Ride in Setouchi & San-in Day 33 (17/4/19) Katsuyama Castle Ruins 勝山城跡
Katsuyama Castle Ruins 勝山城跡
Aoyama Castle Ruins 青山城跡
Shioujiyama Mountain 四王司山
Katsuyama Residence Ruins 勝山御殿跡
Sumiyoshi Shrine 住吉神社
長府は1月半前にまわって、主要な所は見たと思っていたのだが、今回、広島、山口で毛利氏や大内氏所縁の史跡をまわっていると次々に行かなかった史跡が出てきた。非常にマイナーな所は対象から外すのだが、興味がわき、どうしても行きたくなった所に絞って訪問する事にした。
Katsuyama Castle Ruins 勝山城跡
勝山城は大内氏最期の当主、大内義長 (大友宗麟の弟)が毛利元就と最後の戦いがあった所。厳島の戦いで、毛利元就が陶晴賢を撃ち、大内氏の居城がある山口まで攻め上って来た時に、大内義長は高嶺城に立て篭もった。(4月x日に訪問済み) 義長は守りきれずに山口から長府に逃れて来て、この家臣内藤隆世の居城の勝山城に立て籠もる。毛利勢は攻めあぐね降伏勧告を出す。内藤隆世がこの降伏勧告に自刃し、義長の助命を要求。義長は長府の功山寺 (前回訪問済み、功山寺に義長の墓があった) に下山するも、毛利勢に包囲され自刃、大内氏がこれで滅びる。
勝山城跡は標高361mの勝山の頂上にある。登山道が二つある。近道と看板が出ている方を選んで登る。相当急な坂続きだ。途中で岩場に出て、そこで道を間違えてしまった。岩場を道らしき所を進む。とうとう道が無くなり迷ってしまった。兎に角、上に登れば山道に出るだろうと岩場を登る。ロッククライミング並みの切り立った岩場を緊張しながら登り、やっと山道に戻れた。
山頂の城跡には曲輪跡や石垣が残っている。
この山頂まで数ヶ所展望台があった。山道は林で覆われて何も見えないのだが、この様な展望台に着くとパッと視界が広がり素晴らしい光景に出くわす。写真では実際に見た素晴らしさは再現できないのだがいくつか載せておく。
ここには勝山だけでなく数多くの山が集まっている。勝山三山と呼ばれている。この勝山とその両側に尾根沿いに続いている青山(標高288m)と四王司山(標高392m)で構成されている。この2つの山にも大内氏時代に城跡があったと解説されていた。となれば登らずにはいられない。
Aoyama Castle Ruins 青山城跡
青山へは勝山から尾根沿いに一度下り、アップダウンを繰り返し、急坂はロープが張ってあるぐらいの場所を経て青山の頂上に至る。
頂上の城跡には石垣と竪堀が遺構として残っていた。大内氏の時代、この青山城は高森氏の居城であった。尾根沿いの隣の勝山城は内藤氏でお互いに不仲、隣同士はよくある話、そして結局、戦いとなった。前半は青山城高森氏が援軍を得て勝山城を包囲し形勢有利であったが、後半は大内氏が勝山城内藤氏に援軍を送り、青山城を圧倒的な軍勢で包囲し陥落させた。勝山城で大内義長の助命の為自刃した内藤隆世がその子孫。
尾根沿いにの山道に内藤氏と高森氏との戦いの場所があった。丁度、両城の中間点だ。
青山からも絶景。
先程登った勝山
次に登る四王司山
Shioujiyama Mountain 四王司山
次は三山目の四王司山に向かう。元来た道を途中まで戻り、四王司山への山道に入る。
山頂には神社があった。城跡に建てられている。標高392mだが、ここまで参拝に来る人がいるのだ。比較的綺麗になっているので、頻繁に手入れをしているようだ。
ここからの景色は九州の門司まで見渡せる。結構きつい登山だったが来て良かったと思う。
下山は別の道を通り、勝山の麓に戻る。ここにはまた別の城がある。幕末に築城されたものだ。
Katsuyama Residence Ruins 勝山御殿跡
幕末の文久3年(1863年)5月に長州藩は関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始し、その後6月にフランス軍艦の報復攻撃を受けた(下関戦争)。長州藩支藩・長府藩の藩邸(櫛崎城)は海岸沿いの場所で外国からの砲撃の恐れありとして、長府藩領内の男女が総動員され、わずか7ヶ月で勝山山麓に城を築いた同年6月28日から翌年にかけて行われた突貫工事により、勝山山麓に勝山御殿を築いた。文久3年(1864年)には、長府藩主の居城となったが、明治6年(1873年)に解体。
城跡は発掘後、綺麗に整備されて公園となっている。下から階段状に三の丸、二の丸、本丸(表)、本丸(裏)に続いている。
Sumiyoshi Shrine 住吉神社
今日はさすがに疲れた。3つの山を登り合計で850m登ったログだった。今夜、また足がつらなければ良いのだが.....