第に自分の采配で作品を改ざんするようになった疑惑を持たれた。ショパンも知ってか知らずか、自分の身体が間に合わないときはフォンタナに任せて来たのことに時々はストップをかけざる得なかった。

しかし、それでもショパンとフォンタナの友情は壊れなかった。

フォンタナとショパン、ふたりは支え合って生きていたのであろう。ショパンが亡くなる2年前にショパンの夢であったアメリカにフォンタナは行っている。

ショパンはそのことを自分のことのように喜んでいる。身体が元気で自由が許されるのならアメリカへ行を真剣に考えていたショパンだったからだ。

ニューヨークデビューではリストやタールベルクの作品を演奏したフォンタナだったが、その後、ショパンの代わりにショパンの作品をニューヨークで紹介したのもフォンタナだった。フォンタナは家族を持ちショパンよりも長生きしたが最後は悲し運命を辿った。

ショパンとフォンタナ、この二人の人生がひとりのものであったなら、どれだけ人生に成功したかしれない、しかし、人の人生は天才でさえひとりが全部を手に入れられるようにはできていないものだ、そこに憂いを感じずにはいられない。

ワルシャワの聖十字架教会は、一部はフォンタナの先祖によって設計され戴冠式や王室の行事によく使われてきた1600年代の建物だ。そこには今もショパンの心臓が収められていることはショパンとフォンタナの奇遇な運命の巡り合わせかもしれない。

ジュリアン・フォンタナ Julian Fontana (1810年7月31日 - 1869年12月23日)

二つのポロネーズop40-1,2はショパンがフォンタナとの友情の証にフォンタナに献呈された。ポーランドのピアニスト、作曲家、弁護士、作家、翻訳家、そして起業家であり、フレデリック・ショパンの親友であり秘書でもあった。

ジュリアン・フォンタナ(1810年7月31日ポーランド、クラクフ - 1869年12月23日パリ)

フォンタナの祖先はイタリアから移住し、何世代にも渡ってポーランドに住んできた。

先祖の多くは著名な建築家。1600年代半ばに建てられたワルシャワの聖十字架教会の一部はフォンタナ先祖によって設計され戴冠式や王室の行事に使われてきた。ジュリアン・フォンタナの父ヤン・フォンタナは、ポーランド王国の最高内閣の地位を務めた。1830年11月蜂起のロシアに対する反乱の後、家族の財産は没収された。

フォンタナは多くの才能を持ち、ピアニスト、作曲家、演奏家、法律を学び、ジャーナリスト、作家、実業家であった。彼は、言葉を自在に操り、ポーランド語以外にフランス語、スペイン語、英語、ドイツ語、イタリア語に堪能だった。ヨーロッパやアメリカで親友フレデリック・ショパンの音楽を出版することにフォンタナ自身の才能の多くを使った。1849年にショパンが亡くなった後、フォンタナはショパンの一度も出版されていない手稿をショパンの家族のために世に送り出した。フォンタナはショパンの死後、この仕事に10年近く取り組んだ。彼はこの努力に対する報酬を辞退したため「愛の労働」とフォンタナの功績は称えられた。

1835年、ロンドンで6人の演奏家によるコンサートに参加した。1840年、ショパンはマヨルカ島のパルマで書いた「二つのポロネーズ」をフォンタナに献呈した。

フォンタナはロンドン移住した。スペインの植民地でキューバでショパンの音楽を演奏(1844年から1845年)した。1845年から1851年ニューヨークで演奏。その後、数年かけてハバナ、ニューヨーク、パリ、そしてポーランドを行き来し、1852年にフランスに戻りアダム・ミツキェヴィチと親交を結んだ。1855年に彼の妻は亡くなり、彼は故人の遺産を取り戻すこと失敗し再びキューバを訪れる。

1860年、ルイ・モロー・ゴットシャルクは彼に2つの曲を献呈した。同年、彼はセルバンテスの≪ドン・キホーテ≫をポーランド語に翻訳した。フォンタナはその間すでに聴覚障害者だった。1869年に彼は民俗天文学の本を出版した。

フォンタナは難聴と貧困に屈し、パリで一酸化炭素を吸入することで自殺した。モンマルトル墓地 "Jules Fontana"という名前でポーランド人亡命者の共通の場所に埋葬されている。フォンタナは死の前に、息子がイギリスの彼の妻の家族と生き残り住めるよう手配していた。

(ブログ2919.2.16 ≪Chopin, それぞれのパリ1834年 Addio...≫にもフォンタナに関する記事掲載)