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4月9日 五木村 〜子守唄公園、五木村歴史文化交流館を見学するの巻〜

2019.04.17 08:06


昨晩泊まった道の駅「子守唄の里 五木」の隣は、「子守唄公園」になっている。



森繁久弥の揮毫による歌碑があり、近寄ると曲が流れる仕掛けだ。


夕方、どこからともなく聞こえてきたのは、この音であった。



森繁久弥は、1950年ごろに友人から「五木の子守唄」の話を聞き、感銘を受け、この歌を日本中の人々に聴かせたいと、自身が出演した映画で、兵士を演じた役者に歌わせたこともあるらしい。


彼は、知床でも「知床旅情」を作り、知床を一躍有名にした。


あの歌がきっかけで、知床を訪れたという人も多いと聞く。



こうしてKY夫婦がこの地を訪れたのも、子供時代に学校で習った五木の子守唄がきっかけだ。


歌の力、恐るべし‼︎



五木の子守唄の歌詞は、なんと70ほどもあり、順番は決まっていないという。


我々が知っているのは、そのうちの2つほど、ということか。


その昔、山深く生活が厳しかった五木では、娘たちが幼い頃から家計を助けるため、子守奉公に出された。


他郷にあった彼女たちは、奉公の辛さや両親、故郷を想う気持ちを口ずさみ、歌い継がれてきたのがこの歌なのである。


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今日は、まず、そんな五木村の歴史や風俗を紹介する「五木村歴史文化交流館(ヒストリアテラス五木谷)」を見学することに。




ここは、3年前に建てられた洒落たデザインの建物だ。


この「〇〇テラス」という呼び名は最近の流行りなのか。


そこかしこで目にしているような。



ロビーは、林業が盛んな五木村らしく、木のぬくもりを生かしながらも、シャープで洗練された大人のリゾートといったイメージ。




展示室を入ると、すぐに林業で用いられる器具や衣服が展示されているが、立体的な展示により狭いスペースを有効に使うよう工夫されている。



伝統的な郷土料理の展示も、実にリアルで美味しそう。






さて、ここはヒストリアテラス。


五木村の歴史を語るには、やはり、川辺川ダム計画は外せない。



そもそも、なぜ、このダム計画が持ち上がったのか。


それは、今から半世紀ほど前に遡る。



1963年から3年続いた集中豪雨により、川辺川は氾濫し流域に大きな被害を受けた。


これを機に、国は、球磨川の支流・川辺川上流に大規模なダムを築く計画を発表する。


治水や電力開発を進めたい国や県、災害を恐れる川辺川下流域の自治体による強い要望により、ダムの計画が具体化してきたのである。


1966年、国土交通省直轄ダムとしての事業開始当初は、①川辺川、球磨川の治水、②人吉盆地へのかんがい、③水力発電の3つの機能を併せ持つ特定多目的ダム計画であった。

(1984年、農林水産省管轄の治水事業に的を絞った治水ダムへと計画変更されている。)



五木村下流にダムを建設するという計画で、五木村の中心部は水没することになる。




計画を知った五木村では、住民・行政・議会一致して反対を表明。



しかし、再三に渡る国や県、下方流域の市町村の要請を受け、1996年に、移転後の村民の生活再建を条件に、計画を受け入れることとなる。



2002年、ニュータウンへの役場や診療所等、公共施設の移転完了。


水没予定地の住人も続いて移転、あるいは故郷を離れることに。



水没予定地の人口は1457人で、村の全人口の半数近くを占めていた。


現在、五木村の人口は1000人を切っているという。



山村の人口減少の原因はダム計画によるものとは限らないが、「翻弄された50年」という展示パネルが示すように、美しい山村はダム計画により大きく変貌してしまったのだった。



一方、ダム計画は、紆余曲折の末に本体着工寸前まで進んだが、ダムの「受益地」とされる下流域住民らの反対運動で中止に追い込まれてゆく。


2007年1月 農林水産省は、事実上、川辺川ダム事業からの撤退を表明。


これにより、川辺川ダムの利水目的は喪失し、川辺川ダム計画は事実上白紙の状態となった。



しかし、計画中止の法的な手続きは、いまだとられていない。



文部科学省の外郭団体である科学技術振興機構 (JST) のまとめた「失敗百選」において「(住民と行政の)合意形成の軽視による失敗例」として、諫早湾干拓事業等と共に選出されているという。




五木村の歴史と民俗に関する展示では、焼畑農業についての展示が特に興味を引いた。


焼畑は山林を破壊するという誤解があるが、彼らは適切な規模で伐採し焼畑を行うことで、荒れた山林の地力を回復させ、その後の植林により、山林を維持してきたのである。



平地がほとんどない五木村では、山林を切り開き焼畑を行うことで、ソバやアワ、ヒエなどの雑穀や、小豆、じゃがいもなどを栽培する「焼畑農業」が伝統的に行われてきた。



焼畑の直後、まだ地面に煙がくすぶっているうちに、彼らはソバのタネを地表にばらまく。すると、2週間後にはソバの芽が赤く頭を出してくる。


資料館では、かつて五木村の集落総出で行われていた焼畑の、貴重な映像を見ることができる。





もう一つ興味深かったのは、映像アーカイブのコーナー。



ここでは、昭和20年代から各年代の五木村の人々の生活の様子を追っている。


集落の人たちと苦楽を共にしながら、そこに生き、日々の暮らしを紡いできた歴史の一コマ一コマが記録されている。


こぢんまりとした資料館ではあるが、五木村の来し方を知る上で、とても良くできた施設であった。




施設見学を終え、お腹も空いたところで、併設されるレストランで食事。



見た目も美しいが、山椒や柚子風味が生きた繊細な味付け。


具の一つ一つが味わい深く、絶妙なバランスに舌鼓を打つKY夫婦であった。






外に出て、周辺を散策する。


16年前に移転を済ませた五木村役場や住宅などが整然と並ぶニュータウン。



その約70メートルほど崖下の河辺川沿いには、かつての五木村の中心地として栄えた旧水没予定地があり、現在、公園が整備され、コテージが並んでいる。




ここには、新たにリゾート施設が開業する予定だそうだ。



川辺川にかかる長い橋をよく見ると、ちょうど中間部分にバンジージャンプのジャンプ台が設置されている。


現在はシーズンオフで、今月20日から再開するらしい。


多いときは一日で30人くらいの猛者が、谷底めがけてジャンプするという。



ダム計画に翻弄された五木村は、他の山村と同じく高齢化と人口減少が続いているが、地元の努力により、村を訪れる観光客の数は徐々に増えているという。






五木村では、お茶の栽培も盛んである。 


レストランで出された地元のお茶が美味しかったので、道の駅隣にある、お茶の専門店に立ち寄る。



ここは栽培から製茶まで、全て自分のところでやっている手作りのお茶である。


五木村にある茶畑は、これより奥の山の中にあるという。


自分で作ったものを自分の店で売るという強み。


言葉の一つ一つに説得力がある。


気に入ったお茶の小さめのパックを2種類ほど購入。



これでドリップコーヒーを飲むと、なぜか咳が出るようになってしまったYの、朝の楽しみが一つ増えた。