故郷はボニンアイランド。 小笠原のなかのアメリカと 日本というふたつの国。【上部フローラ】
上部フローラ
連合国に統治されている時代に生まれ中学と高校はグアム。本土復帰までのボニンアイランド(小笠原)で生きた人たちは「欧米系」と呼ばれている。精神的にもアメリカと日本を行き来した時代の証人。
文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashi
ー 生まれは何年なのでしょうか。
フローラ(以下F) 1947年、昭和22年11月3日生まれだから、今年で72歳です。うちの親が1946年に小笠原に戻ってきて、その翌年に私が産まれました。
ー お父様は小笠原産まれ?
F 父はここで学校にも行って。おじさんが練馬で旋盤工場を持っていたので、そこで旋盤の勉強をしているときに戦争に取られて。支那戦争かな。そこで左手を無くして、日本に戻ってきてから太平洋戦争がはじまったんです。終戦後、米軍が小笠原に連れてきてくれるというので戻って来ました。母は埼玉の人でしたから、そのときはじめて島に来たんです。
ー欧米系と呼ばれている方々がアメリカ統治下の小笠原に住めるようになった理由をご存知ですか。
F 私は歴史をあまり知らないから。欧米系の人たちは、戦時中は練馬に住んでいる方が多かったんです。戦争が終わって、スパイに見られて大変な思いをするというので、米軍の偉い人に手紙で「米軍が小笠原にいるのなら、自分たちも連れて行ってください」と直訴したみたいです。戦争で何も無くなってしまった島に、米軍が連れてきてくれました。父にとっては自分の故郷ですから、帰りたかったんでしょうね。
ー当時、小笠原にはどのくらいの人が暮らしていたのですか。
F 300人もいなかったと思いますよ。米軍関係者も100人くらいじゃないでしょうか。野球で米軍で1チームができるくらいの人数でしたから。私の弟は小学生だったけれど、メンバーに入ってやっとチームになっていました。土曜とか日曜は、よく野球をやっていましたね。
ー小学校の同級生は何人くらいだったのですか。
F 10人くらいだったかな。
ー学校では英語を使っていた?
F はい。友だちと話すときも英語が多かったですね。うちは父も母も日本語で話していましたから、家のなかではほとんど日本語でした。他の欧米系の方々は、父親が英語を喋られる人が多かったから、家でも英語という人が多かったと思います。
ー国籍はどうなっていたのですか。
F 米軍時代、国籍はなかったですね。ボニンアイランドという証明書を使っていました。グアムに行く際のパスポートのようなものですね。弟のものだけ、その証明書が残っています。返還のときに弟はグアムの高校に行っていて、日本のパスポートを渡され、証明書の返還を求められませんでした。私はすでに高校を卒業して戻ってきていたから、返還になった際に米軍に証明書を返したんですね。
ー高校がグアムだったのですね。
F 小笠原にあったのは小学校だけで7年生まで。だから今で言う中一までが小笠原で、中二中三と高校がグアムです。夏休みが3ヶ月あって。6月に島に帰ってきて8月末にグアムに戻る。米軍の水上飛行機で硫黄島まで行って、硫黄島には大きな飛行機が待っていて。米軍時代の一番の思い出はグアムにいた5年間ですね。私はシティ派だから(笑)。小さかった私は自然の良さなんて感じていなくて。
ー今も残っている小さかった頃の思い出は?
F 米軍にかまぼこ型の映画館があったんですよね。ロングランじゃなくて、毎晩違う映画をかけていたんです。無料だったこともあって、友だちとよく見に行っていました。
ー68年に日本に返還された。その日のことを覚えていらっしゃいますか。
F すごく暑い日でした。みんなが集まってアメリカの旗を日本の旗に変えて。
ー道路も逆だったわけですよね。
F 米軍の人たちしか車を運転していなかったから、右も左も私たちには関係ないですよ。モーターバイクは内地から持ってきて乗っていましたね。ライフルはどの家にもありましたね。鳥やヤギをライフルで撃っていましたから。返還で没収されてしまいましたね。
ー欧米系という言葉は、当時から使われていたのですか。
F 返還になってから使われるようになったんじゃないかな。自分たちでは
そう呼びませんから。
ー現在、欧米系と呼ばれる方々は島に何人くらいいらっしゃるのですか。
F 少なくなりましたよ。100人もいないんじゃないでしょうか。新島民、旧島民、欧米系と分けるとすると、たぶん一番少ないですね。私たちの世代が5代目か6代目になります。
ー小笠原は暮らしやすいですか。
F 健康だったらね。みんなが顔見知りで安全なところですから。私にとってはここが実家で住むところもありますから、他の場所で暮らすっていうことは考えられないですよ。
上部フローラ
小笠原と東京の定期便がない1947年に小笠原で生まれた。7人兄弟の2番目。中学2年から高校卒業まで5年間をグアムで暮らす。アメリカ統治下時代、父親は漁師として生計をたてていた。返還後、内地で働き再び小笠原へ。現在も父島で民宿を営んでいる。