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Ride in Setouchi & San-in Day 31 (15/4/19) Meiji Restoration Historic Sites 維新史跡

2019.04.15 12:40

維新関連史跡

大内氏関連史跡

周布政之助 (すふまさのすけ)の碑

長州藩の維新の立役者がもう一人いる。周布政之助は長州藩の重臣で、急進派の理解者であった。幕末に多くの傑出した藩士が生まれたのも彼の庇護があったからだ。八•一ハの政変、禁門の変、長州征討の一連の出来事で俗論派の台頭、急進派と俗論派の内戦直前までの状況の責任を取り自害。碑のある公園隣の墓地に政之助の墓がある。変名の麻田公輔で墓が立っている。(土佐藩主への暴言で対外的には周布政之助は謹慎となっていた為)

この公園のある地区は周布町となっている。

井上公園

この公園には維新に関わる碑がいくつかある。幕末の志士で明治政府の要人となった井上馨の記念公園。

山口市では山口市を維新策源地と呼んでいる。維新がここから四方八方に広がっていった震源地。この公園は湯田温泉街の中にあり、足湯が設置されていた。サラリーマンが昼休みに浸かりながら会議をしていた。

京から追放となった過激派公家の七卿の碑がある。

先に訪れた三田村での滞在の後、この山口に滞在している。三条実美には井上馨の兄の井上五郎三郎邸を改築し提供した。その居宅を復元している。

もう一つは、井上馨が襲われ瀕死の重傷を救った所郁太郎の碑。元医者であったが、維新の軍に参加する。高杉晋作が起こした内戦時には遊撃隊の参謀を務める。しかし長州征討の最中病死。

この近くに、井上馨が襲われた現場がある。その日は急進派の井上は俗論派と激論に及び、湯田の自宅への道で俗論派壮士に襲われた。碑が建っている。

長寿寺

大内義興の病を払ったことで、慈観堂という名前から1522年に長寿寺という名前になる。歴史は500年ほど。高杉晋作の起こした内戦時に、急進派として、井上聞多(馨)率いる鴻城隊の駐屯場で、御茶屋橋の代官所を襲い気勢をあげた。その後、屯所を雪舟庭がある常栄寺(昨日訪問)に移している。

通り道に山口高校があった。大正初期の講堂が残っている。

木戸神社/木戸公園/木戸孝允旧宅

ここ木戸孝允の住んでいつ地域では神様になっている。案内板を見ると頷ける。遺産は全てこの地域の子どもたちの学資にと寄付したそうだ。公園まで作られていた。

普門寺

この地に大内正恒が創建した寺があったが、延元元年(1336)、大内弘直が再建し、その菩提寺となった。大内義隆の時、勅願寺として重建したが陶氏の兵乱の時に焼失。天正年間、維松円融が中興開山となり再興。萩の藩府が山口に移った時、大村益次郎が明倫館の改組に当たった。大村はこの普門寺境内の観音堂を宿舎として起居し、ここで兵学を教授。当時これを普門寺塾、三兵塾などと称した。

長州藩獄舎/大村益次郎医学記念碑

山口市中心から東南約10kmの所に長州藩獄舎があった。ここには何故か多くの碑がある。無理矢理集めた感じもするのだが.....

大村益次郎はこの地で、藩の医学校「好生堂」の依頼により、女性の遺体の腑分け(解剖)を、日本で初めて行う。その記念碑。

戊辰戦争に活躍した奇兵隊などの諸隊は、常備軍に編成し直され、剰余員は解散帰郷を命じられた。剰余とされた隊士が暴動を起こし、新政府を震撼とさせた。このときの首謀者はこの柊にあった獄舎に入れられ処刑された。その供養碑。

文久3年5月、長州藩はひそかに5人の若者を英国に留学さた。伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三。「長州ファイブ」と呼ばれている。当時、藩の江戸留守居役だった大村益次郎が、この渡航の費用の調達斡旋を行った。


大内氏関連史跡


古熊神社

長い参道を走り到着。

応安6年(1373年)、大内弘世が北野天満宮より勧請を受け創建。当初は山口・北野小路にあったが、数度の遷座を経て元和4年(1618年)、毛利秀就が現在地に社殿を移した。

泰雲寺

泰雲寺は始め闢雲寺と称し、応永11年(1405)に開創された。開山は石屋真梁禅師で、永享元年(1429)大内教弘の時代、3世覚隠永本禅師により現在地に移転された。 防長5刹の1に数えられ、江戸時代に防長二州僧録司が置かれた。

最初は大内教弘卿の菩提所 (写真右上が墓) であったが、後に小早川隆景卿御夫妻の菩提所となる。(写真左上が小早川隆景の墓)

今日で山口市の史跡巡りは終了。山口市は大内氏の歴史の街と言うのが良くわかった。これは興味深い。毛利氏に滅ぼされた大内氏が今なお山口市でその足跡を残している。これは幕末直前まで、藩庁が萩にあった事が大きく影響しているのだろう。