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4月7日 熊本博物館を見学

2019.04.15 14:48


今日は、昨日に引き続き、熊本城へ。


三の丸駐車場の隣にある「熊本博物館」を見学することに。


1978年、黒川紀章建築による、やや凝った作りの市営博物館で、昨年末にリニューアルしている。


一階が熊本の歴史、二階が熊本の自然に関する展示が。


まずは、熊本の歴史についての展示を見学。


入ってすぐ、肥後藩細川家の屋形船が、ドンと展示されている。


二階建てのお屋敷が船の上に乗っかったようなもので、レプリカではなく実物。


写真禁止なのが残念。



続いては石器や土器、青銅器についての展示。


これは、特に目新しいものはなく、たくさん展示してあったが横目でスルー。



ありきたりな展示品の前からは、足早に通り過ぎていくうちに、「鞠智(きくち)城」という、

朝鮮式の山城のパネルが目を引く。



東アジア情勢が緊迫した7世紀ごろ、663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷が、大陸からの侵攻に備えるため築いた城である。


中国・朝鮮からの影響が大きく、日本にはほとんど見られない様式だ。 


歴史公園としても、なかなかのスケールなので、後日行ってみることにしよう。





次に、「礫石経」という、石の一つ一つに異なる文字が書かれた石の展示。



中世から江戸期にかけ、地鎮や鎮魂を目的としてこうした「一字一石経」が制作され、経筒に納められていたという。


記されたのは『法華経』の経文が多く、一つの遺跡から通常5-6万点ほど出土するらしい。






古代から中世に入り、武士階級が台頭してくると、熊本地方は小さな勢力が群立することになる。


南に島津、北に大友といった大勢力に囲まれたこの地域は、それぞれが勢力を伸ばそうとする係争の地であった。



その後、豊臣秀吉によって熊本地方に封じられたのが、熊本を代表する武将として最も親しまれている加藤清正である。






尾張国の刀鍛冶の子として生まれた清正は、豊臣秀吉に仕えて戦功を重ね、肥後の北半分を与えらた。


南を治めた小西行長とはライバル的な関係にあり、朝鮮出兵ではこの2人がそれぞれ一番隊(小西)、二番隊(加藤)を率いて攻め入った。


秀吉の死後、関ヶ原の戦いで、清正は徳川方につき、敗れて処刑された行長の所領とあわせて肥後全土を治める52万石の大大名となった。


清正は連戦連勝の武将としてだけではなく、熊本城をつくり、熊本の用水路などのインフラを整備した功績などが地元で高く評価されており、「清正公さん」(せいしょこさん)と呼ばれて熊本県民に親しまれている。




それだけではなく、清正の没後、武運長久や病気平癒などの現世利益を求める「清正信仰」というものがあった。




彼が日蓮宗の熱心な信者だったことから、全国各地で日蓮宗を中心に信仰が行われていたが、明治以降、「加藤神社」も建てられるようになり、ここ熊本城内にも存在している。 


そういえば、先日、高千穂神社でガイドをしていた神主さんも、「人間が神様になった例」として、菅原道真と並んで、この加藤清正を挙げていた。



熊本における清正の影響力の大きさがよくわかる。


江戸初期に加藤氏が2代目の三男・忠広の代で改易となり、豊前小倉藩主だった細川忠利が新たに肥後藩の藩主としてやって来た時も、忠利は清正の霊位を先頭に掲げて「貴方の領地をお預かりします」といって肥後に入国した、という逸話が残っているくらいだ。




もっとも、清正の一代記である『清正記』に記載された彼の武功は、そのほとんどが創作だという。




そして、秀吉が清正を重用したのは、その武功というよりは彼の治世の能力を高く買っていたからだという説もある。


黒田長政と家臣の逸話がすり替えられ、「清正の虎退治」の逸話が残されたくらいだから、清正は「能吏」というより、あくまでも「豪傑」でなければならなかったのだろう。





加藤氏から肥後を引き継いだ細川氏も、目立った一揆などは起こらず、無難に治めていたらしい。


細川氏に関するものとしては、肥後藩に先立ち、キリシタン大名としても茶人としても有名だった細川忠興が用いた、茶道の客人に茶の準備が出来たことを知らせる「銅鑼と銅鑼掛け」などがあった。




そして、展示とは関係ないが、肥後細川氏第18代当主・細川護熙は、1980年代に熊本県知事を2期8年務め、1993年には日本新党代表だった細川が、連立政権の首相となり、自民党が政権与党を握り続けた「55年体制」を終わらせたことも書いておく。


細川氏は室町幕府の管領の家柄であり、鎌倉から現在まで名家として続く家柄として珍しい例である。





熊本の歴史と言えば、西南戦争にも触れなければならない。


西郷軍は1877年の2月に熊本城への攻撃を開始し、西南戦争の火蓋が切られた。


薩摩にとって熊本城は「薩摩の方角に向けて築かれた」、薩摩のライバル・肥後の象徴であり、明治維新後においてはまさに「官軍の象徴」であった。


熊本城を攻略すれば、九州の旧士族は続々と西郷軍になびく。


西郷らはこのように考えたのだろう。


だが、熊本城は難攻不落の名城だ。


全軍での総攻撃は拙速であり、まず一部兵力で熊本城の動きを抑え、大半の兵力は熊本城に押し寄せる官軍を迎え撃つために用いる。西郷はこのように考えたらしい。


ところが、熊本市に北から通じる要衝・田原坂で西郷軍は敗れ、官軍の南下を抑えることに失敗する。


その後も熊本、宮崎で激しい戦闘が続くのだが、もともと江戸に向けて進軍するはずだった西郷軍にとって、田原坂は不可逆的な敗退であった。


そして、数倍の西郷軍の攻撃を最後まで持ちこたえた熊本城の谷干城は、この防衛戦で全国にその名を轟かせ、明治政府において出世街道をひた走ることになる。



西南戦争における「砲弾の突き刺さった榎の木」は、砲弾が飛び交う激戦を思い起こさせる。




旧薩摩藩の西郷らが起こした戦争なのに、実際の戦場としての被害の大きさは、鹿児島よりも熊本や宮崎の方が著しかった。


そのため、歴史に関心がある熊本の人たちにとっては、西郷の評価はやや複雑なものであるようだ。


もちろん、熊本の旧士族で、進んで西郷軍に身を投じた者たちが多かったこともまた事実ではあるが。



西南戦争中に描かれた錦絵には、東方に現れた明るい星(火星)を「西郷星」と呼び、星に向かって願い事をする、というのが流行した様子が描かれている。




西郷に希望を持っていた庶民も多くいたということか。



また、政府軍への投稿を呼びかけるビラの展示もあり、揺れ動く兵士の心の葛藤を感じられた。





このほか、ちょっと変わった展示として、「生(いき)人形」がある。



フロアの隅の方にこの人形を見つけた人は、誰でも顔を近づけてマジマジと見るだろう。


まるで写真のように精密に描かれた絵画を目にしたときと同じ反応である。


それだけこの人形は生々しい。


人形の作者は江島栄次郎。明治時代の熊本の人形師である。


生人形は人形芝居で用いられるのだが、人形浄瑠璃のように黒子が操作するのではなく、物語の場面ごとに人形を配置して見せる舞台芸術である。


人形が動くわけではないが、それらがあまりにリアルに出来ているので、江戸末期の見世物文化の一つとして、江戸や大阪などでかなり流行したらしい。



実は、この「生人形」というジャンルを生み出したのは江島の師匠・松本喜三郎。


熊本の商家に生まれた彼は、生来手先が器用で、20歳の頃からまるで生きたような人形を作り始め、人形を用いた興行を大阪や江戸で始め、大当たりする。



明治に入り生人形というジャンルは徐々に廃れてくるのだが、喜三郎はその後、東京大学医学部の依頼を受け、解剖標本の制作も行なっている。


そして、栄次郎は喜三郎の最後の弟子であり、師匠の残した名作「谷汲観音」などの修復も手がけている。


残念なことに、生人形はあくまでも「見世物」の扱いだったため、当時はその芸術的価値を認められず、公演が終わると廃棄されることが多かった。


だから現存する生人形は数少なく、本当にもったいないことである。


こうした精密なモノづくりはいかにも日本人らしいし、のちに登場するマネキンを先取りするものだが、なにしろこちらは完全な手作りなのである! 


骨格は桐を用い、張り子の要領で肉付けをし、艶かしい女性の肌合いまでも表現してしまうのだから恐れ入る。





二階の熊本の自然のコーナーはざっと見学しただけだが、岩石や貝類、昆虫の標本が美しく展示されており楽しめた。



甲虫の一匹一匹が微妙に異なる玉虫色の美しさを、写真では表現出来ず、残念。



輝きだけ見ると、宝石のよう。



この博物館は、屋外に蒸気機関車あり、プラネタリウムありで、家族連れで訪れても楽しいこと請け合いの、なかなか見応えのある施設となっている。