亡き父のこと
突然のお休みを頂き、ご迷惑をお掛けいたしました。
お陰様で、滞りなく父の葬儀を終えまして、今週からお仕事を再開する運びとなりました。
個別でメッセージをくださった皆様、お気遣いいただき有難うございました🌷
仕事用のHPですので、亡き父を偲ぶ文を書くのはどうかな、とも思いましたが、お休みを頂いていましたので、まったく触れずに再開する方が不自然だと思いますので、このページだけ使わせていただきます。
重い内容、そして大分長文となってしまいますので、ベビマやフォトについての事を調べていらっしゃる方は飛ばしてくださいね。
昨年、12月の後半から脇の下辺りに違和感があるんだよなぁ、と言っていた父。
でも、普段から足が痛い、腰が痛い、と言っていた父なので母も私もそんなに気にかけていませんでした。
毎年恒例になっていた、銚子への買い出しも、「行けないかも」と言っていましたが、「お父さんが行かないなら、今年は銚子は行くのやめようか」なんて話になっているのを聞いて、杖を持ちながら同行してくれました。
70歳を超えてから、大分食が細くなっていた父でしたが、この日は異常なほどの小食っぷりに私は驚いていました。
いつも、銚子に行くときは途中に道の駅に寄ったり、イチゴ農園に寄ったりしながら色々つまみ食いして、お昼には回転ずし「しまたけ」で舌鼓を打つ・・・のですが、大好物の苺も孫たちに食べさせて一つしか食べないし、回転ずしでは3皿がやっと。
お腹の調子が悪いのだと言っていましたが、それにしても・・・と思いながら帰路に就きました。
一緒に暮らしているわけではないので、父と母を送ってその日は帰りました。
その3日後、母から電話が入り
「お父さんがお腹が痛くて泣いていて、どうにもならないから来て欲しい。でも礼子(私)には心配するから絶対に伝えるなって言っているから、偶然を装ってきて欲しい。」
と。
父は、戦後すぐに生まれた警察官の息子なので、滅多に泣く人ではありません。
2年前の心筋梗塞のステント手術後、孫娘(私の娘)の心配する顔を見て泣いたのが私の知っている初めての父の涙でした。
そんな訳で息子(2歳)が電車とバスに乗りたがったから来たって体にして実家に行ってみると、185センチもある父がこれでもかと縮こまらせて「痛い痛い」と涙をこぼしていました。
これは只事ではないと思ったので病院へ行こうと声をかけると、「行かない行かない」とまるで小さな子供の様に泣きじゃくって錯乱する父。
何とかなだめたくて、背中をさすると「痛いから触らないで」と泣く・・・。
孫息子(私の息子)が「じいちゃん、いたいの?だいじょぶ?」と声をかけると、正気を取り戻し、大丈夫だから病院は行かない、と答えていました。
便が何日も出ないから下剤を飲んだけど、お腹が痛くなるだけで全然出ないのだと、泣いていた理由を話してくれました。
病院へ・・・と話すとまた錯乱状態になり、その日は帰ることにしました。
正月は両家の実家に帰省するつもりでしたが、娘がお腹の風邪に掛かり、お正月から嘔吐と下痢、続いて息子も貰い出掛けることのできない状態になってしまったので、私も子供たちの看病で手一杯になっていた折、4日に父と母が孫たちを心配して訪ねてきてくれました。
実はお腹の痛みもずっと続いていた中での訪問でした。
孫の事より自分の事も心配してよ、お父さん!
なんて話しながら、子供たちがそこそこ元気を取り戻していたので安心して帰っていきました。
冬休み明け、今度は夫以外インフルエンザを回し、我が家の冬は明けていきました。
1月20日、ようやく外出できる機会が出来たので実家へ。
父が痛みを我慢できず、母の付き添いの元、病院へ行ったとのこと。
母から電話で聞いたのは
膵臓癌 ステージ4b
全身に転移していて、手術も出来ない状態。
余命1年
父本人にも医師から膵臓癌ステージ4、転移ありは伝えられている
余命の話は父にはしていない、これからの事を相談したい、との事でした。
何年か前に、友人の親御さんが膵臓癌であっという間に亡くなっていたのを思い出しました。
頭がぐるぐる回って何も考えられない状態でしたが、母の方がテンパっているのも分かるし、一人娘なので相談する兄弟もいないから、しっかりしないと・・・・
そんな状態でした。
子供たち2人を連れて実家に行くと、いつもと変わらない穏やかな表情の父がいました。
「いや~、前立腺癌も持っているのに膵臓癌にもなっちゃったよ、参った参った」
と、話す父。
いやいや、参ったってアンタ・・・。
本当は検査したその日に入院した方が良いくらいの状態だったようですが、ベットが一杯で帰された事。
父本人は入院したくないってこと。
23日に再度検査があるってこと。
痛み止め貰って少し痛みが楽だということ。
そんな話をして、じゃ、お家でなるべく過ごせるように電動で背もたれが起こせるベッドでも買っておこうか、なんて話して帰りました。
23日は私が病院に送るね、と約束して
娘と息子はいつも通り、帰るとき「じーちゃん、ぎゅう~っ!」ってハグして。
父は孫たちを「あったかいなぁ」って抱きしめていました。
23日、子供たちをそれぞれの幼稚園に送り、父を病院に送りに行きましたが、大分痛みが強いのか、動くたびに胸を押さえていました。
車に乗ってからも、横になって息が荒い状態でした。
母が検査に付き添い、時間も掛かるようなので、子供たちを迎えに行って病院に戻ると、まだ点滴の最中との事。
担当医が副院長先生に変わるということ。
そのまま入院になることを聞き、事態の悪さを再確認。
折しもインフルエンザが流行っている時期だったので、子供たちは病院の中には入れず父とは会えませんでした。
そこから暫く入院生活が一か月程。
母は毎日面会に行っていました。
私はと言うと、子供たちを院内に入れられないので、2日か3日に一度、母と時間を合わせて病院に行き、母に子供たちを見ていて貰う間会いに行っていました。
夫も土日の空いている日には、病院に付き合ってくれていました。
日を追うごとに痛みが増す父。
入院一日目から食事をほぼ摂れない父。
2月2日、担当医から話があるから、と呼び出されました。
主治医からの話は、膵臓癌がどんなに絶望的な癌であるかということを淡々と話されました。
他の内臓に隠れているため、健康診断等では見つかりにくいコト。
痛みを感じて受診すると、ほぼステージ4であること。
消化器なので、すい臓がんが進むとほぼ全ての消化器の活動が停止するので、当然腸の蠕動運動も止まるので酷い便秘になること
すい臓の癌が胃袋を押すので、膨満感があり食欲がなくなること
食べられないでいると、体力が無くなるから抗がん剤も使えない事
痛みを例えるなら、生きたまま内臓を野犬に八つ裂きにされているような痛みであること。
抗がん剤も使えないから、この病院に運ばれてきた膵臓がんステージ4の患者は、この人もこの人も3ヵ月で亡くなっていくということ。
父の腫瘍マーカーが通常30以下なのに対して、1900あるということ
先日、セカンドオピニオンでがんセンターに行った膵臓がん患者が、事態の深刻さと本人も家族も分かっていないので、反対にがんセンターから返されてきたこと。
つまり、
あっと言う間に死んでしまうから覚悟をしておけ、
って事を言いたいんだな、と。
奇跡を期待するな、と言いたいんだな、と理解しました。
なんて酷い医者だ!!最悪だ!
って思いましたが、今思うと、そのお蔭でなるべく時間を作って会いに行けたし、父が息を引き取った後に延命治療をしないで下さい、と、迷いなく選べたのだと思います。
会いに行くたびに、痩せていく父。
帰りたいと訴える父。
ある日、電気シェーバーで髭を剃ってほしい。
と私に言いました。
身だしなみにこだわりのある父らしいなぁと思いながら、痩せた頬に電気シェーバーを当てましたが、全然剃れなくて。
次の日、母と少し良い電気シェーバーを買いに行って、プレゼントするととても喜んでました。
剃り味が最高だ!痛くもない!
「退院したら、ひろ君(私の夫)に同じものを買ってプレゼントするんだ」
と目標を定めた父は、抗がん剤を通いで受ける為に、食欲無いのを無理して食べるようになりました。
そして2回の抗がん剤を受け、帰りたがっていた希望が叶い2月23日、退院することになりました。
寝たきりの状態だったため、足の筋肉がすっかり弱ってしまった父は車椅子で移動。
動くと吐き気が凄いらしく、ゲロ袋を持って車に乗せて帰りました。
家についてからも歩けないので車から「自分で歩く」と言って降りた瞬間、崩れるように倒れてしまいました。
夫と私で、父の肩を支えて家の中に帰りました。
そのままベッドに横になり、うとうとして過ごしていました。
ただ、そのままではトイレなどの移動もお風呂も難しいだろうな、と考え、家の中で使う用の車椅子を安く譲っていただいたり、介護保険の申し込み等で奔走しておりましたが、間もなく通院の日になり、そこで日常生活が困難になっているので再入院ということになってしまいました。
家にいられたのは10日間ほど。
その間、母が24時間体制で介護する形になりましたが、下のお世話が父にとっても母にとっても辛かったようです。
以前から前立腺癌を持っていた父は、トイレが近いので2時間ごとに夜中でもトイレに行きたくなります。
大人用のオムツも用意しましたが、使いたがらなかったので這ってトイレに行き、そのたびに吐き戻す状況だったそうです。
私の実家は、大して広い訳ではなく、父のベッドからトイレまで大人の足で15歩程、30秒も掛かりません。
でも父は30分かけてトイレに行っていたそうです。
食事は、うどんなら乾麺を柔らかく茹でて、2、3本食べられるかどうかって程度。
3月4日、再入院。
胸にも水がたまり、食事も全く摂れなくなってしまいました。
痛みも強くなり、医療麻薬を使用するようになっていきました。
使うと、痛みは大分楽になるようですが、意識が大分もうろうとして寝ている時間が多くなりました。
又、幻覚も見ることもあったようです。
「カーテンに黄色い豆がついているから取らなきゃ・・・」
なんて口にしたりすることもありました。
薬で朦朧としているのに痛みが強くて、うなされながら
「おとうちゃん、おかあちゃん・・・痛いよ。早く迎えに来て~・・・」
と、父の亡くなった父母(私にとっては祖父母)に懇願している姿を見ていると、何ともいたたまれなかったです。
娘の卒園式に向けて、色々奔走もしていたので中々顔を出せないのももどかしかったです。
娘が卒園3日前から原因不明の全身蕁麻疹。
治ってから、こんなことがあったんだよ、と面会時に話すと、とても心配していた父。
「ランドセル背負っているところ見たいなぁ、もう見れないだろうなぁ」
と、遠い目をしている父。
余命は伏せたままでしたが、そんな事を言う父に「せめて孫息子のランドセル背負うおころまで見ようよ!あと4年は頑張ってよね!」と笑いながら言う私の白々しさったらなかったと思います。
「そうしたいんだけどなぁ」と答えてくれていました。
そんなこともあって、娘のランドセル写真を撮ろう!と決意。
写真館とかじゃなく、私の手で家で撮ろう、と。
初めて撮った入学フォト、持って行くととても嬉しそうに細い目を更に細めて
「美人さんだなぁ、可愛いなぁ、会いたいなぁ」
と喜んでいました。
その翌日から、更に容体が悪化したと連絡がありました。
大部屋だったのが2人部屋になり、一日中泣いていることもあったようです。
娘の卒園式後、夫の母が会いたいと言うので連れて行くと、
「ひろ君の(夫)お袋さんが面会にくるようじゃ、そろそろ(人生)終わりだ。悲しいよ」と泣いていて、
聞き間違えた義母は
「来てくれて嬉しいって言っている」
と。
「息子は年下だけど、しっかりしているから安心して大丈夫ですからね。孫ちゃんたちも元気いっぱいですから大丈夫ですよ。」
なんて声を掛けてくれたので、余計に泣いてしまう父。
お義母さん・・・父には余命宣告してないのですよ、なんてこと言ってくれたんですか・・・と怒りたくなる私。
でも、お義母さんを面会に連れてきたのは私。
義母を責めるのはお門違いだし、義母は父を安心させてあげたくて言った言葉なのだ、と自分に言い聞かせて、
「今日は卒園式だったから、お義母さんが泊まってくれてたし、お見舞いに伺いたいって言ってくれてたから一緒に来てもらったの。ちょうど、病院も面会レベルが緩くなったしね」
と話を逸らして、卒園式から謝恩会の様子をカメラで見せると安心してくれたようでした。
正直、今になって思うと、余命等の話や父がいなくなった後に心配していること等、希望を聞いてあげていた方が良かったのではないだろうか、と思ったりします。
夫と話していて、自分がもし重篤な病気だったら、隠さずに全て話して欲しい、そして、自分がいなくなった後の事等を伝えたいって意見が同じだったから。
受け止められるかどうか、家族が決めることではなかったのではないかな・・・。
母の意見で、父には余命の事は話さない、って決めたんですけどね・・・。
3日後、母が看護師さんから連絡がきた旨を伝えてくれました。
父が私の名前を呼んでいること。
孫に会いたいと言っていること。
病院はまだ面会レベルが中学生以下はお断り、となっていましたが、娘だけは連れて行き、看護師長さんに話すと、
「○○さんか、、、良いよ、おじいちゃんに顔見せてあげてね」
と快諾してくれました。
それはつまり、父の最後が近いから、ということ。
複雑な思いと共に病室に入ると、寝ている父。
「お父さん、孫連れてきたよ~」
と声を掛けると、目を覚まし娘を見るとクシャッと満面の笑みをこぼし、
「よく来たなぁ!会いたかったよ!!」
と言って、ここ2週間、食事はおろか水さえも飲まなかった父が、水のみに水入れてくれ、と頼んでくれて、少しだけ口にしました。
娘と話したいんだなぁ~って感動しました。
まず、卒園おめでとうを言って、娘が「いつ退院できる?銚子の宝くじ当たったから一緒に行こうよ」って言うと
「また一緒に行きたいなぁ、当選したなんてすごいなぁ、いつ行くの?」
って5月の連休に銚子に行こう!なんて約束をしていて、私は、これだけ生きる気力が出たらもしかしたら奇跡が起こるんじゃないか、なんて淡い期待を持ちました。
そろそろ帰るよ、ってなったら
「こんな姿、本当は見せたくなかったんだけどな、いつも元気な姿だけを見せていたかったなぁ」
って涙をポロポロ流す父。
無邪気に
「早く良くなってね!折り紙で鶴折るからね、早く良くなりますようにって願い事するから!!」
って励ます娘。
私は、泣きそうになるのを堪えて、「また元気になって、家に帰ろうよ」としか言えませんでした。
娘は何かを感じたのか、その日以降、病院に行くと今までは車でDVDを見ていたのに「私もじいちゃんに会いに行く!」と一緒に行くようになりました。
自分の顔見れば、元気になるはず!って思ったのかな。
まだ下手っぴな折り鶴と、上手に折れるようになったペンギンにお手紙を書いて、一緒に通いました。(息子は車でおばあちゃんに見てもらってました)
3月23日
容態が急変して、息苦しくなって酸素吸入をしている、個室に移った。
と、母から連絡。
今すぐどうこう、と言うわけではないけど、早いうちに会わせたい人がいたら会わせておくように言われたようです。
翌日、夫も一緒に面会に行くと、父は鼻と口を覆う酸素吸入をしていました。
意識が殆ど無い様で、呼びかけてもあまり反応がありませんでした。
くっついていった娘は、何でこんな状態になってしまっているのか分からないようでした。
2週間ぶりに父に会った夫は、
「何でもっと一杯会いに来なかったんだろう」と自分を責めていました。
3月25日
会いに行くと、酸素吸入が鼻からのものに変わっていました。
声を掛けると、気が付いて
「おぉ、久しぶりだな」
と返してくれました。
痛みが更に強くなってきたらしく、面会に行っている間に何回かナースコールをしました。
唾を飲み込んでも、吐いてしまう状況だと説明されました。
医療麻薬のせいで、少しあやふやな所もありましたが、意識はしっかりしているようでした。
「お父さん、苦しくなってしまって個室に来たんだよ、覚えてる?」
と聞くと、
「そうらしいな、今朝看護師さんから聞いたよ。記憶にないんだよ」
との事。
良かった、まだ逝かないでいてくれた、そう思った一日でした。
じゃ、帰るね。
と言うと、
「おぉ、そうか、どこに帰るんだ?」と聞いてくるので、
「パパが帰ってくるから、春日部に帰るんだよ。ご飯の準備しなきゃ」
と答えると、
「じゃ、じいちゃんも帰る!これ(点滴や酸素吸入器)外してくれ」
と言う父。
娘と驚いて
「それ取っちゃうと苦しくなっちゃうよ」
と言うと
「ん?これ取れないのか?取っちゃダメなのか・・・。」
悲しそうに呟く父。
「そうか、じゃ、じいちゃんはどうすれば良いんだ?ここで待っていればいいのか?」
と言うので、
「そうだね、待っててね。明日も来るからね、点滴外さないでね」
と答えて、出てきました。
涙が止まらなかった。
家に帰りたいよね。お家大好きだもんね、お父さん。
家に帰って、どうにかしてお家で看護できないか、訪問医療を探してみたりしましたが、24時間対応の医院は近くになく、また、小さい子供を連れた私は看護出来る状況にもいないから母が一人で看ることになる、それは母が無理だと言っている・・・等、調べれば調べるほど、在宅は難しい事が浮き彫りになってきました。
担当医に相談してみるも、
「今退院させたら、確実に苦しんで、すぐ死にます」
と言われてしまう始末。
やっぱり、入院していた方が安心か・・・。
何日間か小康状態が続いていました。
3月27日
息子が高熱&下痢
3月28日
息子の下痢が激しい
3月29日
息子、少し回復してくる
3月30日
娘、ヤマハの発表会&私が高熱(移った様です)
3月31日
さくら撮影会(熱下がりました)&入学フォト
熱も下痢もないので面会に行きたかったのですが、きっと何かしらの強めウイルス保有していると思い、面会行かず
4月2日
桜撮影会2回目
その後、権現堂でカメラ仲間と撮影し合い
4月3日
久しぶりに父の病院へ面会に行けました。
行けなかった間、母から(母はほぼ毎日面会に行っていたので)小康状態であると聞いていましたが、ほとんど会話ができない状態だ、とも聞いていました。
殆ど寝ているかぼんやりしている、と聞いていたので、覚悟して行くと
「風邪治ったのか?無理するなよ」
と話し始める父。
子供たちも私も元気であることや、夫にはインフルエンザさえも移らなかった事、娘の発表会は大成功だった事、桜撮影してきたこと
来れなかった間の話を嬉しそうに聞いてくれました。
一緒に行った娘も
「じいちゃん、元気になってた」
と嬉しそうに言うほど。
撮ってきた権現堂での写真を見ると、
「良いなぁ、権現堂で桜見たいなぁ。ここからだと清水公園のが近いかな。ちょうど桜まつりの頃だもんな。」
なんて、花の好きな父は毎年桜を見に行っていたことを話していました。
「菜の花畑の中で、ママに一緒に写真撮ってもらおうよ!」
と娘が言うと、ニコニコ笑いながら「そうだね、じゃあ元気にならなきゃね」
そう娘に話していました。
この日は珍しく、母が面会に来なかったらしく
「大丈夫かなぁ、心配だから連絡とってみてくれ」
と、母を気遣っていました。
時間も遅かったので、
明後日、また来るからね、と言うと
分かった、待っているから。気をつけてな、と言った後、
「・・・無理しなくていいぞ、お前だって家庭があるんだから。それに、逝っちゃうときは逝っちゃうからさ」
小さな声で、私の背中に声を掛けました。
振り返ると愛おしそうな目で私たちを見つめて手を振っている父の姿がありました。
「無理してないから、心配しないでよ。」
って言って帰りました。
4月4日
母から電話。
病院から電話があって、父の血圧が下がってきたと。
今すぐどうこうではないけど、覚悟をするように言われた、と。
え?何で?昨日はあんなに話せるほど元気だったじゃん!!
面会時間を過ぎてしまっていたけど、病院に電話したら
「個室ですし、事情が事情なのでいつ来て頂いても良いですよ」
との返事。
いよいよ危ないって事だ。
父に会いに行くと、全く話せない状態になっていました。
血圧も80くらいになっていて、酸素吸入していて、やっと酸素濃度が90
手をさすると、少しだけ反応していました。
看護師さんが血圧を測りに来ると、100くらいに上がって
「話せないけど、ご家族が来ているのが分かるんですね~」
って言っていました。
父は、夜になると「寂しい」って看護師さんに漏らしていたそうです。
何で寂しいの?って聞くと、面会の人たちがみんな帰って、看護師さんたちも数が少なくなって「し~ん」としているから。
と答えたそうです。
痛みが強くて、眠り薬も飲むと吐いちゃうから飲めなくて、夜も起きていることが多かったそうです。
その看護師さんは、寂しい、と言う父と時間が許すときは色々な話をしていたそうです。
この日は息子も寝ていたので、抱っこ紐で父の所に連れて行きました。
父は息子が欲しい人でしたので(私は一人っ子です)、結婚して義理の息子(夫)が出来た時には、それはそれは喜んでいました。
感情を表に出すのが下手な人だったのに喜んでいるのが伝わってくるほどなので、余程嬉しかったのだと思います。
初孫である私の娘が生まれた時にも、凄い可愛がり様で「目の中に入れても痛くない」って感じだね~なんて茶化していたほどです。
孫息子が生まれてからは、大きいわワンパクだわの彼に「元気だなぁ」と目を細めていて、色々な人に
「結婚しない、孫はあきらめてくれって言っていた娘(私)が、孫息子まで見せてくれたし、70歳も超えたし、もういつ死んでも後悔しない幸せな人生だったよ」
と話していたのを、後から聞きました。
4月5日
大分前から、娘がお友達と約束していた東武動物公園・・・
連れて行ってあげたいけど、父がどうなるか分からない状況で連れて行くのはどうなんだろう??
お友達のママに状況をお伝えして、ご理解いただけて、別の機会でも良いよ、じぃじ最優先にしてね、と優しいお言葉も頂いて。
娘にも「じいちゃん、いつ死んでもおかしくない状況なんだよ、ママのお父さんだから、なるべく寂しくないように会いに行きたいんだ。」
と話して。
それでも悩んで。
父だったら、きっと、連れて行ってあげなよ・・・って言うんだろうな。
と思ったから、結局連れていくことにしました。
早めに切り上げて、病院に行こう、と約束して。
何か急変したりしたら、切り上げようねって約束して。
理解して一緒に過ごしてくれたお友達親子に感謝です。
予定通り、夕方病院へ。
急変などはありませんでした。
話せないだけで、意識はしっかりしている・・・のが末期癌患者だ、と、何かの文献で読んだな、と思いながら、手を握り色々話をしてきました。
娘は何か書いているなぁ~と思ったら、父の似顔絵を描いていました。
笑ってしまうほどソックリで驚きました。
絵に描かれた父は、
面長で、剥げてて、眼鏡をかけてニコニコ笑っていました。
見せてあげたくて、父の目の前に出したら、少しだけ目を開けて娘の顔をじっと見ていました。
「似ているね、有難う」って言っているのかなぁ、それとも「こんなに剥げてないよ」って言っているのかもしれないね。
まだ、状況が飲み込めない娘は
「じいちゃん、寝てるし早く帰ろう」
ってしきりに言い、繋がれている機器が気になるようで
「このグニャグニャって線が真っ直ぐになったらどうなっちゃうの?」
なんて聞いてきました。
人は亡くなる寸前まで声が聞こえているって言うので、
「死」
を連想する言葉を口にしたくなくて、
「今の状態が、頑張って生きているってことなんだよ。乱れたりしたら、すぐにお医者さんや看護師さんが来てくれるように、この器械をつなげているんだよ」
そんな風に返しました。
4月6日
母と待ち合わせて、夫も子供たちも一緒に病院へ。
交代で父の病室へ行きました。
まずは夫と私が病室へ。
父の事を本当の父親の様に慕ってくれていた夫は、とてもショックを受けているようでした。
呼吸は、大分浅くて目は虚ろになっていましたが、手を握り声を掛けると、血圧も少し上がりました。
時折、「あ~」と唸るような声を出していました。
これは・・・何かの文献で読んだ状態だ・・・、癌患者が亡くなる数時間前の状態だよね。
そう思いました。
苦しそうで、でも時折目を見開いて何もないところへ視線を向けて何かを追い払うような仕草をしていました。
何か、お迎えでも見えているのだろうか・・・。
しばらくして、担当医のY先生が顔を出し、話がありますので外に出てください、と言いました。
「お父さん、耳は聞こえているからね」
と、気遣ってくれたようです。
内容としては、
血圧が60まで下がったら、もう危ないから家族に連絡入れます
病室に泊まっても大丈夫です
会わせたい人がいるなら今日明日中に、来週の土日は無いと思います
心肺停止後の、蘇生は家族が間に合わない場合でもしない。
Y先生が行った後、しばらく父に話しかけて、病室を出て母と交代。
母と交代して、息子が起きたので病院の売店へ。
おやつを買って、大人はコーヒーを飲んで・・・
娘が、「あーちゃん(おばあちゃん)のとこ行く。じいちゃんのお部屋行く」と言うので、また娘を連れて行きました。
娘を父の視線が来そうな所へ連れて行って声を掛けさせると
「いあ(ひな)」
と、呼びました。少しだけ、握った手に力が入ったように感じました。
娘は、しばらく一緒にいましたが、6歳児らしく15分もすると「あと何分したら行くの?」
と聞き始めたので、先に戻ることにしました。
母は、もう少し父の傍に付いているから、と言っていました。
しばらくして売店に戻ると息子も「ママと一緒いく。じーちゃんとこいく」と言います。
きっと、息子が会えるのは最後なのかもしれない、そう思って連れていくことにしました。
騒ぎ始めたら退室しようね、と話して、今度は息子と一緒に父の部屋へ。
開口一番
「じーちゃん、ねてる」
「おなかいたいの?いたいのいたいのとんでけー!!いいこいいこねー」と父のお腹の辺りをさする息子。
2歳なりに何かを理解していたのかもしれません。
久しぶりに会ったお祖父ちゃんの様子が只事ではない、と思ったのでしょうか。
「じいちゃん、だいようだよ。きたよ」
と話しかける息子。
「じいちゃんはお話し出来ないんだよ、でも全部ちゃんと聞こえているからね。」
と話した瞬間、父が腕を大きく伸ばし抱き締めるような仕草をして
「たいよう」
と、はっきり呼びました。
母も私も血圧を測りに来ていた看護師さんもビックリする中で息子だけ
「なぁに、じいちゃん、たいようよー」
と無邪気に答えてました。
夕方になり、病室を後にしました。
母と一緒に夕食を食べ、すっかり帰りが遅くなってしまいました。
夫に「本当は病院に付き添いたかった?」
と聞かれましたが、
「お父さんだったら、きっと、小さい子供がいるんだから帰りなさいって言うよ。明日、早く病院に行くから。」
と答えました。
何となく胸騒ぎがして夜中3時くらいに目が覚め、寝相の悪い子供たちに毛布をかけて、うとうとしていた明け方4時10分、母から電話が入りました。
「病院から、呼吸が弱くなっていると連絡がきた」
と。
普段は中々目を覚まさない夫も気が付いたので、子供たちの事を頼んで病院へ向かいました。
病棟に着くと
ぴーーーーーーー
と、電子音が静かに鳴り響いていました。
父の病室から
当直の先生が出てきて、4時15分頃に呼吸が停止しました、と告げ、母が到着するのを待って死亡確認。
お父さん、良く頑張ったねぇ、痛かったね、一人で最後の時を迎えさせちゃってごめんね、間に合わなかったよ。
3か月で、余りにも痩せてしまった父の頬を触るとまだ温かかったです。
痛みで眉間に皺が寄っている表情ばかり見ていましたが、息を引き取った父はまるで
久しぶりに痛みがなくなって眠っているようにも見える安らかな表情をしていました。
真面目で物静かで、体が大きくて、なぜか子供に好かれた父でした。
お酒が好きで、旅行が好きで、美味しいものが好きで
顔面神経麻痺、隠れ脳梗塞、3度の心筋梗塞手術、前立腺癌、高血圧、慢性腎臓病を乗り越えてきた父。
普段無口なのに、話始めると止まらなかった父。
私がバンドをやっていた時も「おばけみたい」って言いながら、チラシやポスターや写真を大事に取っておいた父。
仲良いんだか悪いんだか分からないけど、いつも母と一緒にいた父。
お父さん、貴方の娘に生まれて私は幸せです。
どうか少し空で休んだら、また近くに生まれ変わってきてください。
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最後まで読んでくださって有難うございました。
ここに父の闘病生活を書き記したことで、私も前に進めそうです。
読んでくださった皆様、癌は日本人の2人に1人がかかる病気です。
そのうちの3人に1人は子育て世代なのだそうです。
膵臓がんは見つかりにくい癌でもあります。
どうか、年に一度は健康診断、出来れば腫瘍マーカーを調べてください。
父は病院が嫌いで、73歳まで健康診断を一度も受けたことのなかった人です。
通っている病院があるから安心ではありません。
専門医は専門の分野でしか診れないことが多いです。